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2024年06月26日21:06

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UEFA EURO2024企画(4)アルバニアの歴史1、先史時代から古代ローマ帝国を挟み中世まで、15世紀の民族的英雄スカンテルベク グループB 最終3節 アルバニア 対 スペイン戦

2024年元旦で起きた地震で、妻と子供を亡くした一人の男性が、2018年まで暮らしていた神奈川県川崎市で酒屋として再出発を決意した。被災した輪島市は再液状化現象も重なり、復旧の目処は立っていない。ビジネス街の川崎市にて、新規の客を取り込み、いちからスタートを切る。https://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=266&from=diary&id=7915960

 <UEFA EURO2024企画(4)アルバニアの歴史1 先史時代から中世 グループB 最終3節 アルバニア 対 スペイン戦>

 前回企画(3)ウクライナ 対 スロバキア戦
https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1987863928&owner_id=32437106

 アルバニア関連 セルビアとの関係について
2022年4月27日24時更新 https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1982176133&owner_id=32437106

 アルバニア代表は、2大会ぶり2度目の出場である。直近の2022−2023UEFA NATIONS LEAGUEは、リーグBのグループ2で戦った。同組には、ウクライナへの軍事侵攻によりロシアの出場停止に伴い、3カ国の争いに変わっている。ホーム&アウェー方式のリーグ戦を行い、イスラエル(勝ち点8)、アイスランド(勝ち点4)に次ぎ、勝ち点2の3位だった。不戦敗のロシアが4位になり、次回2024−2025シーズは出場が認められても、一つカテゴリーが下のリーグCで戦うことになる。

 2023年3月から11月まで行われたEURO2024の予選は、5カ国が属するグループEに入った。4勝3分1敗(勝ち点15)の成績で、同勝ち点のチェコを、直接対決の成績で1勝1分で上回り、首位通過を果たした。3位ポーランド(勝ち点11)、4位モルトバ(勝ち点10)、5位フェロー諸島(勝ち点2)である。

 日本では馴染みが薄いアルバニアは、バルカン半島の小国である。面積約28,700平方キロメートル(四国の約1.5倍) · 2 人口. 約276万(2023年、アルバニア統計局) · 3 首都. ティラナ(約86万人)(2021年、ティラナ市統計)宗教は国民の58%はイスラム教、10%の割合でローマカトリック、7%が正教だった。今回紀元後のローマ帝国時代から一時は独立を果たした15世紀までの歴史を紹介する。

  写真 掲載元 世界散歩 World Walking https://worldwalking.net/travelinfo/spot/albania_tirana/
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写真=アルバニア国旗 掲載元株式会社さらご
https://www.sarago.co.jp/nfhtm/al.html
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       第1章 アルバニア人としての自覚 

 アルバニア人としてのアイデンティティは、紀元前から形成された。紀元前1000年頃から青銅器時代のイリュリア王国が、アルバニアの原点とされる。バルカン半島の西部に存在した王国は、歴史資料が少なく、全貌は詳しく分かっていない。人種は非・ヨーロッパ語族の祖先と混合し、現スロヴェニアの首都リュブリャナには壁画を残していた。部族社会で、年長者の会議によって、長が選ばれていた。牛や馬など家畜を育て、食肉用、または荷物の運搬用として使用した。紀元前5世紀には、現スロヴェニアのサヴァ川周辺まで居住域が広がった。紀元前4世紀に、部族の長が絶大な権力を持ち、最初の王とされるバルデュリスは、指導力を発揮した。当時のイリュリア王国の主要都市は、リッソス(現アルバニアのレジャ)、エピダムノス(別名ドゥラキウム、現アルバニアのドゥラス)があげられる。
紀元前359年、イリュリア王国はマケドニア王国に侵攻し、ペルディッカス3世を倒して領土の拡張に成功する。イリュリアが強大化するにつれて、周辺諸国も対抗するようになる。紀元前358年、マケドニア王のピリッポス2世(アレクサンドロス3世(大王)の父)との戦いでは敗北した。当時オフリド湖あたりまで支配権を失った。

