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2024年04月16日00:02

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04月16日の日記

今日の出来事:73年−第一次ユダヤ戦争が終結、1190年−大河兼任の乱、1577年−荒田野の戦い、1877年−クラーク博士が帰国、1929年−四・一六事件、1945年−ベルリンの戦い開始、1972年−川端康成がガス自殺、2016年−熊本地震

今日は、第一次ユダヤ戦争が終結です。ユダヤ人苦難の歴史の一つ、「第一次ユダヤ戦争」が終結しました。帝政ローマ期の66年から73年まで、ローマ帝国とローマのユダヤ属州に住むユダヤ人との間で行われた戦争です。ヘロデ大王の死後、ユダヤはローマ帝国の直轄とされていました。カイサリアでのユダヤ人の殺害がきっかけで、エルサレムで暴動が起こりました。ローマ帝国軍は鎮圧軍を派遣してエルサレムを包囲すると、エルサレム神殿に火を放ち、陥落させました。この後、1000人のユダヤ人がマサダ要塞に立て籠もり3年もの間、抵抗しました。しかし、兵糧攻めによる餓死と集団自決により全滅し、「第一次ユダヤ戦争」は完全に終結しました。

次に、大河兼任の乱です。鎌倉政権と奥州藤原氏残党・大河兼任との間で東北地方で行われた戦いです。1189年の「奥州合戦」に勝利した源頼朝は葛西清重を奥州総奉行に任命すると、鎌倉に帰還しました。陸奥国内では奥州藤原氏に従属していた武士団が土地を没収されて、葛西清重を始め多くの東国武士が地頭職を与えられました。一方で、多賀城国府では在庁官人による国務運営が継続し、戦場とならなかった出羽国内陸部では旧来の在地豪族が勢力を保持しており、東国武士と在地勢力の間に軋轢が生じるようになりました。大河兼任は、藤原泰衡の郎党で八郎潟東岸を本拠としていました。「奥州合戦」で奥州藤原氏が滅亡すると、源義経、源義仲の嫡男・義高などと称して、出羽国で挙兵しました。大河兼任は、「親類・夫婦の仇を討つのは通常のことであるが、未だ主人の仇を討った例はなく、その例を始める」として7000騎の軍勢を率いて鎌倉に向けて進軍を開始しました。その経路は河北、秋田城を経由して大関山(笹谷峠)を越えて、まずは多賀城国府を目指すものでしたが、凍った八郎潟の湖上を渡る途中で氷が割れて、5000人が溺死しました。大河兼任は進路を変えて小鹿島、津軽方面に向かいました。由利維平を小鹿島の大社山毛々左田の辺で討ち取り、津軽では宇佐見実政を討ち取りました。大河兼任の弟で御家人となっていた忠季、新田三郎入道らから報告を受けた源頼朝は、軍勢を派遣する事を決断し、相模以西の御家人に動員令が下されました。海道の大将を千葉常胤、山道の大将を比企能員、足利義兼を追討使、千葉胤正を大将軍として派遣しました。奥州に所領を持つ御家人、上野・信濃の御家人も次々に下向しました。源頼朝は個々の御家人が手柄を競って寡兵で敵に挑むのを戒め、兵力を結集して十分に準備を進めてから事に当たるよう指示を下しました。大河兼任軍は、津軽から陸奥中央部に進んで平泉に達し、奥州藤原氏の残党を配下に加えて一万騎に膨れ上がりました。この形勢を見て、多賀城国府の留守所も大河兼任に同調しました。平泉に入った大河兼任軍は、3月19日に栗原郡一迫(現・栗原市)で足利義兼が率いる追討軍と衝突しました。大河兼任軍は、壊滅的打撃を受けて敗走しました。大河兼任は残存兵力500余騎を率いて衣川で反撃しましたが敗北し、北上川を越えて外ヶ浜と糠部の間にある多宇末井の懸橋近くの山に立て籠もりましたが、足利義兼らの急襲を受けて敗走しました。大河兼任は花山、千福、山本など各地を転々とした後、亀山を越えて栗原に戻りましたが、4月16日に栗原寺で錦の脛巾を着て金作りの太刀を帯びた姿を地元の樵に怪しまれ、斧で斬殺されました。首実検は千葉胤正が行いました。こうして、約3ヶ月に及んだ反乱は終息しました。源頼朝は、大河兼任に同意した多賀城国府の留守所に替えて、伊沢家景を留守職に任じました。以後の陸奥国は平泉周辺を基盤として軍事・警察を担う葛西清重と、多賀城国府を管轄する伊沢家景の二元的な支配体制となり、鎌倉幕府の勢力が浸透する事となりました。大河兼任は藤原泰衡の仇討ちのため挙兵した事で、主君の敵討ちの元祖と言われています。

