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2024年05月17日12:04

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【復刻】 29 第二部 第一章 T・H・グリーンの思想とその継承者   ー 主権理論を中心として 一

四 1930年代以後の理想主義的理論 -バーカーとリンゼイ-

【復刻】 第二部 第一章 T・H・グリーンの思想とその継承者   ー 主権理論を中心として 一

 1930年代以後の理想主義は、ファシズムの猛威とマルクス主義の進展に直面し、これら両勢力を強く意識するようになりました。ここで取り上げるバーカー(Ernest Barker)とリンゼイ(Alexander Dunlop Lindsay)は、いずれもグリーンの中心思想もふまえて、これら両勢力に切り込んでいる点が、特に注目されます。例えばバーガーは、国家以外の何ものも認めようしないファシズムの下では、個人の人格価値が、国家の単なる手段の地位に下落してしまいますし、それと対照的な、究極的には社会だけを認めるマルクス主義の下でも、個人人格が自由に活動できるための条件が取り払われてしまうというのです。そして彼は、人間生活の究極目的である「人間人格の自由な発展」のためには、基本的にはグリーンの政治理論のなかに含まれているものなのです。

 またリンゼイは、「力ではなく、意志が国家の基礎である」というグリーンの見解に基づいて、階級闘争が消滅すれば、国家の強制力も必要でなくなるとするマルクス主義の見方に反対します。つまりグリーンの見解通りに、大多数の人々が、共同の規則を信頼し、大抵の場合それに従うことを望んでいるなら、その時に限りそしてその時には常に、全ての人々を常に規則に従わせるために、国家の強制力が必要になるというのです。何故なら、規則は全ての人に常に守られてこそ存在価値を持つものでありますが、人間の自然な心情に委ねるだけでは、そうした状態は達成されないので、強制力によって埋めなければならないからです。

 リンゼイはまた、社会的諸価値に優先的な考慮を払うグリーン的な前提に立って、一切の権威の源泉を国家に求めるファシズムの行き方を退けます。そして種々な社会組織は、それぞれ社会のなかで果たす固有の機能を洩ってり、その機能は決して国家の演じることのできないものであることを強調します。こうしてバーカーもリンゼイも、グリーンの図式に従って、社会価値の優先性と国家の権力行使を共に認めているのでした。

 彼らが今まで検討してきた理想主義的理論と趣を異にしているのは、憲法に特別な重要性を与えている点であります。リンゼイによると、権力分立とか連邦政府といった形態を主権理論の中に包み込み、しかも昔から主権の本質とされてきた、統一、不可分、最高といった性質を保持して行くためには、憲法に主権を認めるのが最もよいというのです。そして、オースティンのいう一定の人々というのも、実は憲法のなかでその位置と権力を定められている人々のことなので、憲法に敬意を払うことの方が、人に対する服従よりも優先していると説くのです。

 バーカーの考え方はもっと複雑です。彼はまず主権を純粋に政治用語として、あるいは国家の属性を示すものとして捉えようとします。そういう観点からは、究極的主権と直接的主権の二つが区別できるとしています。そして究極的主権は憲法に求められる、とします。何故ならそれは、公権力構造の頂点にあり、「国家の全行動を永続的に統制するものとして、絶えることなく活動している」ものだからなのです。直接的主権は、究極的主権の権威に服しながら通常の法律を作る立法機関に委ねられます。

 この直接的主権者としての立法機関は、究極的主権者としての憲法に従うだけでなく、その性格上、社会の共通の確信を表明する機関でもなければなりません。このような考え方に基づいて、バーカーは国家から社会へと目を転じ、国家の領域における二人の主権者よりももっと権威のある主権者を、社会の領域のなかに探り出そうとするのです。結局彼が探り当てたのは「社会で作られ、社会で発展させられた正義の観念」なのでした。これは国家の存在を基礎づけ、国家活動を鼓舞する観念であるところから、バーカーは特にこれに「法外の主権者」(extra-legal sovereigen)という名前を与えています。

 以上のようなリンゼイとバーカーの主権理論は、無制限な力の支配を招来してはならないという、グリーン以来の理想主義的な意図から出たものとみることができます。そして特にバーカーは、無制限な意志の支配は、無制限な力の支配を生み出すとみて、意志を目的の観念に結びつけようとするのです。バーカーはこう述べています。「もしもわれわれが意志を究極的なものにするなら、われわれは実際には力を究極的なものにしていることになる。何故なら、ただそれが意志であるという理由だけで、それが意志する目的や基準を考慮することなく支配的となっている意志は、力だからである」。バーカーが、憲法とか立法機関とか社会的正義の観念といったいろいろな要素を持ち出してきて主権と呼ぶのも、こうした要素に意志をチェックさせ、むき出しの意志の支配を防ごうとしたからに他なりません。ファシズム体制の下で、特定の指導者の意志にのみ支配権が認められ、その遺志に従って憲法秩序が破壊されて行ったことを考えれば、リンゼイやバーガーが憲法を重視し、それに主権を認めようとした意図は理解できるでしょう。

 しかしそうした意図とは離れてリンゼイとバーガーの主権理論を眺めると、最も問題になるのは、主権という言葉の用い方なのです。両者が共に憲法に主権を認め、あるいはバーカーの場合には社会的正義の観念にすら主権の名を与えるのは、「永続的な不変の権威者」を主権と考え、それを追い求めた結果なのでしょう。しかし憲法も社会的正義の観念も、内容的に変えられるものである以上、そういう意味での権威者ではあり得ないのです。否、そもそも、そういう権威者は発見できないということこそ、グリーンとラスキにとっては、主権理論の出発点になっていました。この立場を認めるなら、リンゼイとバーカーの主権に関する考え方自体が間違っていることになります。そして憲法や社会的正義の観念は、主権そのものではなくて、主権の正当性の根拠、あるいは、主権意志が形成されるためのチェック・ポイントとみなされることでしょう。そういうチェック・ポイントを強化するための議論とみることで、リンゼイとバーカーの主権理論は、無制限な力の支配を認めない理論として大きな意味を持ってくるのです。残された問題は、バーカーのいう立法機関に主権が認められるかどうか、ということなのですが、この問題は、この後の展開過程のなかで取り上げることといたします。

※ 2023年2月16日・18日の投稿文をup to date.



参考文献

 『イギリス政治思想(4)H・スペンサーから1914年まで』
   アーネスト・バーカー(著) 堀豊彦・杣正夫(訳) 岩波書店
 『現代政治の考察――討論による政治』
   アーネスト・バーカー(著) 足立忠夫(訳) 勁草書房
 『政治学原理』
   アーネスト・バーカー(著) 堀豊彦・藤原保信・小笠原弘親(訳) 勁草書房

 『民主主義の本質―イギリス・デモクラシーとピュウリタニズム (増補)』
   A.D.リンゼイ(著) 永岡薫(訳) 未来社
 『わたしはデモクラシーを信じる』
   A.D.リンゼイ(著) 山本俊樹・佐野正子(訳) 聖学院大学出版会

 『トーマス・ヒル・グリーンの思想体系』河合栄治郎全集第1巻、第2巻
     河合栄治郎(著) 社会思想社
 『グリーンの倫理学』 行安茂(著) 明玄書房
 『トマス・ヒル・グリーン研究』 行安茂(著) 理想社
 『T・H・グリーン研究』
     行安茂・藤原保信(著) イギリス思想研究叢書 御茶の水書房
 『近代イギリスの政治思想研究――T・H・グリーンを中心にして』
     萬田悦生(著) 慶応通信


 次回は「五 理想主義的主権理論の意義と適応性」
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