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2024年04月29日05:14

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1838年(天保9年)、牧師の粟津高明が生まれました。明治時代のプロテスタントの教会指導者であり、「布教」に代わって「伝道」という言葉を造った人物。日本基督教団霊南坂教会の元になる日本教会を設立しました。1880年10月29日に42歳で没。粟津の死後2年目の1882年(明治14年)に、小崎弘道の新肴町教会と日本教会とが合併して東京第一基督教会となります。後に、日本組合教会に所属し霊南坂教会と呼ばれます。

1854年、フランスの数学者、理論物理学者、科学哲学者のアンリ・ポアンカレが生まれました。位相幾何学の分野では、トポロジー概念の発見や、ポアンカレ予想など、重要な活躍をしています。また、フックス関数と非ユークリッド幾何学との結びつきについての数学的な発見をした際に、その過程の詳しい叙述を残して、その後の数学研究の心理学的側面の研究にも影響を与えました。その他、ヒルベルトの形式主義に対する批判をして、初期の数学的直観主義の立場を表明しました。電子計算機がない時代にカオス的挙動について言及した点でも特筆され、後に「バタフライ効果」と呼ばれる予測不能性などが著書の中で触れられています。1912年7月17日 、パリにて死去。満58歳没。

1899年、アメリカのジャズオーケストラのリーダー、作曲家のデューク・エリントンが生まれました。20世紀最大のジャズ・ポピュラー界の音楽家と言われています。「デューク(公爵)」というニックネームは、子供の頃から自然な優雅さ、身嗜みを身に付けきちんとした服装をしていたことから、親友エドガー・マッケントリーによって付けられました。ニューヨークに進出し、1927年にニューヨーク市マンハッタン区ハーレムにて高級ナイトクラブ「コットン・クラブ」を経営していたアイルランド系ギャングスターのオウニー・マドゥンが、友人のユダヤ系ギャングスターのブー・ブー・ホフに頼み、デューク・エリントンとバンド契約に至ります。1930年代から第二次世界大戦後にかけて『A列車で行こう』(作曲はビリー・ストレイホーン)など、音楽史に残る様々な作品を世に出しました。数々の名盤も必聴ですが、『マネー・ジャングル』『デューク・エリントン&ジョン・コルトレーン』 といった異色の共演者との組み合わせも面白いです。1974年5月24日、75歳で死去。
https://www.youtube.com/watch?v=cMIdHuEAAug

1901年、昭和天皇が生まれました。諱は裕仁(ひろひと)、称号は迪宮(みちのみや)。第二次世界大戦前に即位し、日本が復興するまで60年余りに亘って在位し、帝国憲法に定められた「統治権の総攬者(そうらんしゃ)=立憲君主」としての天皇と日本国憲法に定められた「象徴天皇」の両方を経験しました。1989年(昭和64年)1月7日午前6時33分に崩御。密室芸人時代のタモリがよく物まねしておりました。
https://www.youtube.com/watch?v=zZGHVM4bYgI

同じく1901年、評論家、ジャーナリストの尾崎秀実(おざき ほつみ)が生まれました。近衛文麿政権のブレーンとして、政界・言論界に重要な地位を占め、軍部とも独自の関係を持ち、日中戦争(支那事変)から太平洋戦争(大東亜戦争)開戦直前まで政治の最上層部・中枢と接触し国政に影響を与えました。共産主義者であり、革命家としてリヒャルト・ゾルゲが主導するソビエト連邦の諜報組織「ゾルゲ諜報団」に参加し、スパイとして活動。最終的にゾルゲ事件として1941年(昭和16年)発覚し、首謀者の1人として裁判を経て11月7日、死刑に処されました。43歳没。共産主義者としての活動は同僚はもちろん妻にさえ隠し、自称「もっとも忠実にして実践的な共産主義者」として、逮捕されるまで正体が知られることはありませんでした。