その次に、荒田野の戦いです。三好長治は、三好義賢(実休)の子です。「久米田の戦い」で父が討死したため、家督を相続しました。伯父・三好長慶によって畿内の支配力を強めた三好氏の中で、本国の阿波・勝瑞城を預かる重要な役割を担っていました。しかし、幼少のために、重臣・篠原長房の補佐を受けていました。足利義昭を奉戴する織田信長の上洛によって劣勢となった三好氏は、三好三人衆が「本圀寺の変」を起こしましたが戦果を挙げられず、次第に畿内から追われて阿波に撤退しました。1570年、四国に退いた三好三人衆と篠原長房は反攻を画策しました。摂津では、管領・細川氏の嫡流の細川昭元を大将に担ぎ、三好義継を除いた三好一門の大半を結集して織田信長との戦い「野田城・福島城の戦い」に挑みました。劣勢に追い込まれましたが、石山本願寺の加勢や朝倉氏、浅井氏の決起などがあって織田信長軍を退かせました。そして、摂津、河内、和泉の3国を三好家の勢力下に取り戻しましたが、その後に和睦して本国の阿波に撤退しました。1572年、不仲となった重臣・篠原長房を異父兄で阿波守護・細川真之と協力して、「上桜城の戦い」で攻め滅ぼしました。強権を振りかざす治政に対して讃岐の香川之景や香西佳清らは、連名で三好長治の弟・十河存保に離反を警告する書状を送りました。これを憂えた十河存保は、三好長治の暴政について諫言をしました。しかし、これを疎んじた三好長治は十河存保を無視して、3000人の兵で香川之景と香西佳清を攻め、両氏の三好氏からの離反を決定的としました。三好氏が、半世紀以上も畿内・和泉での根拠地としていた顕本寺は法華宗でした。三好義賢も、法華宗に深く帰依して堺に妙国寺を建立するなどしました。三好長治も阿波全土の国人や領民に対して、法華宗を強要しました。このため、国人や領民の支持を失った上に他宗からの反感を招きました。このような国内の混乱が、土佐の長宗我部元親による「阿波侵攻」を誘発し、海部城や大西城などが落とされました。1576年には、阿波守護・細川真之とも対立しました。これに、細川真之を支持する長宗我部元親や福良氏なども協力したため、三好長治は圧倒的に不利となりました。1577年4月16日、三好長治は細川真之を討つため荒田野に出陣しました。しかし、老臣・井沢頼俊や一宮城主・小笠原成助らが長宗我部元親に通じて裏切り、細川真之に加勢して三好勢を挟撃しました。このため、敗れた三好長治は別宮浦まで追い詰められて自刃しました。辞世の句は「三好野の梢の雪と散る花を 長き春(長治)とやは人のいふらむ」、享年25でした。この後、三好長治の弟・十河存保が勝瑞城に入り、実質的な当主となります。

