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2024年05月17日15:54

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5月18日が誕生日である人々

1867年(慶応3年4月15日)、日本の博物学者、生物学者、民俗学者である「知の巨人」こと南方熊楠が和歌山県に生まれました。 大学予備門(現・東京大学)での同窓生には塩原金之助(夏目漱石)、正岡常規(正岡子規)、秋山真之、寺石正路、芳賀矢一、山田美妙、本多光太郎などがいました。ロンドン留学中には、亡命中の孫逸仙(孫文)と知り合い、親交を始めています。明治44年からは柳田國男との文通を始めるなど、人との交流も盛んでした。帰国後、熊楠は、学業そっちのけで遺跡発掘や菌類の標本採集などに明け暮れます。熊楠の学問大系は博物学、民俗学、人類学、植物学、生態学などさまざまな分野に及んでおり、その学風は、ひとつの分野に関連性のある全ての学問を知ろうとする膨大なものであり、書斎や那智山中にこもっていそしんだ研究からは、曼荼羅にもなぞらえられる知識の網が生まれました。生物学者としては粘菌の研究で知られていますが、キノコ、藻類、コケ、シダなどの研究もしており、さらに高等植物や昆虫、小動物の採集もおこなっていました。そうした調査に基づいて生態学を早くから日本に導入したことが注目されます。熊楠は博物学者として紹介されることが多いのですが、時代としてはすでに博物学は解体されており、熊楠の活動はその面では完全に植物学の分野に収まります。熊楠の専門分野はいわゆる隠花植物でした。熊楠が生涯でもっとも時間をかけていたのは、実は顕花植物の収集であったらしいのです。渡米前には日光などで、またアメリカでも各地で植物採集を行い、帰国後は和歌山県南部の各地で多量の植物採集を行い、それらの標本は、保存状態はともあれ、多くが残されています。しかしながら、熊楠はこれらの分野において、ほとんど論文を発表していません。これは、出版された論文をもって正式な業績と見なす科学の世界では致命的です。たとえば粘菌の分野では、熊楠は数度にわたって目録を発表しており、熊楠以前には日本から36種しか記録されていなかった日本の粘菌相に178種を追加しました。これだけでも熊楠は変形菌研究の歴史に大きな名を残しているのです。しかし、例えば熊楠は「新種」を記載してはおらず、熊楠の手になる新種は、全て他の研究者によって発表されたものです。これはキノコの分野でも同じであり、そういった観点からは、熊楠に対しては「優れた観察者およびコレクター」という評価しかできません。「ネイチャー」誌に掲載された論文の数は約50報、日本人最高記録保持者となっています。民俗学研究上の主著としては『十二支考』『南方随筆』などがあります。その他にも、投稿論文、ノート、日記のかたちで学問的成果が残されています。英語、フランス語、イタリア語、ドイツ語、ラテン語、スペイン語に長けていた他、漢文の読解力も高く、古今東西の文献を渉猟していました。1893年(明治25年)のイギリス滞在時に、科学雑誌『ネイチャー』誌上での星座に関する質問に答えた「東洋の星座」を発表しています。また大英博物館の閲覧室において「ロンドン抜書」と呼ばれる9言語の書籍の筆写からなるノートを作成し、人類学・考古学・宗教学・セクソロジーなどを独学しました。さらに世界各地で発見、採集した地衣・菌類や、科学史・民俗学・人類学に関する英文論考を、『ネイチャー』と『ノーツ・アンド・クエリーズ(英語版)』に次々と寄稿しました。生涯で『ネイチャー』誌に51本の論文が掲載されており、これは現在に至るまで単著としては歴代の最高記録であるとされています。奇行が多かったことで知られています。異常な癇癪持ちであり、一度怒り出すと手がつけられないほど凶暴になると、両親など周囲の人々は熊楠の子供時代から頭を抱えていました。熊楠も自分のそういった気性を自覚しており、自分が生物学などの学問に打ち込むことは、それに熱中してそうした気性を落ち着かせるためにやるものだと、柳田國男宛の書簡で書いています。そのまた、多汗症から、薄着あるいは裸で過ごすことが多かったのです。田辺の山中で採集を行った際、ふんどしだけの裸で山を駆け下り、農村の娘たちを驚かせたために「てんぎゃん」(紀州方言で天狗のこと)と呼ばれたという話も残っています。1941年(昭和16年)12月29日、自宅にて永眠。死因は萎縮腎でした。満74歳没。熊楠についてはまだまだ書きたいこともあります。独立した投稿にするべきだったなあ…。
https://rekisiru.com/5214#goog_rewarded

