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2024年05月19日04:49

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5月19日に亡くなった主な人々 後篇

1928年、ドイツの社会哲学者、マックス・シェーラーが53歳で死去。ルドルフ・オイケンの門下生。哲学的人間学の提唱者。初期現象学派の一人です。晩年、カイゼルリンク伯の英知の学校で、「宇宙における人間の地位」と題する講演をし、そこで哲学的人間学という哲学的研究の新分野として提案しました。彼によれば、現代はわたしたちが人間とは何かということを全く知らず、かつ、そのことを熟知している時代であるとされ、哲学的人間学は、人間が自身に抱く自意識の歴史について、現代その自意識が突然に増大し続けている事態を解釈するための学問とされます。この問題について、彼はその著書『人間と歴史』および『包括的人間学からの断章』において、人間の自己像の解釈を、「宗教的人間学」、「ホモ・サピエンス」、「ホモ・ファーベル」、「生の哲学における人間学」、「要請としての無神論における人間学」の五つに類型化し、それぞれに対して同等の現代的アクチュアリティを要求することによって答えようとしました。シェーラーは形式倫理学ではなく、現象学的な実質的価値倫理学を説きました。反心理学的で超越論的である点で新カント派の価値哲学と共通しますが、価値とは本質的に倫理学に属し、かつ、ただ妥当するものではなく、存在し、現に在るものだとします。これはニコライ・ハルトマンに影響を与えました。

1969年、アメリカの黒人ジャズテナーサックス奏者、コールマン・ホーキンスが肺炎で死去。スウィング・ジャズ時代を代表するミュージシャンのひとり。この世代のミュージシャンとしては珍しく、第二次世界大戦後はビバップの分野で活躍し、サックス奏者に限らず、多くの後進ミュージシャンに影響を与えました。1957年、教え子的存在であるセロニアス・モンクのリーダー・アルバム『モンクス・ミュージック』に、ジョン・コルトレーンやアート・ブレイキーと共に参加。
1958年には代表作でもあるハイ・アンド・マイティ・ホークを、古くから親交のあったハンク・ジョーンズらと録音。1960年前後には、トミー・フラナガン等と結成したレギュラー・カルテットで活動し、また、マックス・ローチやバド・パウエルのアルバムにも参加。1962年にはデューク・エリントンと共演。1963年には、ホーキンスの信奉者として知られるソニー・ロリンズと共演しました。
https://www.youtube.com/watch?v=hy9an5uIvek

1970年、歌手の岡晴夫が大阪府守口市での『帰ってきた歌謡曲』(読売テレビ)公開収録へ出演する直前に倒れ入院。肝臓がんのため東京都千代田区の病院で死去。満54歳没。本名は佐々木辰夫(ささき たつお)。 代表曲の一つである「憧れのハワイ航路」は本来小畑実が歌う予定で作られましたが、たまたま小畑が東京を離れていて、岡が譲り受けた経緯があります。その一方、岡が歌う予定で作られた「お富さん」は、完成前に岡がキングレコードを辞めたことで、当時新人だった春日八郎が急遽歌うことになり、結果として春日の代表曲の一つとなりました。
https://www.youtube.com/watch?v=avVzCPj35pE

1991年、ルポライター、評論家の竹中労(たけなか ろう、本名:つとむ)が肝臓癌のため千代田区の三井記念病院で死去。60歳。「夢野京太郎」「ケンカ竹中」「反骨のルポライター」などの異名を持ち、芸能界や政界に斬り込む数々の問題作を世に送り出しました。日本共産党から二度、除名されています。晩年、癌を患いますが、闘病しながら活動を続けました。
https://www.youtube.com/watch?v=n-y2V8W6GVQ