 写真=オフリド湖の位置関係 掲載元 旅のデザインルームより
https://www.tabideza.co.jp/kaigai_easteurope/albania-macedonia-kosovo.html
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 続く、アレクサンドロス大王の時代でも、イリュリア王国との間では、互いに牽制しあっていた。紀元前335年にイリュリアの族長クレイトスがマケドニアに抗戦した末に敗退し、臣従の礼をとった。アレクサンドロスのペルシア遠征には、イリュリア部族の指導者と兵士とが同行している。
紀元前323年のアレクサンドロスの死後、イリュリアには独立王国が再興した。紀元前312年、イリュリア王グラキアスはエピダムノスからギリシア人を追放した。紀元前3世紀の終わりには、イリュリア王国は、現アルバニアの都市シュコドラ近くに首都をおき、アルバニア北部、モンテネグロ、ヘルツェゴビナまで領土を広げた。
ピネス王の摂政として、『イリュリアの女王』と称されたテウタが統治した紀元前231年から紀元前228年にかけて、イリュリアの海賊が盛んにアドリア海のローマ商船を襲った。古代ギリシアのポリスや周辺国は、海賊からの防御意識が高まっていた。イリュリア王国は海賊を庇護し、税の代わりに商品を収めてもらった。

アドリア海の覇権を巡る争いがやがて激化する。紀元前229年、ローマが、イリュリア王国に侵攻した。ローマは ネレトヴァ川周辺集落に侵攻して、海賊と戦い、厳しい罰則を下した。戦争は紀元前219年に終わった(第一次・第二次イリュリア戦争)。
紀元前180年、イリュリア王国内のダルマティア(クロアチアの領土)が。独立を宣言した。イリュリア最後の王ゲンティウスの時代、ローマの進軍を止められず、紀元前168年に首都スコドラ(現アルバニアのシュコドラ)の陥落(第三次イリュリア戦争)により滅亡した。ゲンティウス王は捕虜となり、紀元前165年にローマに連れ去られた。イリュリアはローマの配下に置かれ、解体される。王国の再興を阻止するべく、4つのローマ同盟国に分けられる。ローマに監視され、後に王国へ昇格した際、属州イリュリクムになる。イリュリア王国は消えた。

写真=イリュリクムの位置関係 A.Banana.S 2018年9月11日付
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       第2章 古代ローマ帝国の下で文化を受け継ぐ

関連 2021年10月31日付 第3章イタリアの首都ローマの民主化運動
https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1980736367&owner_id=32437106

古来共和制とはいえ、元老院から選ばれた皇帝は、絶対的権限を握り、市民を抑圧していた。紀元後6年、属州イリュリクムで、自治権を求め、大規模な反ローマ暴動が発生した。第2代ティベリウス皇帝によって鎮圧され、制裁をくらう。紀元後10年にローマ属州イリュリクムは、ダルマチアとパンノニアに分割され、行政としての権限が縮小される。民族的アイデンティティーはひっそりと受け継がれたものの、表立って活動はできない。ローマ帝国に従属を誓い、次第に同化していく。いつしかイリュリア人としての意識は薄らぎ、古代ローマ人と認識するようになる。3世紀にはクラウディウス・ゴティクスやアウレリアヌス、ディオクレティアヌス等のイリュリア出身者がローマ皇帝に即位した。
「イリュリア」や「イリュリア人」の言葉は、歴史記録からも姿を消す。ひそかに文化が受け継がれ、19世紀前半のナポレオン・ボナパルト時代に一時使われた。ナポレオンは、ハプスブルク家の領土だったスロベニア、クロアチア、ダルマチアをフランス帝国に編入する。1809年から1813年まで4年間、フランス領イリュリア州として統治した。ナポレオンが去った後のヨーロッパの体制を決める1814年から15年に渡ったウィーン会議によって、ダルマチアを除く地域はオーストリア帝国に復帰した。1849年の二月革命までオーストリア帝国の中のイリュリア王国として残った。1867年のアウスグライヒ(妥協を意味する)により、帝国領のハンガリーを格上げに伴い、二重帝国にった。オーストリア・ハンガリー帝国では、イリュリアの名称は消えた。

