今回100歳で亡くなった第39代米大統領ジミー・カーター氏の功績を称え、前編・中篇・後編の3回に渡って、生涯を辿っていく。前編は生い立ち、中篇と後編は彼が返還を実現したパナマ運河と時の米政権に焦点を当てる。
前回 2024年12月29日付
https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1989096857&owner_id=32437106
2024年11月19日付 三次市甲奴町との交流
https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1988750066&owner_id=32437106
2025年1月9日、米国の首都ワシントンの大聖堂で第39代ジミー・カーター大統領の国葬が行われる。日本からは石破茂総理大臣の特使として、菅義偉元首相が派遣された。米国では、現職の大統領や経験者が、亡くなると、「国葬」を行う慣習がある。直近では、2018年に94歳で亡くなった第41代ブッシュ父の葬儀を、ワシントンの大聖堂で行った。当時同じ歳のジミー・カーター氏も、2023年11月19日に96歳で亡くなったロザリン夫人と共に出席していた。カーター元大統領の訃報が伝えられた2024年12月29日以降、全米各地で反旗が掲げられている。伝統的に、大統領経験者の葬儀は、国喪の日に定められ、証券取引所は休場する。今回はカーター氏に哀悼の意をささげるべく、功績を辿っていく。
第1章 大統領経験者として最長寿記録 癌との闘い
カーター氏は、大統領経験者として史上最高齢を記録した。退任からの年数43年11ヶ月も最長記録だった。彼の在任期間中副大統領を勤め、2021年4月19日に93歳で亡くなったウォルター・フレデリック・モンデール(1928年1月5日生まれ)元駐日大使も、退任40年の記録を持つ。歴代大統領・副大統領の退任後の年数記録は、共に1位と2位になる。なおモンデール氏は、1993年から1996年に渡った駐日大使時代、沖縄県普天間飛行場の返還合意を承諾したことでも知られている。
写真=ジミー・カーター大統領とウォルター・モンデール副大統領 1976年 米ニューヨーク・シティ マディソン・スクエアーガーデンにて 掲載元 BBC NEWS 2021年4月20日付
https://www.bbc.com/japanese/56811507
カーター氏の国葬にて、現職のジョー・バイデン大統領が弔辞を述べる。12月29日に、ジョージア州の州都アトランタにあるNGOカーター・センターから、米領バージン諸島にてお正月休暇に入ったバイデン大統領の下に訃報の連絡が入った。彼はただちに声明を出した。「米国と世界は卓越した指導者、政治家、人道主義者を失った」と哀悼の意を表した。トランプ次期大統領は自身のSNSで、思いを書き込んだ。「哲学的、政治的に意見が全く合わなかった」と認めたうえで、「カーター氏が米国をより良くするために懸命に働いたことには最大の敬意を表したい」と綴った。
詳細 現職バイデン大統領とトランプ次期大統領のコメント 読売オンライン 2024年12月30日付け
https://www.yomiuri.co.jp/world/20241230-OYT1T50082/
ジミー・カーター氏は、庶民的な活動家としての顔をもつ。常に人々の気持ちを汲み取り、笑顔を絶やすことがなかった。「カーター・スマイル」として、語り告がれている。日本とも縁が深かった。始まりは、大統領在任中1979年の梅雨時だった。6月24日から29日にかけて6日間の日程で、来日した。
以下 カーター氏の下田訪問記 きままに伊豆下田調べ
以下 12分から17分頃の公演の模様を要約