1872年、イギリスに哲学者、論理学者、数学者でもあるバートランド・ラッセルが生まれました。このラッセルも別投稿を立てるべきだったなあ…。正規な名称はバートランド・アーサー・ウィリアム・ラッセルで、第3代ラッセル伯爵でもありました。名付け親は同じくイギリスの哲学者ジョン・スチュアート・ミルでした。ケンブリッジ大学で教鞭をとっていた時代、ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインの才能を早くに見抜き、親交を結ぶとともに、良き理解者として『論理哲学論考』の出版などを支援しました。『人道的理想や思想の自由を尊重する、彼の多様で顕著な著作群を表彰して』という理由で、1950年にノーベル文学賞を受賞しています。1955年7月9日核廃絶に対する共通の想いから、親交のあったアルベルト・アインシュタインと「ラッセル=アインシュタイン宣言」を発表しました。数学者・論理学者として出発し、哲学者としてヘーゲリアンから経験論者に転向、以後その主張はかなりぶれがあったものの基本的にはモノ的対象を基礎とした現象主義もしくは随伴主義的唯物論をとりました。そののち、教育学者・教育者・政治運動家としても活動します。ラッセルはアリストテレス以来最大の論理学者の1人であり、その業績は、従来の体系におけるパラドックスの発見と、その解決の探求のなかで成し遂げられました。特にラッセルのパラドックスで知られています。ラッセル自身もまた、ホワイトヘッドとともに、論理主義の立場から論理上で実際に数学を展開するという事業に取り組んでいましたが、このラッセルのパラドックスのために、約2年間の停滞を余儀なくされています。さらに、このパラドックスは、同時期に発見された類似の他のパラドックスとともに、数学の基礎に存在する深刻な問題と受け取られ、いわゆる「数学の危機」の震源となり、その解決をめぐって、ヒルベルトの「形式主義」やブラウワーの「直観主義」の誕生の切っ掛けとなりました。哲学方面についても見ていきましょう。最初期のラッセルは、当時のイギリス哲学界の思潮の影響下にあり、ヘーゲルの影響が強いのです。ラッセルが学んだケンブリッジは19世紀後半にはヘーゲル主義の支配下にあり、ジョン・マクタガートを筆頭とするこの時期のケンブリッジの哲学学派は、新ヘーゲル派と呼ばれています。しかし、20世紀初頭には、ラッセルはG・E・ムーアとともにヘーゲルの影響から逃れ、独自の哲学を展開し始めます。晩年の『西洋哲学史』は、ペンシルベニアのバーンズ財団での講義に使用するために書かれたものですが、自分にとって重要な哲学者に問題を限定すると共に、これに付加して生き生きとした詳細を付け加えたものであるとされています。ラッセルは、哲学は、その時代時代の哲学者の生きた政治的・社会的制度と切っても切り離せないものであるがゆえに、哲学史は社会史と無関係なものではありえないとの視点の下、「神学と区別された哲学」が古代ギリシアで始まって以来、現在に至るまで、哲学者は、社会連帯を強めようというする人々と、それを緩めようという人々に分かれてきたが、前者は何らかの独断論を擁護し、科学に敵対的にならざるを得ず、後者は、合理的、功利主義的で、宗教の極端な諸形態に敵対的であったが、それらの哲学を理解するためには、その背景にあるその哲学者の生きた政治的・社会的な環境を理解する必要があるとします。本書の副題は「古代より現代に至る政治的・社会的諸条件との関連における哲学史」です。そのため、ラッセルは、本書における「哲学」の概念を独断論たる神学と科学の中間にあるものとして極めて広くとった上で、必要に応じてキリスト教哲学たる中世哲学やユダヤ哲学やイスラム哲学に言及するというスタイルをとり、哲学史の書物として初めて'Western'という形容詞を採用したのです。ラッセルはとりわけ神の不可知論を提唱する点で、無神論です。「自由人の信仰」や「わたしはなぜキリスト教徒ではないか」などで、宗教の基礎を、死や神秘的なものへの恐怖にあるとしています。第一次大戦中、ラッセルは徹底的な非戦論を主張し、ケンブリッジの教授職を追われ、投獄されている。第一次大戦後、ラッセルは戦争に熱狂した民衆の姿に驚きを覚え、平和維持のためには民衆の啓蒙と社会制度の改革から始める必要を痛感しました。この彼の政治的スタンスから、社会主義にシンパシーを感じ労働党に入党します。当時、社会主義に傾倒していた知識層は、フェビアン社会主義で有名なシドニー・ウェッブを筆頭に、マルクス主義にシンパシーを感じソビエト連邦に好意的でしたが、ラッセルはそのような風潮とは一線を画し、ソビエトロシアに対して批判的な主張を大いに含む著作『ロシア共産主義』を著しています。 同書において、ラッセルはレーニン及びトロツキーの教条主義的なマルクス主義の信奉に厳しい視線を向けています。第二次世界大戦直後は、世界政府樹立とそれによる平和維持をめざしました。1940年代末から1950年代始めにかけて、アメリカの持つ原子爆弾という超兵器の抑止力によってソ連を押さえ込むことで実現することを構想し、西側諸国の核保有による東側諸国との対抗を説き、労働党の委託を受け精力的に講演を行っています。1970年、97歳で死去。
http://tetsu-gaku.com/zinbutsu/rassel/