同じ19世紀のヨーロッパの民族運動の中でも、イリュリアという名前が登場した。南スラブ民族の自立運動が起こり、特にクロアチア人の間でイリュリアの再興を求めるイリュリア運動がおこった。 ただし、この運動は誤った歴史認識に基づいているとされ、後に衰退した。
演劇や文学では、イリュリアはしばしば半ば空想の国として登場する。その例として、ウィリアム・シェークスピアの『十二夜』、ジャン=ポール・サルトルの『汚れた手』、ロイド・アリグザンダーの『イリリアの冒険』などが挙げられる。
西暦397年テオドシウス帝によって、東西に分割されると、現在のアルバニアを含むドリヌス川以東領土は、東のビサンツ帝国に組み込まれる。西暦732年に皇帝レオ3世が、製造破壊論争に終止符を打つまで続く。西暦1054年にキリスト教の東方正教会とカトリックに分裂すると、アルバニア南部は正教会へ、北部はローマカトリックと結びついた。



ビサンツ帝国は、1000年あまり存続したとはいえ、時代と共に王の力を失い、分権的な社会だった。西暦1190年に、アルバニア人のアルコン・プロゴンにより、ヴェネチア支配地域のすぐ北東と北のクルヤ周辺に公国が築かれた。先住民のプロゴーニ家によって統治され、代代受け継がれる。息子のグジン、その息子ディメトリアス(ディミテール)が、後を継ぐ。アルバノン公国(現在のアルバニアを差す)は、ビサンツ帝国から大幅な自治権を獲得すると、第4回十字軍により、コンスタンティノプールが陥落すると、転機が訪れる。東ローマの貴族は、小アジア西部のニカイア帝国、小アジア北東部のトレビゾンド帝国、バルカン半島南西部のエピロス専制侯国を含め、亡命政権を立てる。諸国が凌ぎを削る時代、コンスタンティノプールを巡る攻防が続く。諸国入り乱れる中、アルバニアは、1204年にアルバノン公国として独立宣言をした。絶対的な君主には恵まれず、1216年ごろ、イピロスの統治者ミカエル一世コムネノス・ドゥカスにより、北方のアルバニアと共に現在の北マケドニアは平定された。首都クルヤまで進軍を許し、アルバノン公国は終焉する。

写真掲載元 https://www.wikiwand.com/
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統治者は短期間で変わる。プロゴーニ朝最後の君主デメトリオス亡くなると、イピロス専制君主、ブルガリア帝国へと領有権が移る。西暦1235年には、第4次十字軍が建国したニカイア帝国の配下に入った。アルバノン公国としては、占領者が入れ替わっても、引き続き自治権を獲得していた。公国の主は、デメトリオスの未亡人セルビアのコムネナ・ネマニッチと結婚したギリシャ・アルバニア人の領主グレゴリオス・コモナスに移った。カモナスの次は、その娘と婚姻関係を結んだ地元の帰属ゴーレム(グラム)の指導下に置かれる。西暦1256年から1257年の冬に、ビサンチンの政治家ジョージ・アクロポリテスに併合されると、ゴーレムは歴史記録からも姿を消す。アルバノン公国の歴史は、ジョージ・アクロポリス年代記に書かれている。

 写真 掲載元 ヘブライ語 vs フォークダンス バルカン半島のユダヤ人の歴史より
http://folkhebr.seesaa.net/article/Kadman-8-15.html
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   第3章 アルバニア人として、行動を起こす

14世紀には、セルビア王国のステファン・ドゥシャンが、アルバニア一帯を支配する。西暦1278年から1368年にかけて、現在のアルバニアの領土を含め、アンジュー家カールを君主とするアルバニア王国が築かれていた。アンジュー家のカールは、コンスタンチノプール(現イスタンブール)を目指して、進軍するものの、兵力不足から挫折する。西暦1280年から1281年にベラトの包囲戦に敗れ、領土を失った。イピロス(現在のギリシアの地方)専制君主と、ニカイア帝国を含め、ビサンツ帝国は大きく影響力を失っていた。1261年にニケーア帝国のミカエル=パライオロゴスはビザンツ帝国を再興し、パライオロゴス朝皇帝ミカエル8世として即位した。アルバニア王国は、他の国々に圧迫され、台頭する機会を失っていた。二カイアとイピロスの板ばさみにあい、やがて再興したビサンツのミカエル8世が、アルバニア王国に兵を向けて、屈服させた。
より王権が強いセルビアが、アンジュー家の領土を侵食する。ドゥシャン王時代、アルバニア人は傭兵として、オスマン帝国との戦いで投入されていた。

