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2024年05月19日04:46

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5月19日に亡くなった主な人々 前篇

1384年(至徳元年/元中元年)、申楽師の観阿弥が駿河静岡浅間神社での演能ののち同地で死去。数え52歳。息子の世阿弥とともに、いわゆる能を大成した人物。観世一座が人気を博した原因は、大和猿楽が得意とした物真似芸に、田楽の優美な舞や、南北朝に流行した曲舞(くせまい)の音曲を取り入れた新演出が、当時の観客の心に強い感興をおよばしたことだといわれています。観阿弥の事跡は、息子世阿弥が残した伝書に詳しく、「大柄であったが、女を演じると優美であった」「大和猿楽伝来の鬼の能にすぐれていた」「貴顕にも民衆にも愛された」(いずれも大意)などの記述が散見されます。当時都では猿楽より田楽のほうが評価が高く、足利尊氏などの権力者も田楽を後援していました。ところが、1375年(永和元年 1374年説もあり)に京都新熊野神社で観阿弥が息子の世阿弥とともに演じた猿楽能を足利義満が見物、以降、将軍はじめ有力武家、公家らの愛顧を得、観阿弥が率いる観世一座は幕府のお抱え的存在とみなされるようになりました。このように、後半生は京都を中心に各地で活躍、大和でも興福寺の薪猿楽をつとめるなどしていました。

1560年(永禄3年)、駿河国及び遠江国の守護大名・戦国大名、今川義元が尾張国に侵攻した際に行われた桶狭間の戦いで織田信長軍に敗れて毛利良勝(新助)に討ち取られました。数え42歳。今川氏第11代当主。姉妹との婚姻関係により、武田信玄や北条氏康とは義理の兄弟にあたります。「海道一の弓取り」の異名を持つ東海道の広大な地域の支配者。寄親・寄子制度を設けての合理的な軍事改革等の領国経営のみならず、外征面でも才覚を発揮して今川氏の戦国大名への転身を成功させました。所領も駿河・遠江から、三河や尾張の一部にまで領土を拡大させました。戦国時代における今川家の最盛期を築き上げていました。

1565年(永禄8年)、室町幕府第13代征夷大将軍の足利義輝が死去。松永久通(久秀の息子)と三好三人衆は主君・三好義継(長慶の養嗣子)とともに清水寺参詣を名目に集めた約1万の軍勢を率い二条御所に押し寄せ、将軍に訴訟(要求)ありと偽り、取次ぎを求めて御所に侵入しました(永禄の変)。義輝は自ら薙刀を振るい、その後は刀を抜いて抵抗しましたが、敵の槍刀で傷ついて地面に伏せられたところを一斉に襲い掛られて殺害されました。最期は寄せ手の兵たちが四方から畳を盾として同時に突きかかり殺害したとも、または槍で足を払われ、倒れたところを上から刺し殺されたともいうことです。事件の際に在京していた山科言継の『言継卿記』には、義輝が「生害」したと記されており、討死したとも自害したともとることができます。後世には、松永貞徳の『戴恩記』などの御所を囲まれて切腹したというものや、『常山紀談』の「散々に防ぎ戦ひて終に自害有ける」などの自害したという明確な記述も見られるようになります。享年30(満29歳没)。 義輝は幕府権力と将軍権威の復活を目指し、諸国の戦国大名との修好に尽力しています。伊達晴宗と稙宗(天文17年(1548年))、里見義堯と北条氏康(天文19年(1550年))、武田晴信と長尾景虎(永禄元年(1558年))、島津貴久と大友義鎮、毛利元就と尼子晴久(永禄3年(1560年))、松平元康と今川氏真(永禄4年(1561年))、毛利元就と大友宗麟(永禄6年(1563年))、上杉輝虎(長尾景虎改め)と北条氏政と武田晴信(永禄7年(1564年))など、大名同士の抗争の調停を頻繁に行いました。殺害されたのは、傀儡としての将軍を擁立しようとする松永久秀と三好三人衆にとっては、将軍家の直接統治に固執する義輝は邪魔な存在だったからです。

