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2024年05月16日12:46

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2022年度NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』に寄せて 犬

 オープニングでも一瞬、白い犬が映ったりしていましたね。
 今回は、物語の転回にも大きな関りがある「犬」について。犬と狩りとの関係あたりから。

 当時の武士たちにとって猟は、自分の武功を挙げる非常に重要な舞台でもありました。
源頼朝(金子大地)によって平家、木曾義仲(青木崇高) 、奥州藤原氏と義経(菅田将暉)などを相手取った全国的な戦は終わり、御家人たちは武功を挙げる機会がめっきりと減っていました。
 そしてそれは、二代目の鎌倉殿でも同じこと。父とは違い実績がない頼家にとって、せめて狩りの場ではしっかりと武功を挙げて威厳を見せつける必要があったのです。
 そのためには、猟をサポートする犬たちの存在は不可欠。実際に猟を得意とする者のところへ自分の犬を弟子入りさせるような感覚だったのかもしれません。

 頼朝(大泉洋)暗殺計画でもあったという説がある"富士の巻狩り"は『吾妻鏡』の中でもとくに有名なエピソードですが、巻狩りでも犬たちはたくさん活躍していたはずです。
 獲物を狩り場に追い込んだり、隠れた獲物に吠えかかり武士たちが狩りやすいように誘導するのが当時の犬の主な仕事でした。
 こういった猟犬として育てる必要があったので、普段から猟に出て実地訓練を積ませることができるよう、猟が得意な御家人に自分の犬を任せたという側面は大きいはずです。

 実は、日本では伝統的に猟師は現代で言うところのドッグトレーナーとしての役割を担っていたことが分かっています。
 鎌倉時代から戦国、江戸時代にかけて蓄積された犬に関する知識を記した『犬狗養畜伝』という本が現存しているのですが、そこには細かく犬たちのしつけや基本のトレーニングの方法までが項目ごとに記されています。この「犬の書」は猟師たちが用いていたマニュアルのようなもので、そこには犬の困った行動に対してのしつけ方も書いてあったりします。例えば「勝手に出歩いて迷子になってしまわないようにするためにはどう教えれば良いか」だとか「獲物や飼い主の持ち物を噛んでしまわないようにするためには」といった困りごとに対する対処法なども記録されています。
 もちろん、相当昔の書物ですので、しつけの内容は現代の私たちの感覚からすれば的外れだったり、不適切なものも多くあります。しかし、他にここまで詳しく犬のしつけやトレーニングについて詳しく残っている書物はほとんどなく、狩猟にかかわる人間が犬のしつけの専門家として見られていた可能性が高いのです。

 日本では長く獣医学というものはあまり発展してこなかったという側面があります。もちろん、荷物を運んだり人を運ぶ「馬」はとても貴重な財産でもありましたから、優れた馬を管理するための医学はある程度成立していたと考えられています。
 一方で、犬の怪我や病気はというと……残念ながらほとんど治療されることはなかったようです。しかし、例外的に犬を生かし、健康的に過ごしてもらうために尽力した人々もいました。
 それは、やっぱり猟師たちでした。
 厳しいトレーニングを積ませ、立派に育てた犬たちでも、猟に出た時に怪我をすることもありましたし、病気になってしまうこともありました。
 猟師にとって犬は暮らしを豊かにしてくれる大切な相棒であり、子どもでもあったと思います。あまり歴史の表舞台に出てくることはありませんが、日本の猟師たちは大切に育てた犬に少しでも長く健康的に過ごしてもらうための「犬の医学」を密かに伝承していたのです。
 誰よりも犬の病気や怪我に詳しいのが、猟師たち、そして猟師と強いつながりを持っていたのが狩りを得意とするという御家人たちだったのでしょう。ある意味、狩りを得意とする御家人たちは鎌倉幕府の中で最も犬にも詳しい人、でもあったのです。
 『犬狗養畜伝』には、犬の食欲不振や皮膚病、嘔吐など現代の私たちも悩むことがある症状に対する薬の作り方や、食事の与え方なども記されています。
 犬を健康的に育てるための知識が詰まっていたのが、猟の場だったのです。

 鎌倉時代の犬事情の一端として、『吾妻鏡』の記述とそれにまつわる情報についてご紹介いたしました。
 二代将軍・源頼家は、鎌倉殿に就任後は蹴鞠に明け暮れて政務を怠るような人物であった、とも伝わっていますが、犬に関してはきちんと「誰に世話を任せればよい犬に育つか」を考えていたとも見えますね。


 もうひとつ。犬そのものではありませんが、こんなエピソードを。

 将軍源実朝の鎌倉御所に、御家人達が集まりました。当時のナンバーワンは執権北条義時で、次に相模(神奈川県)の豪族の三浦義村(山本耕史)が座っていました。そこへ、下総(千葉県)の豪族、千葉胤綱(ちばたねつな. 岡本信人)が北条義時(小栗旬)と三浦義村の間に割り込んで、さらに上席に座ったのです。
 義村は当時50歳ぐらいで、胤綱は数えの12歳。おじいちゃんと孫の年齢差です。ほとんど子どもの胤綱が自分の上席に堂々と座り、頭にきた義村は「千葉の犬は寝床を知らねえようだ」と犬呼ばわりします。現在ならばおっかないおじいちゃんに怒鳴られて、びっくり泣き出す小学5年生でしょうが、胤綱はひるみません。平然として、「三浦の犬は友達を喰らうらしいな」と切り返して周りを驚かせました。

 「義村しかるべく思はで、憤りたる気色にて「下総犬は、ふしどを知らぬぞよ」といひたりけるに、胤綱少しも気色かはらで、取りあへす「三浦犬は、友をくらふなり」といひたりけり、和田左衛門が合戦の時のことを思ひていへるなり。由々しくとりあへすはいへりけり」(古今著聞集、巻第十五「千葉介胤綱三浦介義村を罵り返す事」)

 なぜ胤綱が「友達を喰う」と言ったのか。それは和田合戦と呼ばれる内戦で、義村が和田義盛を裏切って勝利を得た行為を指していました。誓約を交わしていた友人や兄弟までも、裏切ったのです。まだ合戦の終結から間もない時で、多くの人々の間に、義村の裏切り行為に対する記憶が残っていました。胤綱の行為は、裏切りを許さない武士の心意気を表したものとして、噂になったのでしょう。天晴れな返しだと評判になり、『古今著聞集』に掲載されました。これは相手を犬と罵り合った、最古の記録のひとつです。

 人間と犬との歴史は古く、約2〜4万年前から、身近な動物でした。それなのに「犬」は蔑みの言葉として使われてしまいます。理由はいろいろ考えられますが、英語のbitchには犬の繁殖行動に由来するという説があります。犬は他の動物と異なり、交尾中、すぐに離れることができない特殊な身体の構造になってしまうため、人に見られても逃げることが難しく、すぐに止められません。


参考文献

 『犬狗養畜伝』 暁鐘成(著) 岩波文庫


 『鎌倉殿の13人 (NHK大河ドラマ・ガイド) 』
      三谷 幸喜 (著)  NHKドラマ制作班 (監修)

 『現代語訳吾妻鏡』 五味文彦・本郷和人 (編) 吉川弘文館
 『古今著聞集』 橘成季(著) 塚本哲三(編) 有朋堂書店〈有朋堂文庫〉
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