27日には、日米和親条約の締結地、静岡県伊豆の下田にて、市民とタウンミーティングに望んだ。当時ファーストレディーを務めるロザリン夫人と共に、1967年生まれの11歳末娘エイミーと共に、市民の前に顔を出した。少雨の最中、下田中学の体育館にて、対話集会を開く。民主主義を貫く立場として両国が共に歩む必要性を訴えた。第2次石油危機を念頭に置き、節電の意識も呼びかける。市民と対等な目線に立つべく、小学生から80代の高齢者まで、16名の質問を受け付けた。アメリカで盛んなスポーツについて触れている。当時現役で活躍していたプロ野球選手・読売巨人軍の王貞治の名を上げていた。世界的に人気なサッカーが、米国でも盛んになっているとも述べている。彼自身「55歳という大変年寄りですが、毎日スポーツを楽しんでいます」と語った。
また子育て中の女性から、カーター夫妻の末娘当時11歳のエイミーについて聞かれると、笑顔がこぼれた。「結婚して21年立って生まれた子供です。非常にかわいくて、膝元に置いています。7年から8年立つと、若い男性に恋をして、やがて離れていくことになるでしょう。我々両親としては、その瞬間を訪れてほしいと思います。我々非常に密接な家族でして、すでに孫が3人おります。男の子が二人と数ヶ月前女の子が生まれました。家族の仲がいいということは、人間形成で大変重要です。日本は家族が密接で、社会的に素晴らしく、アメリカ人は尊敬しています」
(VTR映像17分ごろ)地元の高校生は、英語にて質問をした。すると、カーター大統領は「あなたの英語は完璧です。素晴らしいです」と真っ先にほめ言葉を与えた。続いて「あなたのような若い方が、国際関係に興味を持つことはとてもいいことです。通訳として国連で働かれたらいいと思います」
質問者は、笑みがこぼれ、口元に手を当てた。カーター氏は、打って変わり、真剣な面持ちで話した。「先日、オーストリアのウィーンでもって、ブレジネフ書記局長、その他の要人と核兵器廃絶について話し合いました。明日から日本、カナダ、英国、イタリア、その他にEC(EUの前進組織)の組織の関係者と理解を深めることで話し合います。我々指導者だけにその仕事を任せるのは間違いです。皆様方も、我々と同じように戦争や復讐ではなく、平和と自由のため、お互い努力することが必要です。新聞や報道も自由であることが必須です。皆様もアメリカにきていただいて、出来れば私が在任中に訪れていただければ、ホワイトハウスにて客人として迎え入れます」
実は、訪日前の6月18日に、オーストリアの首都ウィーンにて、ソ連のブレジネフ書記局長との間で「戦略兵器制限交渉(第2次)/ SALT・�供廚猟完�式典に臨んでいた。結果的に同年12月のソ連によるアフガン侵攻に伴い、アメリカ議会が批准を見送った。
質問者から「thank you very match!」と言葉が返されると、拍手喝采が巻き起こった。翌28日から29日に、赤坂迎賓館にて第5回東京サミットに出席した。翌1980年に急逝した大平正芳氏が議長を勤めていた。当時、同時期に開催されたOPEC総会を意識して、1979年に起こった石油危機が議題に上った。石油のエネルギー輸入量を減らし、代替エネルギーを活用する方向で一致した。
カーター氏は退任後の1984年に米大統領経験者として初めて広島へ訪問し、慰霊碑の前で手を合わせた。広島に原爆が落とされた日、カーター氏は士官学校の生徒だった。海兵隊勤務時代に被爆した経験から、核廃絶運動を誓った。新たにカーター・センターの代表者としても広島を訪れた。1990年10月21日のことである。現在の広島県三次市甲奴町にて、カーター・センターが保管していた同町出身の鐘楼を返還するために直接足を運んだ。実のところ数奇な運命を辿っていた。戦時中金属類回収令に伴い甲奴町千童(ひち)にある正願寺の鐘が、国の元へと渡った。日本軍に解体されずに保管され、そのまま終戦を迎えた。金属資源として連合国側から接収され、イギリス本国へと渡った。持ち主がイギリスからアメリカへと渡り、保管に苦労したのか、1985年にオークションに出す。地元アトランタ日本人商工会のメンバーが、戦時中に接収された鐘だと聞いて、ただちに資金を募り、落札した。日米友好の架け橋として、落札費用を捻出し、無償にて、日本式庭園をオープンするにあたって、カーター・センターに寄贈したのである。センターの職員は、鐘に彫られた文字名から出所を突き止め、甲奴町に連絡を入れた。