1899年には浪曲師の2代目広沢虎造が生まれています。とりわけ森の石松を題材にし、特に「呑みねえ食いねえ」「馬鹿は死ななきゃなおらない」の「森の石松三十石船道中」が知られ大ヒットしたフレーズは、ラジオ放送の普及も相まって、戦前戦後を通じて国民的な流行語となりました。1938年(昭和13年)後楽園球場で独演会を開くなど、その名調子は虎造節として一世を風靡、また戦前から映画に積極的に出演し、劇中でしばしば浪花節を演じていました。、浪曲の枠を超えた人気者の虎造は、民放の登場により、ラジオ浪曲ブームのけん引役として、連続読み番組(ラジオ東京の俗称「虎造アワー」)を長年持つことになりました。1959年(昭和34年)に脳溢血で倒れ、言語障害を発症。リハビリに取り組むも回復せず、1963年(昭和38年)の引退興行をもって浪曲界から身を引き、翌1964年(昭和39年)死去しました。65歳没。次男の山田二郎は、NHK佐賀放送局、ラジオ東京・TBSの元アナウンサーである。この投稿を読んでいる方には「国際プロレス」の中継でおなじみだという方もおられることでしょう。
https://www.youtube.com/watch?v=44LGF5CPULs

1943年、そのプロレス界のスーパースターが生まれています。NYでも大人気を博したジミー・スヌーカです。フィジー島出身ですが、初来日はインディアン・ギミックでスー・ニー・クラウドとタッグを組んでいました(第2回NWAタッグ・リーグ戦)。その後の日本マットでは主にブルーザー・ブロディーとタッグを組んでいました。2016年、末期の胃癌により余命いくばくもないと診断されていたことが明らかにされました。2017年1月15日、73歳で死去
https://www.youtube.com/watch?v=VH-dhUdoTGQ

1947年には俳優の寺尾聡が誕生。名優・宇野重吉の息子です。若いころは気の弱い役や情けない人物を演じていました。彼のイメージを覆したのは、歌手としての活動。6枚目のシングル「ルビーの指環」が大ヒットしたことです。元々歌は得意で、俳優になる前からグループサウンズの「ザ・サベージ」「ザ・ホワイト・キックス」などで歌っていたのです。1968年、石原裕次郎製作・主演の映画『黒部の太陽』で俳優デビューしました。『大都会』では新聞記者、『大都会 PARTIII』(日本テレビ)、『西部警察』(テレビ朝日)など、石原プロモーション制作のアクションドラマでは刑事役で活躍しました。このころはサングラスをかけ、ニヒルな表情がトレードマークでした。石原プロ離脱後、1980年代後半から黒澤明が監督した『乱』『夢』『まあだだよ』に続けて出演。2001年、黒澤の遺稿を映画化した『雨あがる』に主演し、日本アカデミー賞最優秀主演男優賞を受賞しています。日本レコード大賞並びに日本アカデミー賞最優秀主演男優賞の両方を獲得しているのは2017年現在、寺尾のみであります。2005年にも『半落ち』での演技で同賞の2度目の受賞を果たしました。
https://www.youtube.com/watch?v=3ii96gUvUlM