 詳細 https://history-maps.com/ja/story/History-of-Albania#Medieval-Period-

西暦1430年に現アルバニアのクルヤ(北西部の都市)において、カトリック信者の貴族ジョン・カストリオティが、イスラム教のオスマン帝国に反旗を翻した。オスマンに対して一時は、臣従し、イスラム教に改宗したのである。産まれながらのカトリック信仰を捨てきれず、反乱の機会をうかがっていた。イェニチェリと呼ばれる当時としては珍しい訓練された正規軍を擁するオスマン帝国に屈服する。1442年に亡くなると、ムラト二世によって平定される。

 オスマンに対する抵抗運動は、息子へと引き継がれた。現アルバニア人が、民族的英雄と称する息子のスカンデルベクが、立ち上がる。彼は、バルカン半島へ勢力を拡大するムラト2世に付き従い、ハンガリー王国やセルビア王国との戦いに従軍した。オスマンに従うことにより、自身の身の安全を守り、領土を死守する。1437年に、父ジョン・カストリオティが保有した領土(ティマール)を、オスマンから与えられた。領主として、税を取り立てる、また治安維持を担うなど、特権を認められ、権力を確かなものにする。基はカトリックの信者、イスラム教に対する抵抗を持ち続けていた。同じくオスマンの配下に置かれたハンガリーのフニャディ・ヤーノシュの反乱に刺激され、1443年にも領主として独立を図る。ニシュ(現在セルビア第二の都市)での遠征中に離反し、クルヤの守備帯から要塞を奪還した。キリスト教に再改宗し、オスマンへの聖戦を宣言した際、1444年3月1日に自らリーダーとなるレジ連盟を結成する。アルバニアの各首長やモンテネグロ、ヴェネチア共和国から司令官が、レジの大聖堂に集った。同盟結成が確認されると、ヴェネチア共和国、ナポリ王国、ローマ帝国の支援を取り付け、北アルバニアを平定する。1450年と1466年には、軍備を整え、支配地域の要塞化を進め、ムラト2世とメフメト2世が派遣した鎮圧部隊を撃退した。帝国の軍人時代、スカンデルベクが指揮した戦いは、負けしらずとの逸話が残る。指導力の高さから、帝国内でも軍人として重宝されていたのである。

写真=スカンデルベクの肖像画
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領土拡張のためには、必要な軍人とはいえ、出自はカトリックが根付くヨーロッパ、面従腹背の姿勢をとっていた。オスマンは、領土が拡大するにつれて、スルタンの監視体制が行き届かなかった。反乱を未然に抑制するべく、キリスト教の信仰は一定程度容認していた。

 スカンデルベクの統治した領土が、アルバニアの原型といえる。彼の死後12年は独立を維持したものの、次第にオスマンに攻略され、1480年に併合された。アルバニア人は、帝国内で一定の地位を得るべく、イスラム教へと改宗する。

アルバニア人は、今なお公国時代の要塞が残り、国内の観光資源の一つとなった。確かにオスマン時代は負の歴史として語られる。今なおヨーロッパでは、ボスニア・ヘルツェコヴィナと共に、数少ないイスラム教の国家として、歩んでいる。時期を改めて、中世以降の歴史を紹介する。

 
<グループB アルバニア 対 スペイン>

 グループB最終節 アルバニア(勝ち点1)対 スペイン(勝ち点6)戦が、ドュッセルドルフで行われる。過去の両者の対戦成績は、スペインの8戦全勝だった。直近では2022年3月の国際親善試合にて、スペインが2対0で勝利している。右エンドにスペイン、左エンドにアルバニアが入り、アルバニアボールでキックオフした。