1905年、武田薬品工業の創業家、6代目武田長兵衛が生まれました。幼名は、武田鋭太郎。在任中は経営の多角化・近代化を推進し、1954年(昭和29年)発売のビタミンB1主薬製剤「アリナミン」などでの成功によって武田薬品工業を業界トップに押し上げました。ただし、この薬は効かないどころか有害であると、私は獣医大学で教わりました。1980年9月1日に死去。

1907年、アメリカの映画監督、フレッド・ジンネマンが生まれました。信念を貫く人物を描く作品で本領を発揮し、自身もハリウッドの中で信念を押し通した映画監督。若き日に出会った記録映画監督ロバート・フラハティに強い影響を受けました。また、マーケティングに基づいた今日の商業主義的映画製作に批判的な態度を示していました。1952年に西部劇映画『真昼の決闘』を発表。それまでの西部劇とは違った、保安官の弱さと孤独を描き、主演の保安官を演じたゲイリー・クーパーがアカデミー主演男優賞を受賞。大ヒットを収め、その後の西部劇映画に大きな影響を与えた。その翌年の1953年にはアメリカ軍兵士達の過酷な運命を描いた『地上より永遠に』が公開。波打ち際のキスシーンや、フランク・シナトラの演技が話題を呼び、映画は大成功。映画史に残る名作となりました。その年のアカデミー賞ではアカデミー作品賞を始め、監督賞など計8部門を受賞。世界的な名匠となっていきます。1966年には『わが命つきるとも』を発表。己の信念を貫き通す主人公という、自分自身と通ずる人間を描き、二度目のアカデミー監督賞を受賞。作品自体も6部門を受賞し、作品賞も受賞しました。その後も精力的に作品を撮り続け、1973年にはベストセラーとなったスリラー小説『ジャッカルの日』を映画化。ドキュメンタリータッチな作風と、原作に忠実な演出で話題を呼びました。1997年3月14日、心臓発作により、89歳で没。

同じく1907年、詩人の中原中也が出生。生涯で350篇以上の詩を残しました。その一部は、結婚の翌年刊行した処女詩集『山羊の歌』、および、中也の死の翌年出版された第二詩集『在りし日の歌』に収録されています。訳詩では『ランボオ詩集』や数は少ないもののアンドレ・ジイドの作品などフランス人作家の翻訳もしています。1937年9月、左手中指の痛みを訴え痛風と診断されています。9月15日、野田書房より訳詩集『ランボオ詩集』が刊行され、売れ行きは上々でした。23日、『在りし日の歌』の原稿清書を終え、翌日小林秀雄に渡しています。夏ごろから良くなかった体調がさらに悪化、10月4日に横浜の安原喜弘を訪ねた時は、頭痛や電線が2つに見える視力障害を訴えました。歩行困難もありステッキをついて歩いていました。5日、鎌倉駅前の広場で倒れ、翌日鎌倉養生院(清川病院)に入院。脳腫瘍が疑われ、その後急性脳膜炎と診断されました(今日では、結核性の脳膜炎とされています)。15日、母のフクと思郎が駆けつけたときは既に意識は混濁していました。明治大学で教えていた小林は1週間休講にして病室に詰めました。河上徹太郎は毎日東京から病院に通いました。22日午前0時10分永眠。苦しむことなく安らかな死でした。
https://chuyakan.jp/about-chuya/

1922年、女優の千石規子(せんごく のりこ)が生まれました。小学校を卒業後、ムーランルージュ(水谷八重子一座)を経て、1947年に東宝へ入社。戦時中には広島原爆で全滅した移動劇団桜隊に所属していましたが、出産で広島にいなかったため、被爆を免れました。1954年頃から数年間東映に移籍していましたが、再び東宝に戻りました。黒澤明作品に最も多く出演している女優であり、『野良犬』ではリメイク版(1973年)にも出演。「脇役は一つでも緩もうなら全体がダメになる『四隅のネジ』と同じ」「出演依頼がある限り仕事を続けたい」との信念を持ち、老け役もこなしました。実際に80歳を超えても芸能活動を続け、テレビドラマやバラエティー『踊る!さんま御殿!!』(日本テレビ系)などにも出演していました。2007年に芸能活動を引退。2012年12月27日、老衰のために東京都内の病院にて永眠。90歳没。
https://www.pinterest.jp/pin/624452304573158083/