1950年、元プロ野球投手・監督の東尾修が生まれました。
https://www.youtube.com/watch?v=56Gln_ojStQ

1951年、歌手、ロックミュージシャンのカルメン・マキが誕生。1969年に「時には母のない子のように」(作詞:寺山修司、作曲:田中未知)でデビュー。17歳とは思えないその妖艶な雰囲気と歌唱力、そして哀愁のある歌いっぷりが話題を呼びました。ジャニス・ジョプリンがあった。それを聴いたマキは衝撃を受け、1970年に突然のロック転向を表明する。直後近田春夫(のちにハルヲフォンを結成)、立川直樹らと「カルメン・マキ&タイムマシーン」と言うバンドを結成しまずが、すぐに解散。その後さまざまなバンドがバッキングにつきましたが、最終的には当時の実力派バンドであった、ギタリスト竹田和夫率いるブルース・クリエイション(第2期)に落ち着き、1971年にコラボレーション・アルバムである『カルメン・マキ&ブルース・クリエイション』を発表。それまで黒人霊歌をもとにしたフォークなどを歌うシンガーから、女性ロッカーへとイメージ・チェンジをしました。1972年には当時18歳であったギタリストの春日博文らとともに「カルメン・マキ&OZ」を結成。メンバーは、春日博文(ギター)、鳴瀬喜博(ベース、後にカシオペア加入)、樋口晶之(ドラムス、のちに竜童組)。当初はなかなか人気が出ませんでしたが、地道な活動が実を結び、1974年にポリドールからシングル「午前一時のスケッチ」でデビュー。翌1975年1月にはファーストアルバム『カルメン・マキ&OZ』をリリース。10万枚以上を売る当時のロックアルバムとしては大ヒットとなりました。このアルバムに収録されている約12分にも及ぶ大作「私は風」は、のちにさまざまな歌手、ミュージシャンにカバーされ、その中でも特に中森明菜のものが有名です。その後1986年にはOZの初代ベーシストであった鳴瀬喜博や松本孝弘(のちにB'zを結成)などがいたセッションバンド、「うるさくてゴメンねBAND」に参加。ライブ活動を中心とする。1987年にはライブ盤『うるさくてゴメンねLIVE』を発表。その後出産、育児に専念するために一時的に音楽活動の休止を宣言。1993年に日本国籍を取得し、音楽活動を再開。同年、寺山修司歿後十年の企画として『時には母のない子のように』(新録音)を発表し、久保田麻琴プロデュースによる子守唄のアルバム『MOON SONGS』を発表。そして翌1994年には「MOSES」を結成。1995年に『VOICES OF MOSES』を発表。1996年にはOZ時代の盟友、春日博文のプロデュースによる「UNISON」を発表。また、この時のセッションメンバーをもとに「UNISON UNIT」を結成し、ライブを中心として活動。この頃に現在もライブ、アルバム制作で組んでいるギタリスト、鬼怒無月と出会っています。現在も全国各地をライブハウスを中心に精力的に回っています。
https://www.youtube.com/watch?v=DYBA3HeoYKg

1952年、女優の松田暎子が誕生。1976年、大島渚監督の映画『愛のコリーダ』で、主演の阿部定役に抜擢されます(松田英子名義)。日本映画初の「本番」が話題となったこの作品で、情夫役の藤竜也を相手に、毒婦と呼ばれた女の純粋さを演じて強烈な印象を残しました。
https://www.youtube.com/watch?v=NmfOWT05VNc

1957年、歌手の山崎ハコが生まれています。横浜学園高等学校在学中、コンテストへの出場が切っ掛けで1975年にアルバム『飛・び・ま・す』でレコードデビュー。150センチあるかないかの小柄で痩せた体躯からは想像もできないパワフルな声量・表現力を誇る歌唱と、暗く鋭く愛から社会を抉る歌詞で、デビュー当時は「中島みゆきのライバル」と云われました。1979年4月〜80年3月、ニッポン放送『オールナイトニッポン』火曜日2部のDJを担当。その後もレコードのリリースやコンサート活動を続け、女性フォークシンガーとして活躍する一方で、エッセイの執筆、演劇出演など多彩な活動を行う。現在も全国のライブハウスを渡り歩くなど、精力的に活動中。
https://www.youtube.com/watch?v=jiJXQ9AKTDI

