mixiユーザー(id:5138718)

2024年05月20日16:34

9 view

もう一つのメインコンテンツ → 《復刻》 中世史私論 その148 「東国民衆の動き」

 結城合戦や嘉吉の変などの一連の騒乱は、支配層内部の権力闘争にほかならず、かつて足利尊氏と弟の直義(ただよし)が争ったときのような、はっきりとした政治路線の差異があるわけでもありませんでした。またおなじく権力闘争とはいえ、のちの戦国大名同士の戦いは、領国国家の形成という点で政治的にも経済的にも歴史の新局面を切り開いてゆく性質をもっていました。それらにくらべると、この一連の無騒乱は政策とかかわりなく、したがって民衆にとっても積極的な意義をもつようなものではありませんでした。

 じっさいこの騒乱期において、民衆がさまざまの面で力をつよめだしていたことは、断片的な史料からもうかがうことができると、専門研究者も指摘しています。その一つのあらわれは、武蔵金沢称名寺(しょうみょうじ)、下野(しもつけ)足利の鑁阿寺(ばんなじ)、相州円覚寺(鎌倉市)あるいは鶴岡八幡宮のような、武家の支持のもとに大きな力をもちつづけてきた関東大寺社領の崩壊の問題なのです。結城の城のすぐ南方にあった毛呂郷(もろのごう)は称名寺の重要所領の一つでしたが、古くから毎年80貫とされてきた年貢が、永享11年(1139)には20貫に低落し、それも地元の武士山川氏らにおさえられ、称名寺に送られたのは六貫余りにすぎなくなりました。ちょうど永享の乱のただ中でしたが、それは武士の横領というより、農民側の年貢納入を拒否する動きと深く結びついていたのです。

 鶴岡八幡宮領の武蔵佐々目郷(ささめのごう.埼玉県川口市)・矢古宇郷(やこうのごう.草加市)・上総佐坪(さつぼ)郷(千葉県長生郡)などでは応永の初め頃(14世紀末)からそうした動きが目立ちだし、検見(けみ.秋に作柄を検査し、年貢高を定めること)を拒否するとか、はじめから年貢の付加税という性質をもつ浮役(うきやく)を、年貢のなかから出すようにしてねらいたいなどと主張し、逃亡・強訴(ごうそ)・近隣「悪党」の引き入れなど、「自由之奸謀(かんぼう)」(法令を無視したけしからぬ行為)をくりかえすようになりました。

 今日の街だ市域にある山崎郷は、円覚寺の塔頭(たっちゅう.子院)黄梅院(こうばいいん)の所領でしたが、従来この郷から奉仕してきた長夫役(ながぶやく)は15世紀半ばごろには、「十ケ年に及び上らず」といわれるようになりました。東国では畿内などにくらべると、このころもまだ下人(げにん)を多く使う大経営がひろく残存していましたが、しだいに経営の集約化がすすみだし、領主側のとりたてる夫役(ぶやく)が農民にとって障害として強く意識されるようになってきました。山崎郷に関する史料は、長禄三年(1459)を最後として『黄梅院文書』から姿を消してしまうことからみると、黄梅院領としての実が失われたのでしょう。

 おなじころ、足利の鑁阿寺(ばんなじ)領の北武蔵にあった戸守郷(ともりのごう)では、西に位置する尾美野(おみの.埼玉県比企郡小見野)郷およびその南の八林(やつばやし)郷とのあいだで水争いをひき起こしていました。このあたりは関東台地のまっただ中の平坦地ですが、戸守郷の西側を南東に向けて流れ入間川に入る槻(つき)川から取水し、戸守で分水して尾美野・八林に送っていました。その分水堰の杭を戸守が打ちかえたとき、杭を高くして水をせきとめ、戸守の取水を多くしたため、尾美野・八林は水不足でなやまされるようになったというのです。

 そのこと自体はどこにもありそうなできごとですが、事件は武蔵の守護上杉氏に訴えられました。おそらく八林が上杉領だということと関係していたからでしょうが、大局的に考えると、これは守護が軍事を検断(けんだん.検察や断罪)とかかわりない民事紛争の調停に乗りだしたという点で新しい性質のことでした。守護がそれだけ領国支配を強めて来た点に注目するべきです。

 これに対し戸守郷の代官が、領主鑁阿寺に訴え出たことは当然のことですが、事件は尾美野代官が仲裁して妥協が成立しそうになりました。ところが、その約定(やくじょう)文書に、尾美野代官は印判をおしましたが、「老者(おとな)」が署判しないということで破談になりました。そのあとには守護方軍兵がが戸守にに強入部(こわにゅうぶ.強行立ち入り)するということで、戸守郷民は「当年ハ物忿(物騒)により候て、日々に一揆など申候間、用水のせき(堰)もせず候間、当郷にかぎらず耕作一円に不仕(つかまらず)候」といいだし、領主鑁阿寺に年貢はきまりの三分の一以上は出せないと主張しました。
 ここで興味深いのは、代官が仲裁者となってはいるものの、約定の当事者は「老者」という郷のおもだった人びとの集団であったことであります。また村同士の水争いがたちまち領主側に対する年貢減免要求に転化されるとともに、村人たちは守護兵力にたいしても一揆して抵抗するといった形がはっきりとみられたことであります。

 畿内近国の農村でみられた農民の地域的連帯、「老者」という有力農民を中心とした集団行動は、こうして東国の片田舎でも確実に展開しだしました。民衆はほとんど無意味とさえ思われる動乱のなかで、自分たちの立場をはっきりと主張しはじめていたのです。

※ 2023年5月3日・7日の投稿文をup to date.


参考文献

 『結城戦場物語』 永井義憲・林祝子(編) 古典文庫
 『関東公方足利氏四代 基氏・氏満・満兼・持氏』 田辺久子(著) 吉川弘文館
 『籤引き将軍 足利義教』 今谷明(著) 講談社選書メチエ

 『日本中世内乱史人名事典』
   佐藤和彦、錦昭江、松井吉昭、櫻井彦、鈴木彰、樋口州男共(編) 新人物往来社
 『世界大百科事典』 加藤周一(編) 平凡社
 『国史大辞典』 瀬野精一郎(担当編集)  吉川弘文館
 『日本中世の世界1 中世社会の成り立ち』 木村茂光(著) 吉川弘文館
 『日本の時代史』 全30巻 吉川弘文館
 『日本史大事典』 全7巻 平凡社
 『室町時代』 脇田 晴子(著) 中公新書


 明日は「年貢の銭納化」
5 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する

<2024年05月>
   1234
567891011
12131415161718
19202122232425
262728293031