1924年、政治家の安倍晋太郎が生まれました。 衆議院議員、農林大臣、官房長官、通産大臣、外務大臣、自民党国対委員長、自民党政調会長、自民党総務会長、自民党幹事長を歴任。衆議院議員の安倍寛の長男。岳父に内閣総理大臣の岸信介、義理の叔父は内閣総理大臣の佐藤栄作、次男は内閣総理大臣の安倍晋三。政界のプリンスと呼ばれ、竹下登、宮澤喜一と並びニューリーダーの一人に数えられて将来を嘱望されました。後に派閥の領袖となり、総理総裁を確実視されるまでに至りましたがそれを目前にして1991年5月15日に病死し、悲運のプリンスと呼ばれました。67歳没。
https://ameblo.jp/nakasugi-hiroshi/entry-12396717618.html

1925年、小説家の田中小実昌が生まれました。大学在学中からストリップ劇場「東京フォーリーズ」での演出助手(のちに、コメディアンとして出演するようになる)や、バーテンダー、啖呵売、易者などの職を渡り歩き、その経験を元に踊り子や客達との交流を描いたエッセーで注目されました。進駐軍用将校クラブでバーテンダーをしていた時、酒瓶がなくなる事件があり、窃盗容疑で起訴されました。勝手に酒瓶を開けて飲んではいましたが、持ち出してはいないと主張しましたが、簡易裁判所で罰金刑を受けました。1950年に進駐軍横田基地で職を得ます。1954年より米軍の医学研究所で化学実験の仕事をし、その傍ら、推理小説の翻訳家として、主にハードボイルド作品を多数、翻訳。レイモンド・チャンドラーの翻訳は、主に清水俊二が手がけていて「定番」となっていますが、田中も一部の作品を訳しています。米軍を辞職して後は、ほとんど翻訳はしていません。1952年『新潮』に「上陸」を発表、66年に「どうでもいいこと」を『文學界』に発表していますが、1967年以降、『オール讀物』『小説現代』などに大衆小説を発表し始め本格的に作家活動に入ります。1971年、『自動巻時計の一日』で直木賞候補。1979年、『ミミのこと』『浪曲師朝日丸の話』の2作品で直木賞を受賞。ただしこの二作を雑誌に発表したのは1971年で、単行本『香具師の旅』に入ったため候補になったもので、異例です。同年、戦争体験や父の姿に題材を取った短編集『ポロポロ』(表題作は77年発表)で谷崎潤一郎賞も受賞。禿げ頭に手編みの半円形の帽子をかぶり、夏には半ズボンにサンダル履きというラフな格好を好み、「コミさん」の愛称で親しまれました。すっとんきょうな表情で、またウィットに富んだユーモアで場を和まし、往年の深夜番組『11PM』をはじめとして、テレビドラマ、映画、CMといった様々な場面で活躍。ピンク映画でカラミを演じた事もありました。赤ちょうちんがぶら下がる酒場を庭とするような庶民派で、新宿ゴールデン街(東京都)の常連としてならしました。午前中に原稿を書き、午後は映画会社の試写室で映画をみて、夜は家か飲み屋で飲む、という日常を送っていました。ゴールデン街では、10軒は飲み歩いたそうです。家ではブドウ酒、外で飲むのは、もっぱらジンのソーダ割り。映画の試写会がない週末には、目的もなくバスに乗っていました。海外に滞在したときも、毎日バスに乗っていました。2000年2月26日(日本時間2月27日)、滞在先のアメリカ・ロサンゼルスにて肺炎のため客死。74歳没。
https://www.youtube.com/watch?v=hKthiKsRk80&t=1s