カーター氏は、返還に当たる1990年に続き、1994年の7月にも同町を訪れ、七夕の日にロザリン夫人と共に、お堂の鐘を衝いた。同年5月には、町の文化交流を目的とした施設「カーター・シビックセンター」がオープンしていた。地元では、お礼の意味を込めて、カーターの名を冠した施設名がつけられる。野球が行われる施設は「カーター球場」という。2024年11月4日には、100歳のお祝いの意味を込めて町が主催した「カーター・スマイルラン」には、幅広い年代の方が参加した。日本時間2024年12月30日の朝方、逝去の報を受けて、町内のカーター・シビックセンターにて、記帳を受け付けた。2025年1月7日時点で387人から寄せられている。
詳細 中国新聞 2025年1月8日付
https://www.hiroshimapeacemedia.jp/?p=148370
第3章 カーター氏が在任中取り組んだエジプトとイスラエル間で続く平和条約
カーター氏は、自信の体が続く限り、精力的に活動を展開した。90代になっても、地元のパプテスト協会にて日曜学校の教師を務めていた。コロナ前の2019年、95歳になって、日曜大工を続けていたのである。地域に根ざした活動から、庶民派としても親しまれてきた。2025年1月4日に、地元の沿道を霊柩車が巡回すると、多くの市民の出迎えを受けた。小さな国旗を身につけ、敬礼する人々の姿があった。カーター氏が、少年時代両親を含め家族と過ごしたピーナツ農場前で一端停止した。彼自身、事業を引き継ぎ、成功を収め、政治家の道へと進んだのである。米国独立以来、カーター氏までの大統領の数に因み、地元の協会で、39回の鐘が鳴らされた。その日の夜、NGOカーター・センターのある州都アトランタの施設に安置された。7日午前まで一般客の弔問を受け付ける。やがて飛行機でワシントンへ渡り、連邦議会の議事堂に移動する。現地時間1月9日に、ワシントン大聖堂で葬儀が執り行われた。存命中の歴代大統領が一堂に介する。第42代ビル・クリントン氏、第43代ジョージ・W・ブッシュ(子)氏、第44代バラック・オバマ氏、第45代を務め、次期47代として大統領に返り咲いたドナルド・トランプ氏である。着席した際、オバマ氏とトランプ氏が談笑する姿がカメラに捕らえられていた。またトランプ氏の下で、副大統領を務めたマイク・ペンス氏も出席した。彼は、2020年の選挙戦にて、バイデン氏の勝利を覆すように圧力を受けたと明かしている。退任後に一転してトランプ氏を批判したものの、葬儀の場では、過去のことに触れず、握手を交わした。第42代クリントン政権で副大統領を務めたノア・ゴア氏とも対面した。ゴア氏は、2000年の大統領選挙戦にて、副大統領からの昇格を狙ったものの、ブッシュ子に接線の末に敗れた。退任後、環境活動に身を投じ、2007年にノーベル平和賞を受賞している。カーター氏と同じように、退任後も脚光を浴びた政治家だった。
式典で第46代バイデン大統領が弔辞を読んだ。「カーター氏との友情と彼の人生から、人格の強さは肩書や権力よりも価値があることを学んだ」と謝意を綴った。「彼は大統領退任後、民間人として世界中で模範となる活動を展開し、人格と信念は自分自身から他者に広がっていくことを示した」と称えた。
カーター大統領の葬儀の模様 ELLE 2025年1月10日付け
https://www.elle.com/jp/culture/celebgossip/g63387420/jimmycarter-funeral-photos-250110-hns/
彼の在任時副大統領を務めたウォルター・モンデール氏の息子も弔辞を詠んだ。「われわれは真実を語り、法律に従った」と生前父から託された思いを述べた。
出席者の思いが一つになったのは、1976年の大統領選挙戦にて、カーター氏と争った現職ジェラルド・フォード氏が、引継ぎのために書いた手紙である。息子スティーブンさんが代読した。「ジミーと私は親友としてお互いを大切にする前から、ライバルとしてお互いを尊敬していた」と一端言葉を切った。「1976年の選挙結果が私の最も深く永続的な友情の一つをもたらすことになるとは、私は知る由もなかった」と続けた。最後に「(天国での)再会を楽しみにしている」と読み上げた。