 前節からスタメン10人を変更しているスペインだが、サッカーの質は変わらず、ショートパスを繋ぎながら、スペースを探る。アルバニアは、2ボランチに入ったラマダニとアスラニが、中盤をしっかり固めて、守りを強化する。早速スペインは、右サイドバックのヘスス・ナバスがクロスを上げると、2列目からボランチのメリーノが、ヘディングシュートを打った。しっかりとミートし、左ネットにボールが向うと、体を左に倒したGKヌトラジャがセーブした。こぼれたボールを、センターバックのアイエティが、右側にクリアした。アルバニアDFは、トップのオセルのマークに集中して、メリノを見失った。
リズムを掴むスペインは12分、センターバックのラ・ポルトが、センターサークルの後ろ側から、中盤のスペースでパスを要求したトップ下のダニ・オルモにボールを送る。ダニ・オルモは、左足でボールタッチすると、体の向きを変えて、右斜めから走るサイドハーフのフェラン・トーレスに右足でスルーパスを送った。アルバニアの左SBミタイの裏をとったフェラン・トーレスは、左足のインサイドで狙い済ましたシュートを放った。体を右に倒したGKヌトラコシャの指先を抜けて、左ネットを鮮やかに揺らした。1対0.

写真=先制ゴール 掲載元 https://www.theguardian.com/football/live/2024/jun/24/albania-v-spain-euro-2024-live
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アシストしたダニ・オルモは、ボランチとセンターバックの間に入り、柔らかいボールタッチから、ワンタッチで、フェラン・トーレスにやさしいパスを出した。勢いが落ちたボールを、フェラン・トーレスは、走りながらダイレクトでゴールに流し込み、先取点を挙げた。

 前半15分時点でボール支配率はスペインの6割に対して、アルバニアは4割だった。アルバニアの2ボランチの1角ラマダニがボールをタッチして前を向いた際、スペインはボランチの1枚スピメンディがファウル寸前まで激しく肩を当てて、ブロックする。こぼれたボールを速やかに繋ぎ、両サイドへ展開する。アルバニアは、守備へ引き戻されることにより、スペースを開けてしまっていた。攻撃の綱は、突破力のある左サイドのバイラミである。スペインは、右サイドバックのヘスス・ナバスがドリブルをブロックした。

 押されているアルバニアは44分、ハーフウェー・ライン付近でセンターバックのシムシティが、左サイドのバイラミにボールを送る。斜め45度付近からバイラミは右足でトップのマナイを狙って、クロスを送った。相手にクリアされ、浮き上がったボールが、ミドルレンジで落ちていく。ボランチの1角アスラニが、右足でフィニッシュした。ライナー性のボールは、右ネットに飛び込んでいく。速やかに横飛びしたGKラヤは、両手でボールを叩き落した。瞬時に体勢を整え、大きく弾かれたボールに、速やかに駆け寄り、両手で抑え込んだ。球の勢いはついたものの、若干コースが甘かった分、キーパーの守備範囲に収まった。

 写真=ラヤのセーブシーン 掲載元英語サイト https://www.diariodeavila.es/galeriavisor.aspx?g=zf497b038-ac78-da0d-365662648c55799b&f=f7d2b79d-d4b3-e848-23f99981fb650d2a
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前半は1対0で、スペインリードで終えた。スペインが6割ボールを支配する中、アルバニアは2人のボランチ(ラマダニ、アスラニ)も下がって守備をする時間が多くなった。後半は、パス回しをするスペインから、プレッシャーをかけて、いかにミスを誘うか、鍵を握る。こぼれ球をフォローすることにより、速攻の機会が生まれる。