1969年、シンガーソングライターの槇原敬之が誕生。快調にヒット曲を飛ばし、ライブも活動的に行っていましたが、1999年、覚せい剤所持が発覚。情報を得て内偵中だった警視庁本富士警察署の捜索を受けた際、自宅から発見され、覚せい剤取締法違反(所持)現行犯で10年来の友人の奥村秀一(のちにワーズアンドミュージック代表取締役社長2018年3月12日に役務不履行により解任)と共に逮捕されました。本人がファンや関係者に向けて「多くの方達に取り返しのつかないご迷惑をかけてしまい、お詫びする気持ちをどう表現して良いかわかりません。潔く罪を認め、いかなる処分も受けなければならないと思っております」とコメントし、謝罪しました。同年9月3日にはMDMA所持が発覚。逮捕のため9月から予定されていたコンサートツアーの中止やレギュラーラジオ番組の打ち切り、CDが発売元のレコード会社によって店頭から回収される動きがあり、このときファンが買いに走ったために、過去の作品の売上が伸びるという現象が起こります。また、この逮捕により一時期は7億円もの借金を抱えました。2003年、自身が作詞・作曲し、SMAPに提供した「世界に一つだけの花」が売上200万枚以上を記録(その後も伸び続け、2016年のSMAP解散に伴い300万枚を突破しました)。私はこの人の歌唱法、好きではありません。それは高音部のみを裏声にするからです。
https://www.youtube.com/watch?v=gc0S1aFHEpg

1973年、プロレスラーのカズ・ハヤシが誕生。1991年12月、ユニバーサル・プロレスリングに入門。1992年11月19日、後楽園ホール大会でテリー・ボーイ(現:MEN'Sテイオー)と組み、モンゴリアン勇牙(現:新崎人生)&バッファロー張飛(引退)組を相手に覆面レスラー「獅龍」としてデビューを飾る。1993年、みちのくプロレス入団。みちプロ時代から並外れた身体能力は注目され、新日本プロレスのリング参戦時も「欽ちゃんジャンプ」で人気を博しました。アメリカのプロレス団体・WCW崩壊後、WWFが選んだ24人の契約選手に残り、WWFと契約しました。2002年に全日本プロレスへ移籍したばかりの武藤敬司からのラブコールにより、WWFを退団し全日本プロレスに入団しました。2013年6月30日の両国国技館大会を最後に、全日本プロレスを退団。WRESTLE-1旗揚げ会見にて入団を発表。2017年3月27日、同年4月1日よりWRESTLE-1の取締役社長へ就任することを発表、2024年7月で引退予定。覆面レスラー・獅龍の時代にはロープとロープの間から場外の相手に突進する動きで注目を集めていました。
1977年もプロレスラーです。DDTのGAYギミックで人気の男色ディーノ。DDTではプロデューサーも兼務。透明人間(ミステロン)、ダッチワイフ(ヨシヒコ)相手にプロレスを行うなど学生プロレス時代に培ったアイデアをDDTに持ち込むなどしています。得意技は「男色ドライバー」。相手の顔を三重に履いたタイツとタイツの間に入れてのドリル・ア・ホール・パイルドライバーです。
https://www.youtube.com/watch?v=kRGVRiz5MKE

翌年もプロレスラー。新日本プロレスの矢野徹。京北中学校・高等学校時代には全国高校選抜レスリング選手権、全国高校総合体育大会と様々な全国大会で優勝を果たしました。卒業し日本大学進学後も、世界学生選手権日本予選97kg級で優勝。2000年には全日本学生選手権でフリー、グレコの両部門を制覇しました。2012年11月、水道橋駅近くにスポーツバー「EBRIETAS(エーブリエタース)」をオープン。
https://www.youtube.com/watch?v=SBZ2d-2Eaok

1983年、十八代目中村勘三郎の次男、二代目中村七之助が誕生。2歳年上の兄は六代目中村勘九郎。ほっそりとした容姿と、やや寂しげな美しい風情が魅力の若女方。2005年(平成17年)1月には、泥酔してタクシーに無銭乗車したうえ、運転手の通報で駆けつけた警察官に対して殴る蹴るの暴行を加え、大塚警察署に公務執行妨害で現行犯逮捕された。父の「中村勘三郎」襲名を目前に控えた祝賀パーティーからの帰途での事件でしたが、3ヵ月間の謹慎処分を受けました。
https://www.youtube.com/watch?v=UboZtjQuwXA


引用・参照したサイト

5月18日は何の日?記念日、出来事、誕生日などのまとめ雑学
5月18日、今日は何の日〜毎日が記念日〜
5月18日は何の日
5月18日の雑学。今日は何の日?記念日、誕生日、カレンダー
トラッドジャパン 5月18日
マイナビウーマン 5月18日
Wikipedia「5月18日」
ほか
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