1928年、噺家の古今亭圓菊が生まれました。昭和を代表する落語家・5代目古今亭志ん生の弟子として、5代目志ん生から多くのネタを継承。体をよじるようなコミカルなしぐさと、「圓菊節」とも言われる口調で人気を集めます。前述のとおり、この名跡の初代は圓菊の師匠志ん生でした。しかし圓菊は「師匠は三遊亭で名乗ったから、俺が初代だ!」と周りにふれこんでいました。手話落語を創案。刑務所篤志面接などのボランティア活動も続けていました。3代目古今亭志ん朝亡き後は、古今亭一門の総帥でもありました。2012年10月13日9時、多臓器不全のため、東京都北区の病院で死去。84歳没。
https://www.youtube.com/watch?v=4cGgPkLIkNY

1930年、女優の岸田今日子が生まれました。1953年に今井正監督の『にごりえ』の端役で映画デビュー。1954年、同じ文学座に所属する(演技だけでなく当時二枚目俳優としても評判の高かった)仲谷昇と結婚。妊娠したが俳優という休めない仕事の影響もあり、一度流産を経験。その後は演技に磨きをかけ、舞台を中心に映画、テレビ、声優と幅広い芸域を持ちます。1960年、三島由紀夫演出の『サロメ』で主役に抜擢されて以降、テアトロン賞を受賞した『陽気な幽霊』をはじめ、数多くの舞台で多くの大役、難役をこなします。映画では1962年に『破戒』などの演技で毎日映画コンクール助演女優賞、1964年には『砂の女』でブルーリボン助演女優賞を受賞して、実力派女優としての地位を確立。
1963年、杉村春子ら文学座幹部の運営に限界を感じていた芥川比呂志、高木均、小池朝雄、神山繁、山崎努らと共に文学座を脱退。「劇団雲」を経て、1975年には「演劇集団 円」の設立に参加し、『壊れた風景』、『うしろの正面だあれ』、『トラップ・ストリート』など、別役実書き下ろしの大半の作品に出演。その後もテレビ・映画出演と並行して舞台女優としても第一線で活躍していました。近寄りがたい妖艶さを見せる一方、ユーモラスな役もこなす硬軟自在の演技は若い頃から評価がありました。その存在感から怪優と賞されることもありました。アニメ『ムーミン』のムーミン・トロールの声を担当。世間の子供たちにその声が愛されることになりました。また、『ムーミン パペットアニメーション』ではムーミンを含めたすべてのキャラクターおよびナレーションまで一人で全部を演じわけています。独特の声と情感豊かな読みにより、ナレーターとしても他に得がたい存在として、ドキュメンタリーからバラエティまで幅広く起用されていました。テレビドラマでは、特に1963年の『男嫌い』で、男をむしる独身四姉妹・越路吹雪、淡路恵子、岸田、横山道代(現・横山通乃)の三女役で出演したことが大きいです(四姉妹の末弟役は坂本九)。同番組は「カワイ子ちゃん」「かもね」「そのようよ」などの流行語を生み出す大人気ドラマであり、お茶の間での岸田の認知度も上がりました。映画では市川崑作品に多く起用されており、『犬神家の一族』などに出演。2006年12月17日、76歳で死去。父は劇作家で文学座創設者の岸田國士、母は翻訳家の岸田秋子。姉に詩人で童話作家の岸田衿子、従弟に俳優の岸田森がいます。俳優の仲谷昇は元夫。
https://www.youtube.com/watch?v=i81lONP_ld8


引用・参照したサイト

4月29日は何の日?記念日、出来事、誕生日などのまとめ雑学
4月29日、今日は何の日〜毎日が記念日〜
4月29日は何の日
4月29日の雑学。今日は何の日?記念日、誕生日、カレンダー
トラッドジャパン 4月29日
マイナビウーマン 4月29日
Wikipedia「4月29日」
ほか
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