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2024年05月15日08:03

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室町時代における鎌倉

 日月水金のメインコンテンツ「中世史私論」の補助となる投稿です。


 まず、鎌倉府(かまくらふ)は、南北朝時代、京都に成立した室町幕府が前代鎌倉幕府の本拠地の鎌倉及びその地盤であった関東10か国を掌握するために設置した機関です。貞和5年(1349年)から室町時代中期の享徳4年(1455年)まで、約100年間存続しました。初代将軍足利尊氏の次子基氏とその子孫が長を世襲し、鎌倉公方と呼ばれます。これを補佐する関東管領は上杉氏が世まし襲した。その他に評定衆・引付衆・侍所・政所等、幕府に準じた機構を有していました。

 鎌倉幕府の支配が及ぶ範囲は、基本的には全国各地であったのに対し、室町幕府では、幕府の直接支配が及ぶ範囲は、実質的には京都を中心とする西日本地域でした。
室町幕府では、東国の統治は、 鎌倉府 が設けられ、その統治を担当しました。鎌倉府には、 足利尊氏 の子の家系が、 鎌倉公方 として赴任しました。また、東北には奥州探題・羽州探題、九州には九州探題が設置され、足利家の同族がその統治を担当しました。

 このように、室町幕府は実態的には、全国を異なる統治機構で分割統治していたと見ることができます。特に、鎌倉公方の「公方」とは将軍を意味する言葉で、鎌倉府は室町幕府に対して度々戦を起こすなど、両者の関係は微妙なものでした。

 中世の鎌倉は幕府の成立・発展とともにありました。しかし元弘三年(1333年)、新田義貞が鎌倉に攻め入り鎌倉幕府は滅亡。その後、足利尊氏が京都に幕府を開き、武家政治の中心は京都に移りました。そのため、室町時代の鎌倉は印象が薄いという人も多いことでしょう。

 しかし実際はその後も東国の中心地として繁栄をしていました。まず足利尊氏が室町幕府を開く際の『建武式目條々』という史料に、当時の武士たちによる鎌倉に対する見方が垣間見えます。「鎌倉に元の通り、柳営(幕府)を置くべきか?それとも他所にするべきか?」という文章から始まり、中でも注目すべきなのは「武家においては吉土と言うべきか?」という箇所。つまり、源頼朝が武館を構え、承久の乱で北条義時が天下を併呑したことから、武士たちにとって特別な場所(=吉土)と考えられていたのです。

 結局、足利尊氏は京都に幕府を置きましたが、庶子の基氏を鎌倉に派遣しました。以後、鎌倉の足利氏は関東公方と呼ばれる東国統治を担ってゆきます。

 ここからはWikipediaから抜粋。

京都・室町幕府からの自立

 文和2年(1353年)7月、足利尊氏は初代鎌倉公方・足利基氏に対し、所領の安堵権や宛行権、裁判権を付与して京都に戻りました。遠隔地の京都よりも、鎌倉から関東を直接統治した方が安定すると考えたことによるが、鎌倉府自立化の下地となった。そして、第2代鎌倉公方の足利氏満期(貞治6年・1367年〜)、第3代・満兼期(応永5年・1398年〜応永16年・1409年)に、その傾向が明確になる。例えば、鎌倉府管轄国の守護に対する指揮権は、基氏期までは京都の幕府にあったが、氏満期以降は鎌倉府に移ったと考えられている。将軍・管領から各国守護に宛てた文書がみられなくなり、鎌倉府と寺社宛の文書のみになる。守護の補任権についても、関東管領・山内上杉氏以外は鎌倉公方が把握しており、幕府が持っていたのは推挙権であった。諸国の国人に対する所領安堵についても、貞治年間(1362-1367年)までは、鎌倉公方が安堵推挙状を幕府管領に発しており、幕府が掌握していたことが分かるが、応永6年(1399年)の応永の乱前後を契機として、鎌倉公方が直接に安堵権を行使するようになる。このころには、所領安堵権を持つ鎌倉公方と関東武士の間に主従関係が確立するとともに、幕府は鎌倉府に対して指令する権限を失った状態になった。