1599年(慶長4年)、土佐国の戦国大名、長宗我部元親が豊臣政権時、戸次川の戦いで愛息・信親を亡くすと生活は荒れ、家中を混乱させたままこの世を去りました。数え61歳。長宗我部氏第21代当主。長宗我部国親の長男で、母は美濃斎藤氏の娘。正室は石谷光政の娘で斎藤利三の異父妹。土佐の国人から戦国大名に成長し、阿波・讃岐の三好氏、伊予の西園寺氏・河野氏らと戦い四国に勢力を広げます。しかし、その後に織田信長の手が差し迫り、信長の後継となった豊臣秀吉に敗れ土佐一国に減知となりました。

1645年(正保2年)、剣客の宮本武藏が熊本の千葉城の屋敷で亡くなりました。享年62。京都の兵法家・吉岡一門との戦いや巌流島での佐々木小次郎との決闘が有名で、後世、演劇、小説、様々な映像作品の題材になっています。特に吉川英治の小説が有名ですが史実と異なった創作が多いことに注意する必要があります。外国語にも翻訳され出版されている自著『五輪書』には十三歳から二九歳までの六十余度の勝負に無敗と記載があります。国の重要文化財に指定された『鵜図』『枯木鳴鵙図』『紅梅鳩図』をはじめ『正面達磨図』『盧葉達磨図』『盧雁図屏風』『野馬図』など水墨画・鞍・木刀などの工芸品が各地の美術館に収蔵されています。亡くなる数日前には「自誓書」とも称される『独行道』とともに『五輪書』を兵法の弟子・寺尾孫之允に与えています。

1681年(延宝9年)、譜代大名、江戸幕府老中、大老の酒井忠清が2月27日に隠居し、5月19日に死去。享年58(満56歳没)。忠清は鎌倉時代に執権であった北条氏に模され、大老就任後は「左様せい様」と称される将軍・家綱のもとで権勢を振るった専制的人物と評される傾向にあります。また、伊達騒動を扱った文芸作品など創作においては、作中では伊達宗勝と結託した極悪人として描かれてきました。酒井家は寛永13年(1636年)に江戸城大手門下馬札付近の牧野忠成の屋敷が与えられ、上屋敷となっていました。下馬札とは、内側へは徒歩で渡り下馬の礼を取らなければならない幕府の権威を意識させる場所であり、大老時代の忠清の権勢と重ね合わせ、没後の綱吉期には下馬将軍と俗称されたことが、『老子語録』、『見聞随筆』などの史料に伺えます。また戸田茂睡の執筆した『御当代記』にも、忠清が下馬将軍と呼ばれていたという記述があります。