1994年、第35代アメリカ合衆国大統領ジョン・F・ケネディの夫人、ジャクリーン・ケネディー・オナシス(Jacqueline Lee Bouvier Kennedy Onassis)が非ホジキンリンパ腫に罹患したため、64歳で死去。ケネディの死後、世界でも有数の金持ち、アリストテレス・オナシスと再婚。いわば「男の"わらしべ長者"」。オナシスの死後、ジャクリーンはニューヨークで編集者の仕事につきます。初めはヴァイキング社(Viking Press)に勤めましたが、同社から出版されたジェフリー・アーチャーの小説『大統領に知らせますか?』が架空の世界におけるエドワード・ケネディ大統領暗殺を扱っており、これにジャクリーンがかかわっていたという報道がされたため、そこを離れてダブルデイ社(Doubleday)へ移りました。晩年のジャクリーンにとって友人であり、恋人であったのはベルギー出身のダイヤモンド商モーリス・テンペルズマン(Maurice Tempelsman)でした。テンペルズマンは妻と長く別居していましたが、離婚できなかったので、ジャクリーンと再婚することはできませんでした。
https://www.youtube.com/watch?v=FoLCNVCbqiA

1996年、浪曲漫談師の玉川ゆたかが肝臓ガンのため死去。55歳。浪曲を取り入れたボーイズスタイルの浪曲漫才グループ「玉川カルテット」の初代リーダー。メンバーで唯一、楽器を持っておらず、迫力ある声とメンバーを叩いてツッコむために持っていた扇子がトレードマークでした。メンバーの二葉しげるの「金も要らなきゃ 女も要らぬ 私ゃも少し 背が欲しい」は有名。
https://www.youtube.com/watch?v=FXS5cGazVc8

1996年、俳優の高橋悦史が膵臓癌のため死去。60歳没。1958年大学卒業後、TBSラジオ劇団養成所を経て、NHK俳優養成所に入り1960年卒業。NHKでは舞台や脇役俳優や声の吹き替え(飯沢匡脚本『ブーフーウー』の狼役等)の仕事に従事。1964年、本格的に新劇俳優を目指し、文学座付属演劇研究所に入り、卒業後、文学座研究生となります。1964年、NET『徳川家康』にテレビ初出演。1965年には、吉永小百合主演の日活映画、『私、違っているかしら』に出演し、映画デビューを果たします。1967年、岡本喜八監督の『日本のいちばん長い日』の青年将校役に抜擢(ばってき)され、注目を浴びます。以後、岡本監督の作品に立て続けに出演し、性格俳優として欠くべからざる存在となりました。特に、『日本の首領』、『戦争と人間』、『金環蝕』、『青春の門 自立篇』、『皇帝のいない八月』などの大作映画には重要な役どころで出演しました。また、舞台でも『花の館』で1970年、芸術祭優秀賞を受賞するなど活躍。テレビでも『鳩子の海』、『おしん』、『鬼平犯科帳』など多くの作品に出演しました。
https://www.youtube.com/watch?v=Ua9vqsTgz4M&t=54s

1996年、劇作家、演出家の北条秀司が肝不全のために93歳で逝去。1937年、『舞台』に発表した戯曲『表彰式前後』が新国劇で上演されて劇壇デビューし、会社員兼業の劇作家となります。1939年の綺堂の死去を機会に退社して、劇作家専業となり上京。1940年、長谷川伸に師事して、長谷川主催の脚本研究会「二十六日会」に参加。1940年、『閣下』で新潮社文藝賞受賞。1944年から、日本文学報国会の総務部長をつとめます。同年、南京で行われた第三回大東亜文学者大会に、日本側の責任者として同行参加。
1947年、新国劇で辰巳柳太郎主演の『王将』が大ヒットし、2作の続編を執筆して1950年に初演。また、たびたび映画化されました。劇化により1957年日本将棋連盟からアマチュア三段が与えられ、のち村田英雄の王将のヒットにより四段を与えられました。ただし、北條はふだん将棋を指すことはなく、『王将』の企画も辰巳柳太郎からもちこまれたものでした。代表作に、『王将』三部作 (1947–50)、『狐と笛吹き』(1952)、『太夫(こったい)さん』(1955)、『佃の渡し』、『狐狸狐狸ばなし』、『建礼門院』などがあり、また『末摘花』『浮舟』『藤壺』など、『源氏物語』を題材にしたものも多く、その集大成は「北條源氏」と呼ばれています。晩年は奇祭に熱中し、奇祭に関連する著書多数。
https://www.u-tokai.ac.jp/news-campus/671622/

