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2024年05月15日05:58

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5月15日に亡くなった主な人々

1585年(天正13年4月16日)、武将の丹羽長秀が積寸白(寄生虫病)のために死去。享年51。織田氏の宿老。朝廷より惟住(これずみ)の姓を賜ったので惟住長秀ともいいます。羽柴越前守とも称しました。越前国や若狭国で勢力を振るっていた朝倉義景討伐に加わり、信長の命令で義景の母(高徳院)や妻(小少将)、子の朝倉愛王丸を処刑しました。天正元年(1573年)9月、長秀は若狭一国を与えられ、織田家臣で最初の国持大名となりました。その後も長秀は高屋城の戦い、長篠の戦いや越前一向一揆征伐など、各地を転戦して功を挙げます。さらに長秀は軍事だけではなく、政治面においても優れた手腕を発揮し、安土城普請の総奉行を務めるなど多大な功を挙げています。天正10年(1582年)6月、三好康長・蜂屋頼隆と共に織田信孝の四国派遣軍(長宗我部征討軍)の副将を命じられます。また、上洛中の徳川家康が大坂方面に向かうにあたり、案内役の長谷川秀一から引き継ぐ形で津田信澄と共に接待役を信長から命じられていました。しかし、出陣直前に本能寺の変が起こると、長秀は信孝を補佐し、逆臣・明智光秀の娘婿にあたる津田信澄を共謀者とみなして殺害しました。その後、信孝と共に羽柴秀吉の軍に参戦して山崎の戦いで光秀を討ちました。変に際して大坂で四国出陣の準備中だった長秀と信孝は、光秀を討つには最も有利な位置にいましたが、信孝と共に岸和田で蜂屋頼隆の接待を受けており、住吉に駐軍していた四国派遣軍とは別行動をとっていました。このため、大将不在の時に本能寺の変の報せが届いたことで四国派遣軍は混乱のうちに四散し、信孝・長秀の動員できる兵力が激減したため、大規模な軍事行動に移ることができませんでした。長秀と信孝はやむをえず守りを固めて羽柴軍の到着を待つ形となり、山崎の戦いにおける名目上の大将こそ信孝としたものの、もはやその後の局面は秀吉の主導にまかせるほか無かったのです。また、本能寺の変の直後には長秀の佐和山城は明智方についた荒木氏綱父子に入城されてしまいましたが、山崎の戦いの後に回復しました。清洲会議で長秀は池田恒興と共に秀吉が信長の後継者に推す信長の嫡孫・三法師を支持。結果として、諸将が秀吉の織田家の事業継続を認める形となりました。秀吉と勝家とが天下を争った一戦である天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いでも秀吉を援護し、戦後に若狭に加え越前(敦賀郡・南条郡の一部・大野郡の一部を除く)及び加賀二郡(うち一郡は溝口秀勝が領する)を与えられ、約123万石の有数の大名となりました。

1615年、武将の長宗我部盛親が大坂夏の陣で敗北後捕えられ斬首されました。数え41歳。長宗我部氏第22代当主。長宗我部元親の四男。土佐の戦国大名としての長宗我部氏の最後の当主。父・元親の死後に長宗我部家の家督を継ぎました。関ヶ原の戦いで西軍に属しますが、敗色濃厚と見て戦わず帰国し、徳川氏に謝意を表しました。しかし、帰国直後に重臣たちが浦戸一揆を起こしたことをとがめられ、領国を没収され浪人となりました。のち豊臣側から故郷の土佐一国の贈与を条件に旧臣と共に大坂城に入城、大坂の陣が勃発し、戦闘に参加しましたが敗北。再起を図るため、逃亡しましたが捕らえられた後、処刑されたものです。