詳細 弔辞について REUTERS 2024年1月10日午前9時38分付
https://jp.reuters.com/world/us/GK7UFPDXUFJFLDFJF5GDEIKCWM-2025-01-09/
カーター氏の遺体は、翌日には故郷ジョージア州プレーンズに戻り、2023年11月19日に亡くなったロザリン夫人の横に埋葬される。
各国の首脳から功績を称える声が寄せられた。イスラエルと平和条約を45年間遵守するエジプトのシシ大統領は、12月30日に一報を受けて、思いを語った。「彼の人道的な活動は模範だった」と評価した。続いて「人類に奉仕してきた著名な一人として記録されるだろう」と敬意を表した。エジプトと外交関係を築くイスラエルのネタニアフ首相は、12月30日に自身のX(旧ツィッター)でコメントを発表した。「和平条約は半世紀近く維持され、未来の世代に希望をもたらしている。カーター氏が果たした役割は忘れることはないだろう」と感謝の意思を示していた。
詳細 エジプトのシシ大統領とイスラエルのネタニアフ首相のコメント 毎日新聞 2024年12月30日付
https://mainichi.jp/articles/20241230/k00/00m/030/276000c
エジプトは、過去にも相次いだガザを実効支配するイスラム教スンニー派組織ハマスと、ユダヤ教イスラエルとの戦闘の仲介役を務めてきた。直近では2014年7月8日から始まったイスラエル軍のガザ侵攻に伴い、真っ先に仲介国として名乗りを上げた。8月26日に停戦へ導き、2014年10月12日首都カイロで支援国会合を開催する。停戦直後の2014年9月1日、ガザ地区の一般市民の犠牲者は158人(国際連合推計では2104人)、イスラエル側の死者は73人(うちイスラエル軍66人、民間人7人と明らかにされている。
2023年10月7日、ハマスの戦闘員による越境攻撃でイスラエル人の犠牲者の数が大きく膨らんだ。イスラエル政府がハマス殲滅を掲げている以上、エジプトと共に、アメリカ、カタールが入った停戦交渉は難航している。エジプト側も、イスラエルとの関係見直しを迫った。今両国の間の平和条約の意義が問われている。
第4章 ボスニア紛争の調停役を務める。90代以降癌との闘い
カーター氏は、実のところ現在宗派内で対立しているアメリカ南部で勢力を誇るキリスト教のパプテスト派(米最大の保守派プロテスタント教派)出身である。1845年に奴隷制度維持を主張して、パティキュラー・パプテスト派から分離した勢力である。保守的な考えを抱き、男性優位の社会を築く。パウロ書簡にある女性の男性への服従義務を信仰告白に明記している。信者の中でも、ジミー・カーターは異端だった。人種差別撤回、男女平等を理想として掲げていた。大統領としての任務は1977年1月20日から1981年1月19日までの1期4年にとどまった。彼の功績は、大統領時代の人脈を生かして作り上げた人権擁護への活動にある。1982年に地元プレーンズに程近いジョージア州の州都アトランタに、NGOカーター・センターを立ち上げた。民主主義と人権擁護を目的に活動し、紛争地域へととび、和平の機運を高めたのである。1994年に旧ユーゴスラヴィア内で起こったボスニア紛争の際、自ら調停に乗り出した。クロアチア人及びボスニア人と対立するセルビア人の間に入り、停戦合意をとりつけた。1995年11月21日に、アメリカのオハイオ州デイトンに、ボスニアの国家としての行方を決める重要な取り決めが行われた。当時の米クリントン政権の第63代ウォーレン・クリストファー長官が中心となり、国作りを進めるうえで、それぞれの民族の主体性を尊重する。クロアチア人及びボスニア人が中心の「ボスニア・ヘルツェコヴィナ連邦」と、セルビア人が運営する「スルプスカ共和国」の2国で構成する連邦国家としての構想がまとまった。12月14日にフランスの首都パリにて、3つの民族の代表者が正式に文章に調印した。
写真=デイトン合意による国家図 掲載元みなののんびり旅ブログより