1998年、政治家の宇野宗佑が75歳で死去。滋賀県議会議員(2期)、滋賀県議会副議長(第45代)、衆議院議員(12期)、防衛庁長官(第32代)、科学技術庁長官(第31代)、行政管理庁長官(第44代)、通商産業大臣(第44代)、外務大臣(第115代)、内閣総理大臣(第75代)、自由民主党国会対策委員長、自由民主党総裁(第13代)などを歴任。平成の内閣総理大臣で学士の学位を持たない唯一の人物です。宇野が首相に就任した3日後、『サンデー毎日』(毎日新聞)が神楽坂の芸妓の告発を掲載し、宇野の女性スキャンダルが表面化。当時のサンデー毎日の編集長は鳥越俊太郎でした。初めは国内の他のマスコミは無視しましたが、外国メディアに「セックススキャンダルが日本の宇野を直撃」(ワシントンポスト紙)等と掲載されると、それが引用される形で日本で話題となりました。1989年(平成元年)7月、第15回参議院議員通常選挙は従来の3点セット(リクルート問題、消費税問題、牛肉・オレンジの輸入自由化問題)に加え宇野首相の女性問題が争点となり、さらにいわゆるマドンナブームがとどめを刺し、自民党は改選議席の69議席を大幅に下回る36議席しか獲得できず、特に一人区では3勝23敗と惨敗。参議院では結党以来初めての過半数割れとなりました。翌日、宇野は敗北の責任を取り退陣を表明。会見での「明鏡止水の心境であります」との言葉が有名になりました。同年8月8日には自民党両院議員総会で河本派の番頭格であった海部俊樹が新総裁に選出されました。宇野の総理在任期間はわずか69日、日本政治史上4番目の短命内閣に終わりました。
https://www.youtube.com/watch?v=N1-1Gta5fow

1998年、俳優、歌手の高田浩吉が肺炎のため京都府京都市北区の病院で死去。満86歳没。戦前の松竹を代表する時代劇スターであり、『歌う映画スター』第1号として知られます。次女は女優の高田美和(美和の元夫は歌舞伎俳優の2代目片岡秀太郎)、孫は同じく俳優の大浦龍宇一。また元フジテレビアナウンサーの寺田理恵子は孫・大浦龍宇一の義母です(寺田の娘が大浦に嫁いだため)。 小唄のレッスンで鍛え上げたその美声を映画監督の大曾根辰夫に買われて、1935年(昭和10年)に『大江戸出世小唄』でポリドール・レコードから歌手デビュー。大曾根監督の同名の映画の中でこの歌を歌った事から「歌う映画スター」第1号として映画、主題歌共に評判になりました。1960年(昭和35年)、松竹を退社して第二東映(後のニュー東映、1961年消滅)に移籍。ここでも主演スターとして活躍しましたが、あまりのハードスケジュールのため作品の質が低下し、次第に人気にも陰りが見えました。また、時代劇映画が斜陽となり、同社が鶴田浩二、高倉健らの仁侠映画を中心に変わったことから、1964年(昭和39年)より活動の中心をテレビ・舞台に移しました。昭和40年代の懐メロブームの際には『なつかしの歌声』(東京12チャンネル、現在のテレビ東京)などの番組に常連出演。その美声を披露しました。
「娯楽映画のスターは、常に最も美しく、颯爽としていなければならない。そのためには、コンディションを維持し、私生活でも好き勝手は許されない」という言葉通り、酒も煙草も嗜まず、芝居と歌一筋に生きました。映画時代には「美貌タイム」を唱え、目が充血しないように午後八時以降は一切仕事をしなかったことで知られます。二枚目の容貌を保つため睡眠をたっぷりとることを自らに課していました。しかし、1968年(昭和43年)に放映された『伝七捕物帳』では徹夜の仕事を強いられることになってしまいました。また、京都をこよなく愛し、亡くなるまで京都で暮らしていました。その為か滅多な事がない限り東京で仕事はしていませんでした。その一方で、1980年代には愛娘・高田美和の離婚・熱愛騒動や、マネージメント会社を通じて原野商法会社の宣伝用映画出演の依頼を受け、推薦文の製作や原野商法会社主催のディナーショーへの出演などの行為を行った際、依頼をした会社が詐欺行為を行っていることの確認を怠ったとして起訴されたりという事件で話題を呼びました。
https://www.youtube.com/watch?v=lYMCtj9FsfY