上杉禅秀の乱・崩壊の始まり

 第2代鎌倉公方・足利氏満、第3代満兼期に確立された鎌倉府体制は、第4代足利持氏期(応永16年・1409年〜)に崩壊に向かう。その端緒となるのが、応永23年(1416年)10月の上杉禅秀の乱であった。関東管領・犬懸上杉氏憲(禅秀)の家臣・越幡氏の所領を持氏が没収すると、禅秀は「不義の御政道」と批判して関東管領を辞職、持氏は禅秀と対立していた山内上杉憲基を新たな関東管領とした。これを不満とする禅秀は、下総の千葉氏、上野の岩松氏、甲斐の武田氏、常陸の山入氏・大掾氏、下野の那須氏・宇都宮氏の支持を得て反乱を起こす。一旦は公方・持氏は鎌倉から放逐されたが、幕府の支援により反撃し、鎌倉を奪還・禅秀勢を打ち破った。しかし、このとき多くの関東武士が禅秀を支持していた、その背景には「公方権力の絶対化にともなう新たな抑圧と統制への反発」があったと考えられる。乱を契機に、持氏を支持した新興勢力と、禅秀を支持した伝統的豪族層・国人層の対立が顕在化し、鎌倉府の権力基盤が弱体化した。かつて足利尊氏・直義兄弟が懸念した関東の不安定化が再び現実化する。


京都扶持衆・幕府との対立激化

 上杉禅秀の乱で禅秀に与した関東武士は、鎌倉公方・足利持氏からの弾圧から逃れるために、幕府との結び付きを強め、京都扶持衆と呼ばれる集団を形成した。一旦確立した鎌倉府管轄国の内部に、幕府があからさまに干渉を始め、持氏は危機感を強める。持氏は鎌倉府管轄外だった越後、信美濃、駿河に干渉して、逆に「鎌倉扶持衆(関東扶持衆)」と呼ぶべき集団を形成し、鎌倉府と幕府との対立が深まっていった。


永享の乱〜享徳の乱・鎌倉府崩壊

 応永35年(1428年)正月、将軍・足利義持が後継者不在のまま亡くなり、正長2年(1429年)3月、くじ引きで選ばれた足利義教が新たな将軍となる。鎌倉公方・足利持氏は、自らが将軍になる野心を持っていたため、京都の幕府・義教との関係はさらに悪化した。永享10年(1438年)8月、持氏は京都との調停役となっていた関東管領・上杉憲実討伐を始めた(永享の乱 )。しかし幕府が軍事介入すると、持氏から離反するものが相次ぎ、憲実討伐に失敗して降伏。さらに義教は憲実の助命嘆願も無視し、永享11年(1439年)2月、持氏と嫡子・義久を攻め滅ぼした。

 このとき持氏に対して厳しい姿勢を示した義教も、鎌倉府そのものは否定しなかった。新たな鎌倉公方として、自らの子息を鎌倉に下向させ、鎌倉府を再興させようとする。この構想は、嘉吉元年(1441年)6月の義教暗殺(嘉吉の乱)により白紙化されるが、文安4年(1447年)3月、鎌倉府は持氏の遺児・足利成氏のもとで再興された。永享の乱とその後の結城合戦を経て、上杉氏と伝統的豪族層・国人層との対立が顕在化すると、両者ともにそれぞれの思惑から新たな鎌倉公方を必要としたのである。しかし、対立は解消されないまま、成氏は幕府および関東管領・上杉氏と対立し、享徳3年(1454年)12月に始まった享徳の乱にて、鎌倉を離れ下総・古河に移座した[5]。崩壊した鎌倉府は古河公方・古河府に継承される。

 Wikiからの引用終わり


 2015年に市指定文化財に指定された「別願寺文書」十通には関東公方の寄進状が多く伝わっており、その繁栄の一端がうかがえます。しかし、関東公方も永享十年(1438年)の永享の乱で京都の将軍家足利義教によって壊滅的な被害を受けて以降、衰退の一途を辿ることとなります。

 鎌倉というとどうしても源頼朝や鎌倉時代を中心に想像してしまいがちです。しかし実際は、室町時代にも東国の中心地として繁栄を続けていました。関東公方ゆかりの史跡は市内の随所に残っているので、調べて訪れるのも鎌倉散策の楽しみの一つでしょう。


※ 2023年5月14日の投稿文に加筆
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