https://ameblo.jp/mina-a0619/entry-12071816630.html
将来の民族紛争を抑止するべく、国会の議員数においても3つの民族を均等に配分する。国家元首に関しては、「大統領評議会」にて、3つの民族がそれぞれ一人ずつ代表者を出しあう。大統領は、それぞれの民族ごとに1期8ヶ月、2期16ヶ月と決められた。大統領評議会は1期4年、再選はない。紛争が終結して30年、民族ごとに不和を抱えながらも、歩んでいる。
大統領退任後、アメリカの特使としても活躍したジミー・カーター氏は、この10年癌との戦いだった。2015年8月12日、肝臓の一部を切除する手術を受けた際、他の部位にも癌細胞が見つかったことを明かした。父親はすい臓がんにより58歳で他界し、弟や妹も同じ部位の癌で命を落とした。彼自身癌家系との認識はあったという。皮膚がんの一種メラノーマ(悪性黒色腫)が、転移したとみられる。幸いにも本人は、手術が上手くいき、2016年にはがん細胞が消失したと報告した。経過観察を受けながら自宅で過ごし、日曜大工を生かして、1976年に出身地ジョージア州で始まった家をたてるボランティア活動「ハビダット」にも参加した。95歳時には、自宅で転倒して、顔面を縫う怪我を負った。高齢でひときわ健康に気を使う中、人生の最後を意識する。98歳4ヶ月を迎えた2023年2月18日、NGOカーター・センターを通して、余生を自宅で過ごす「ホスピスケア」を受けると明らかにした。追加の治療を受けず、痛みを緩和することを目的とする。専属医の下で、車椅子から離れずに、毎日を送っていた。2023年11月19日に、77年連れ添った妻ロザリン・カーターを亡くした。1
写真=結婚75周年となる2021年にインタビューに応じる夫妻 掲載元 英語サイト
https://goodjiveet.best/product_details/66901547.html
写真=海兵隊時代21歳のカーター氏とロザリン夫人 掲載元 英語サイト
https://goodjiveet.best/product_details/66901558.html

11月29日に地元の協会で行った葬儀には、車椅子姿で現れ、静かに妻に別れを告げる。親族によると、精神的に落ち込みが激しかったという。野球観戦をしながらゆったりと過ごし、2024年10月1日に、100歳の誕生日を迎えた。地元プレーンズに程近い州都アトランタでは、記念コンサートが開かれる程、お祝いムードに包まれた。カーター氏の親戚は、自宅の庭で親族とささやかなパーティーを催した様子を、X(旧ツィッター)を通して公開した。次の目標は、10月16日に始まる米大統領選挙戦の期日前投票に参加することである。出身母体の民主党から出馬したハリス氏に郵送にて一票を投じた。親族も、最後の大統領選挙戦の投票になると覚悟していた。カーター氏自身は、女性大統領が誕生する瞬間を心から楽しみにしていたという。事前の世論調査から、接戦と報じられていた。蓋を開けてみれば、激戦州を含め、軒並みトランプ候補の勝利だった。有権者の間での隠れトランプの存在から、選挙人獲得数、312対226の大差がついた。現職副大統領のハリス氏は、敗れたとはいえ、結果発表直後となる11月6日に支持者の前では、いつもどおり気丈に振舞った。若者らには「民主主義」を続けること、「諦めないで!」と呼びかけた。カーター氏の願いを代弁するような演説だった。カーター氏は、次世代に希望を託し、12月29日に静かに息を引き取った。