1932年、政治家の犬養毅が暗殺されました。17時30分頃、警備も手薄の中、海軍の青年将校と陸軍の士官候補生の一団がピストルを振りかざして乱入してきました。襲撃犯の一人である三上卓は犬養を発見すると即座にピストルの引き金を引きました。しかし、偶然にも弾が入っておらず不発に終わり、その様子を見た犬養は両手を上げて、有名な文句「話せば分かる」を口にして将校たちを応接室に案内しました。応接間に着くと「靴ぐらい脱いだらどうだ」と述べ、彼らに煙草を勧めましたが、三上は「何か言い残すことはないか」と返しました。その言葉を聞いた犬養は何かを言おうとしましたが、興奮状態にあった山岸宏が「問答無用、撃て」と叫び、別働隊であった黒岩勇が応接間に突入して犬養を銃撃しました。同時に三上も発砲して弾丸は頭部に命中しました。襲撃者たちは犬養に重傷を負わせるとすぐに去って行きました。女中たちが駆けつけると、犬養は顔面に被弾して鼻から血を流しながらも意識ははっきりしており、縋りつく女中を制して「いま撃った男を連れてこい。よく話して聞かすから」と述べたということです。22時頃に大量の吐血をしましたが、驚く周囲に「胃にたまった血が出たのだよ。心配するな」と逆に励ますほど元気でした。見舞いに来た家人に「9発撃って3発しか当たらぬとは、軍はどういう訓練をしているのか」と嘆いたということです。しかしその後は次第に衰弱し、23時26分に帰らぬ人となりました。享年78(満76歳没)。この事件の背景は、浜口内閣がロンドン海軍軍縮条約を締結したことにありました。その際に全権大使だったのが元総理の若槻禮次郎です。浜口内閣が崩壊すると、若槻が再び総理となり第2次若槻内閣が誕生しました。そのため、本来なら若槻が暗殺対象でしたが、その若槻は内閣をまとめきれず1年足らずで総理を辞任してしまい、青年将校の怒りの矛先は若槻ではなく政府そのものに向けられることになりました。そもそも犬養は、軍縮条約に反対する軍部に同調して、統帥権干犯問題で浜口内閣を攻撃し、軍部に感謝されていた側の人間です。しかし、その政府の長に犬養が就任したため、政府襲撃事件を計画していた青年将校の標的になってしまったのです。犬養は中国進歩党代表者、立憲国民党総理、革新倶楽部代表者、立憲政友会総裁(第6代)、文部大臣(第13・31代)、逓信大臣(第27・29代)、内閣総理大臣(第29代)、外務大臣(第45代)、内務大臣(第50代)などを歴任しました。
1991年、政治家の安倍晋太郎が入院先の東京都文京区の順天堂大学医学部附属順天堂医院で死去。67歳没。 衆議院議員、農林大臣、官房長官、通産大臣、外務大臣、自民党国対委員長、自民党政調会長、自民党総務会長、自民党幹事長を歴任。衆議院議員の安倍寛の長男。岳父に内閣総理大臣の岸信介、義理の叔父は内閣総理大臣の佐藤栄作、次男は内閣総理大臣の安倍晋三です。政界のプリンスと呼ばれ、竹下登、宮澤喜一と並びニューリーダーの一人に数えられて将来を嘱望された。後に派閥の領袖となり、総理総裁を確実視されるまでに至りましたがそれを目前にして病死し、悲運のプリンスと呼ばれました。
https://www.youtube.com/watch?v=NbQms0kqbKw