その次の次に、クラーク博士が帰国です。札幌農学校(北海道大学の前身)教頭のウィリアム・スミス・クラーク(クラーク博士)が、「Boys, be ambitious(少年よ、大志を抱け)」の言葉を残して帰国の途に着きました。クラーク博士は、「南北戦争」に北軍少佐として従軍し、マサチューセッツ農科大学の学長に就任しました。後に同志社大学を創設する新島襄が、最初の日本人学生でした。この新島襄の紹介で日本政府からの要請を受け、札幌農学校の教頭に就任しました。マサチューセッツ農科大学の1年間の休暇を利用して訪日し、教頭のクラークが校内の全てを取り仕切りました。そして、8ヵ月後に札幌農学校1期生との別れの際に発した、あの言葉は名言として日本に永遠に残りました。「北海道大学」や「さっぽろ羊ヶ丘展望台」にはクラーク博士の銅像が建てられました。そして、この日は「ボーイズビーアンビシャスデー」となりました。

そのまた次に、四・一六事件です。「三・一五事件」以後、日本共産党は未検挙の党員が党の再建を目指し、国外に党員を派遣しました。また、国内でも活動を再開しました。しかし、3月28日に党組織部員が検挙、その党員が党員名簿を持っていた事から、4月16日に共産党員の全国的な検挙が行われました。この大弾圧で計4942人が「治安維持法」で逮捕され、日本共産党が事実上壊滅しました。

そのまた次の次に、ベルリンの戦い開始です。ソビエト赤軍によって開始された「バグラチオン作戦」の結果、ドイツ軍はソ連領からほぼ駆逐されました。ソビエト赤軍は東プロイセンに侵入し、ドイツ領内へ進撃しました。しかし、ヒトラーは「春の目覚め作戦」を発動し、ドイツ軍はハンガリーで壊滅してしまいました。4月16日、ソビエト赤軍はベルリン占領を目的とする「ベルリン作戦」を発動しました。こうして「ヒトラー最期の12日間」と言われる、ソ連軍による「ベルリン総攻撃」が始まりました。

最後に、川端康成がガス自殺です。日本人初となるノーベル文学賞を受賞した川端康成が、逗子でガス自殺しました。川端康成が実体験を元にして書いた「伊豆の踊子」や「雪国」は、日本を代表する文学作品となりました。その他にも「舞姫」、「千羽鶴」、「山の音」、「古都」、「たまゆら」などを残しました。1968年10月に、日本人の心情の本質を描いた、非常に繊細な表現による彼の叙述の卓越さに対して「ノーベル文学賞」の受賞が決定しました。12月のストックホルムでの授賞式には、燕尾服ではなく「文化勲章」を掛け、紋付羽織袴で臨みました。記念講演「美しい日本の私 その序説」を行いました。「ノーベル賞」を受賞後に発表した作品は、短編が数作品あるだけでした。これは、「ノーベル賞」授与が重圧になったと言われています。そして、1972年4月16日に神奈川県逗子市のマンション「逗子マリーナ」の自室・仕事部屋で死亡しているのが発見されました。長さ1.5メートルのガス管を咥えており、自殺と報じられました。享年72でした。翌1973年に「財団法人・川端康成記念会」によって、「川端康成文学賞」が設けられ、現在まで続いています。1985年には、「茨木市立川端康成文学館」が開館しました。

今日の誕生日:毛利元就、ウィルバー・ライト(ライト兄弟の兄)、チャールズ・チャップリン、団鬼六、坂上二郎(コント55号)、水谷八重子(2代目)、伊奈かっぺい、なぎら健壱、永井良和、池野恋、ピエール・リトバルスキー、BONNIE PINK、徳井義実(チュートリアル)、福岡晃子(元チャットモンチー)、岡崎慎司、秋山翔吾、宇垣美里、笹崎里菜、長洲未来、池田エライザ、小芝風花、スターロツチ、コーネルランサー、タカラスチール、ミホシンザン、イクノディクタス、ナイスネイチャ、スエヒロジョウオー、シーキングザパール、ポムポムプリン、ケンケン

今日の記念日:チャップリンデー 、ボーイズビーアンビシャスデー

今日の「今日訓」:本日は、喜劇俳優であるチャールズ・チャップリンの誕生日で「チャップリンデー」、1877年、札幌農学校教頭のクラーク博士が、「Boys, be ambitious(少年よ、大志を抱け!)」の言葉を残して北海道を去った事で「ボーイズビーアンビシャスデー」となりました。
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