2004年、言語学者の金田一春彦がクモ膜下出血のため甲府市の病院で死去。享年91。国語辞典などの編纂、日本語の方言におけるアクセント研究でよく知られています。父の金田一京助も言語学者で東京帝大教授。長男の金田一真澄はロシア語学者で慶應義塾大学教授、次男の金田一秀穂は言語学者で杏林大学外国語学部教授、長女の美奈子はゴルフ関係のライター。父・京助の従姉妹の夫に実業家の金田一国士。
https://www2.nhk.or.jp/archives/articles/?id=D0009250287_00000

2019年、お笑い芸人、喜劇俳優の木村進が腎不全のため、大阪市内の病院で死去。68歳没。かつて吉本興業に所属していたがその後、フリー。「木村進劇団」の代表。多様なボケに、ツッコミも二枚目もできる稀有な芸達者ぶりを発揮し、23歳の若さで吉本新喜劇の座長となりました。随一の人気を誇っていましたが、38歳で病(脳内出血)に倒れ、惜しまれつつ退団。親交のあった間寛平とは、お互いにベストパートナーであり、良きライバルでもありました。父の二代目から譲られた3代目博多淡海を名乗っていたこともあります。
https://www.youtube.com/watch?v=K7PwFHdDrwA

2023年、元タレント、元漫才師(「漫画トリオ」の横山パンチ)の上岡龍太郎が肺癌と間質性肺炎のため大阪市内の病院で死去。81歳。本名は小林 龍太郎。「上岡」は婿養子だった父の旧姓。漫画トリオ解消後の1970年代からはピンでラジオ、テレビに出演し、80年代には『鶴瓶上岡パペポTV』(パペポ)や『探偵!ナイトスクープ』などテレビ司会者として活躍。博識というよりも聡明さで知られた芸人でした。1990年代には東京にも進出を果たし、東京では『上岡龍太郎にはダマされないぞ!』などで活躍しました。東京の立川談志をいたく尊敬し、落語立川流Bコースに入門(高座名・立川右太衛門)したほどでした。その一方では、「東京の"笑い"は質が低い」とたびたび放言するアンチ東京芸人でもありました。「僕の芸は20世紀まで」と語り、その公言通り20世紀の最後の年となる2000年をもって芸能界を引退していました。たしかに、ウーマンリブの運動などを「言うたかて、あーんなブスが、皆、ブスどもやないかい」などと反動的な言説を展開していたのも事実。本人も分かっていたことなのでしょう。
https://www.youtube.com/watch?v=EOF5c77nPGI



引用・参照したサイト

5月19日は何の日?記念日、出来事、誕生日などのまとめ雑学
5月19日、今日は何の日〜毎日が記念日〜
5月19日は何の日
5月19日の雑学。今日は何の日?記念日、誕生日、カレンダー
トラッドジャパン 5月19日
マイナビウーマン 5月19日
Wikipedia「5月19日」
ほか
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