1996年、国際政治学者の高坂正尭(こうさか まさたか)が肝臓癌のため62歳で死去。専門は国際政治学・ヨーロッパ外交史。高坂正顕の次男。実弟高坂節三は、コンパスプロバイダーズL.L.C日本代表、東京都教育委員、経済同友会幹事、憲法問題懇談会委員長を務めました。大学では国際法学者の田岡良一や政治学者の猪木正道に師事。猪木は高坂の没後に、「高坂は僕が教えた中では、ピカイチの天才だった」と回想しています。現実主義の論客として著名で、見識が広く近現代日本の史論も多く著しました。一般に社会科学者らの著作は時を経ると時代遅れになりますが、高坂は没後20年以上経ても『現代の古典』として研究者・専攻学生たちに読まれ続けています。 高坂が一般に知られるようになった契機は、『中央公論』誌での活躍からで、高坂は1963年にハーバード大学留学から帰国した直後に、当時『中央公論』編集部次長であった粕谷一希の依頼により「現実主義者の平和論」を同誌に寄稿、論壇にデビューしました。高坂は同論文において、当時日本外交の進むべき道として論壇の注目を集めていた坂本義和らの「非武装中立論」の道義的な価値を認めながらも、実現可能性の難しさを指摘し、軍事力の裏付けのある外交政策の必要性を主張しました。さらに翌1964年に吉田茂を論じた「宰相吉田茂」は、吉田の築き上げた日米基調・経済重視の戦後外交路線をその内外政に即して積極的に高く評価し、否定的な評価が広まっていた吉田に対する評価を一変させ、現在に至る吉田茂への肯定的評価を定着させることとなります(また、同年に寄稿した「海洋国家日本の構想」では、島国の日本が海洋国家として戦略的・平和的発展を目指すべしと論じて、この議論を補強する論を展開しています)。これらの論文を契機として、30歳前後にして高坂は現実主義を代表するオピニオン・リーダーとしての地位を確立することとなります。高坂は冷戦時代から共産主義国家に対しても、国内の中立主義と同様その理想の持つ魅力・意義を認めながら批判的な態度を取りました。以後、時事的な外交評論のみならず、国際政治学、文明論などを含む幅広い分野において切れ味鋭い分析と提言を展開することとなります。その議論は人間の本性に即した権力構造を探求していたといえます。また、コメンテイターとしてテレビ朝日系の「サンデープロジェクト」にも出演。同じくテレビ朝日系の「朝まで生テレビ」の初期にもパネリストとして出演しました。番組内で交流のあった田原総一朗からは、「余人を以て代え難い方」と高い評価を受けていました。
https://www.youtube.com/watch?v=a7rM_yY8FC4

2012年、女優の中原早苗が心不全のため逝去。76歳没。国本女子高等学校卒業。在学中の1953年に『村八分』(近代映画協会)で主演級の役でデビュー。現代ぷろだくしょんに入り、設立メンバーの山村聡の家に住み込み、女優としての所作を学び、『蟹工船』にも出演し、映画、テレビドラマ、ラジオ、舞台の出演を通じて経験を重ねます。独立プロ系の作品で活躍後、母と知り合いの水の江瀧子にスカウトされ、1955年に日活と契約、年間6本で1本当たり20万円と高額の条件でした。中原と笹森礼子、浅丘ルリ子、清水まゆみ、吉永小百合、芦川いづみの6人は「日活パールライン」と呼ばれ、色々なジャンルの映画の中で、主役から脇役まで様々な役柄を幅広くこなす器用な若手女優として、8年間に80本の作品に出演しました。1964年にフリーとなり、『仁義なき戦いシリーズ』など東映を中心に各社の映画に顔を出します。テレビドラマにも2時間ドラマなどに多数出演しています。私生活では川地民夫と事実婚状態となるも、短期で未入籍のまま別離しました。その後、1965年に映画監督の深作欣二と正式結婚しました。深作との間に出生したのが深作健太です。夫の欣二が亡くなった後は表舞台に一切出ず、引退状態であったということです。
https://www.youtube.com/watch?v=-OezMypThaI

2014年、映画監督、脚本家の鈴木則文が脳室内出血のため東京都武蔵野市の病院で死去。満80歳没(享年82)。1956年、立命館大学中退後、 東映京都撮影所に助監督として入社。1959年、助監督として加藤泰、内田吐夢両監督に1964年まで師事。1963年、内出好吉監督『続・てなもんや三度笠』にて脚本家デビュー(沢田隆治との合作)。1965年、『大阪ど根性物語 どえらい奴』(主演:藤田まこと)にて監督デビュー。代表作は『緋牡丹博徒シリーズ』 (脚本)、『温泉みみず芸者』(監督・共同脚本)『女必殺拳シリーズ』(企画・脚本)『トラック野郎』シリーズ (監督) など。
https://www.youtube.com/shorts/LJW3iG67jtk



引用・参照したサイト

5月15日は何の日?記念日、出来事、誕生日などのまとめ雑学
5月15日、今日は何の日〜毎日が記念日〜
5月15日は何の日
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トラッドジャパン 5月15日
マイナビウーマン 5月15日
Wikipedia「5月15日」
ほか
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