1725年(享保10年)、旗本・政治家・朱子学者の新井白石が死去。享年69(満68歳没)。宝永6年(1710年)、徳川綱豊は諱を家宣と改め、将軍となりました。家宣は将軍に就任すると、側用人の松平輝貞・松平忠周を解任し、大学頭・林信篤を抑えて、白石にその職責の大半を代行させました。家宣が将軍世子となったことで甲府徳川家は断絶となり、家宣は白石や間部詮房を引き続き自身の側近として登用します。白石や詮房は将軍家宣期に、正徳の治と呼ばれる政治改革を行いました。白石の身分は500石取り(のち正徳元年に1000石に加増)の本丸寄合、すなわち無役の旗本なので、御用部屋に入るわけにはいきません。そこで家宣からの諮問を側用人間部が白石に回送し、それに答えるという形を取りました。幕閣でも側用人でもない一介の旗本が、将軍侍講として幕政の運営にこれほどまでに関与したのは、この白石をおいて他に例を見ません。白石の政策は、旧来の悪弊を正す理にかなったものではありましたが、「東照神君以来の祖法変ずべからず」とする幕閣とは齟齬をきたし、やがて両者の間には深刻な軋轢が生じるようになります。自らが主張することに信念を抱き、誰が何を言って反対しても臆することなく、最後には「上様の御意」でその意見が通るので、白石は旧守派の幕臣からは「鬼」と呼ばれて恐れられるようになりました。様々な改革を行なう一方、通貨吹替えにおいては家康の言葉に従い、失敗をしています。家宣が没すると、その子の7代将軍・徳川家継の下でも引き続き、間部と共に政権を担当することになりましたが、幼君を守り立てての政局運営は困難を極めました。幕閣や譜代大名の抵抗も徐々に激しくなり、家継が夭逝して8代将軍に徳川吉宗が就くと、白石は失脚、公的な政治活動から退きました。致仕後、白石が幼少の家継の将軍権威を向上すべく改訂した朝鮮通信使の応接や武家諸法度は、吉宗によってことごとく覆されました。著書には回想録『折たく柴の記』の他に、キリスト教布教のために来日したイタリア人宣教師ジョバンニ・シドッチを審問した白石が、その内容をまとめた『西洋紀聞』などがあります。特に後者は優れたもので、西洋理解についてだけに限定すれば、福沢諭吉の『西洋事情』、ルース・ベネディクトの『菊と刀』とを合わせて読みますと、海外渡航の必要はなくなるほどです。むしろ、中途半端な海外体験を振り回すより、よっぽど賢明です。

1795年(寛政7年)、江戸時代中期の旗本、長谷川平藏が数え51歳で死去。家督相続前の名前は長谷川宣以(はせがわ のぶため)。火付盗賊改方の長である火付盗賊改役を務めました。池波正太郎の小説『鬼平犯科帳』の主人公「鬼平」として、日本の時代小説・時代劇ファンに知られています。テレビドラマ版で長谷川平蔵を演じた俳優には、八代目・松本幸四郎、丹波哲郎、萬屋錦之介、二代目・中村吉右衛門がおり、二代目・吉右衛門は平蔵のイメージを最も忠実に演じたと評され、四半世紀以上にわたり長く演じました。

1825年、フランスの社会主義思想家のアンリ・ド・サン=シモン(サン=シモン伯爵クロード・アンリ・ド・ルヴロワ)が64歳で死去。サン=シモンの教義の核心は、富の生産を促進することが社会の重要な任務であり、したがって産業階級は貴族と僧侶よりも重要な要素です。一国の行政は市民の才能に任されねばなりません。財産権は政治憲法よりも、社会の基礎を形作る上で重要な法です。彼は「50人の物理学者・科学者・技師・勤労者・船主・商人・職工の不慮の死は取り返しがつかないが、50人の王子・廷臣・大臣・高位の僧侶の空位は容易に満たすことができる」との言葉を公にし、1819年に告訴されています。この生産を営む階級の重視が、サン=シモンを「テクノクラートの予言者」と評価させる部分です。しかしサン=シモンの場合、資本家と労働者は等しく産業階級であり、その対立は問題とされません。1810年代イギリスの労働者の反乱であるラッダイト運動に着目はしていますが、「資本の所有者はその精神的優越によって、無産者に対して権力を獲得した」との見解を持ち続けました。労働者は自ら自由を獲得すべき存在ではなく、使用者によって保護されるべき存在なのです。サン=シモンはレッシングの『人類の教育』に感化され、1819年以降はキリスト教の道徳を産業社会に適用する方策を夢想しました。すなわち、新しいキリスト教は礼拝や形式から脱却して、人間は互いに兄弟として行動し、富者は貧者を救済すべきである、とする人道主義へと傾きました。


引用・参照したサイト

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5月19日は何の日
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トラッドジャパン 5月19日
マイナビウーマン 5月19日
Wikipedia「5月19日」
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