大統領の在任期間は1977年から1981年までの1期4年、人権外交を掲げ、冷戦の時代、ソ連に配慮しながら取り組みを始める。当時28代ウッドロウ・ウィルソン大統領の「宣教師外交」を再現した。南アフリカでの黒人差別「アパルトヘイト」を批判し、軍事と共に物資面の援助を停止する。在任1年目となる1977年には、パナマのトリホス大統領との間で「新パナマ条約」を締結し、1999年の期限を持って返還するとの文章に署名した。中東情勢にも積極的に関与する。1979年3月26日、エジプトイスラエル平和条約の仲介役を務め、より外交面で影響を及ぼしたのである。1979年には、中華人民共和国と国交を開いた。他国との協調性を重視したとはいえ、アメリカ国民からは、期待はずれとの審判が下された。当時、ベトナム戦争の介入よる戦費が嵩んだことによるインフレを抑制できず、経済は落ち込んだままだった。1979年には、親米のイラン王国が、イスラム原理主義者のホメイニによる反米のイスラム共和国へと変質した。当時のイラン王国のアメリカ大使館は、革命軍によって包囲され、人質をとられたのである。ベトナム戦争の介入に伴う兵士の犠牲を避けて、カーター大統領は手をこまねいていた。カーター政権を弱腰と判断したソ連は、アフガニスタンに侵攻し、新たに影響力を拡大した。アメリカ国民から早期退陣を求める声がやまず、1980年の大統領選挙戦にて、共和党のレーガンに敗れ、ホワイトハウスを後にした。
第5章 生い立ち 州知事時代
1924年10月1日、ジョージア州プレーンズにて、ピーナッツ農家を営む家庭の第一子として産まれた。長男として家業を継ぐ役目を担いながらも、海兵学校へと進んだ。ジョージア工科大学にて理学の博士号を取得し、海兵学校時代は技師として活躍する。1946年7月に、卒業を待って、77年に渡って添い遂げるロザリン・スミスと結婚した。電子工学の知識を生かして、原子力潜水艦の開発推進プログラムを担当する。時は第2次大戦後、戦勝国との間では、米英仏を含めた資本主義陣営と、旧ソ連が取り込んだ社会主義陣営との間で二つに分かれていた。米ソとの間では、軍拡競争が始まる。
写真=海軍時代のジミー・カーター氏 掲載元 英語サイト
https://www.threads.net/@iamreginaasaba/post/C9_Ue20O1R5?hl=ja
海軍として勤務時代、後の人生を左右する出来事が起こった。1952年12月12日にカナダのチョーク・リバー試験研究所にて、試験原子炉NRXで原子炉が暴走したのである。燃料棒が溶融する原子力事故の処理に当たった際、被曝した。幸いにも健康に著しい被害はなかった。1961年12月に海軍を大尉の地位まで上り詰めて退役した。一時的に収入が途絶えたことにより、贅沢はできず、慎ましく暮らすことを意識した。低所得者向け公営住宅に移り住み、妻と共に公共図書館に通った。資料を読み漁り、家業のピーナッツ栽培のノウハウを獲得し、経営者となった。
一躍ビジネスに成功すると、自らの理想の世界を実現するべく、政治の世界に打って出る。地元ジョージア州の上院議員を経て、州知事へと上り詰めた。早速公約通り、行政改革に打って出て、人種差別の撤廃、貧富の差の解消に取り組んだ。海軍を退役した後、低所得者層の住宅で暮らした経緯から、イエス・キリストの「神のもとの平等」の理念に立ち返り、実行に移した。広大なアメリカの一角ジョージア州の改革を、国全体で執り行うべく、1976年には大統領選挙戦に出馬する。よりリベラル層が集る民主党から公認を得て、共和党の現職フォードと一騎打ちになる。ネットが普及していなかった時代、米南部のジョージア州知事を務めていた彼は、無名の存在だった。「Who is ジミー?」の言葉が、有権者の間でささやかれるほどだったのである。当時はベトナム戦争の介入失敗により、アメリカの威信が低下していた。帰還兵が精神錯乱を起こすなど、社会的にも不安の種が尽きなかった。政権を担う共和党側も、有権者から信頼を失っていた。1974年に共和党による民主党本部の盗聴疑惑が取りざたされた「ウォーターゲート事件」により、ニクソン大統領が、2期目の最中突如辞任したのである。後任として副大統領から昇格したフォードは、事件の真相究明を願う国民の声を無視し、前任者ニクソンの追及を拒み続けた。国民は、フォード政権に失望し、よりクリーンで、明るい雰囲気の人物に、救いを求めるようになった。まさにジョージア州知事として、短いながらも人種に問わずに歩み寄り、格差のない社会を訴えたカーター氏が次期大統領として適格だったのである。次章以降、在任中から他退任後も続いたアメリカの大使としての役割から、人権擁護活動について紹介する。
ログインしてコメントを確認・投稿する