 後半はエンドが代わり、右にアルバニア、左にスペインが付き、スペインボールで再開された。

 スペインは1分、左サイドハーフのオヤル・サバルを追い越して、サイドバックのクリマルドが、クロスを上げた。ターゲットになったオセルが、アイエティを背負いながら、後ろに下がり、体を捻って、左足でシュートした。微妙に落ちていくボールに、GKヌトラコシャの反応はやや遅れた。わずかにゴール左の外だった。オセルは、柔軟性があり、ゴールが見えていない中、体勢を崩しながら、フィニッシュに結びつけた。
 アルバニアは9分、キャプテンのセンターバックを努めるシムシティが、センターサークルの後ろ側から、パスカットすると、ボランチの1枚アスラニに繋ぐ。アスラニは、左サイドのバイラミに出す。バイラミは、対面の右サイドバックのヘスス・ナバスを前にして、両足を跨いでフェイントをかける。後ろからダニ・オルモが戻り、ボールを奪取した。初めて狙い通りのカウンターへ結び付けたものの、シュートまでは至らず、チャンスを逃した。
後半13分、アルバニアを指揮するブラジル人シウビーニョ監督は、カードを一枚切った。トップのマナイを下げて、初戦に先発したブルヤを投入した。ブルヤは、スペースを狙うタイプのFWである。キックオフ当初からテクニカルエリアで熱く指示を送るシウビーニョ監督は、審判から1枚警告をもらっていた。一方16分にスペインのルイス・デ・ラ・フェンテ監督も1枚カードを切り、左ハーフのオヤル・サバルに代えて、フェルミン・ロペスをピッチに送った。前節から唯一先発していたオヤル・サバルを下げて、大会初登場のフェルミン・ロペスを投入したことにより、代表チームとして登録26人のうち第3GKを除く、25人を起用したことになる。18分、アルバニアはセンターサークルの右横で得たFKポジションに、ボランチのアスラニと右サイドバックのハリュウが付いた。スペイン側は、守備陣系を整えた際、意思疎通を図れず、マークの受け渡しにミスがあった。アスラニは、ワンステップ踏んで、ブルヤを狙って、パスを出した。フリーになったブルヤは、ランニングしながら、ピッチに弾んだボールを、振り向きざまに右足で合わせた。

写真=ブルヤのシュートシーン AP通信 掲載元英語サイト 
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右ネットに飛んだボールを、横とびしたGKラヤが辛うじて左手の指先に当てると、真上に浮き上がった。落ちていくボールを、ボランチの1枚ミケル・ミリーノが、ヘディングでゴールラインに出した。ブルヤは、若干体勢を崩した分、シュートの勢いが落ちていた。

 スペインは、本来先発の右ハーフのヤマルとトップのモラタを入れて、前線でより流動的に人もボールも動きながら、パスを繋ぐ。アルバニアは、マークを受け渡しながら、失点の機会を防いだ。トップのブルヤも、ドリブルするヤマルにプレスをかけて、ブロックした。

 写真=ヤマルのドリブルを阻止するブルヤ AP通信 掲載元 英語サイト
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ロスタイム1分、右サイドのライン際からのFKをアスラニが蹴ると、ゴール前にボールが入る。味方のセンターバックのアイエティにボールが当たってこぼれる。混戦の中、ブルヤは右足の裏でボールをコントロールし、左足のつま先でシュートを打った。左ネットに向うボールを、横飛びしたラヤが両手でしっかりキャッチした。
シュートをしたブルヤは、狭いスペースでボールをキープし、左足に持ち替えて、フィニッシュした。枠をしっかりとらえたものの、ラヤの手中に収まったのである。

 ゲームは、最小スコアでスペインが、アルバニアを下し、3連勝を飾った。

 写真=試合終了後の光景 掲載元 Sprts star
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一人一人のテクニックでは、本来控え組みのスペインに分があった。アルバニアは、ボランチのラマダニとアスラニが、中盤の底で構える。両サイドバックも守備に奔走した。攻撃に移る際には、キープ力のあるアスラニが基点となる。交代で入ったトップのブルヤは、キープ力とテクニックに優れ、2度の枠内シュートを放った。この日はスペインのGKラヤが当たっていた。持ち前の反射神経の良さと共に勘が鋭く、即座にシュートに反応する。普段はベンチを暖めている機会が多いものの、EUROで初起用され、能力の高さをアピールした。スペインは、途中から本来先発組みの左サイドを勤めるヤマル、トップのモラタが入り、よりパスワークがかみ合った。ドリブルでアクセントをつけるヤマルに対して、アルバニアは左サイドのバイラミがカヴァーした。交代で入ったブルヤもドリブルをブロックした。得点は少ないゲームとはいえ、終始見所が多く、緊張感が漂う展開だった。



 
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