mixiユーザー(id:48382454)

2024年04月17日00:06

4 view

04月17日の日記

今日の出来事:667年−天智天皇が近江宮に遷都、1594−豊臣秀吉が吉野の花見を開催、1868年−戊辰戦争:結城騒動、1877年−西南戦争:八代の戦い、1941年−第二次世界大戦:ユーゴスラビア侵攻(ユーゴスラビアがナチス・ドイツに降伏)、2007−長崎市長射殺事件

今日は、天智天皇が近江宮に遷都です。「近江宮」は、7世紀後半に天智天皇が営んだ宮です。「近江大津宮」、「大津宮」とも呼称されています。滋賀県大津市錦織の遺跡が「近江宮」の跡とされています。中兄大皇子は、「大化の改新」の中心人物ですが、自分は即位せずに皇子として政権を握りました。百済が新羅と唐によって滅亡すると、百済を救援するために朝鮮半島へ出兵しました。しかし、「白村江の戦い」で敗北しました。このような時に大津への遷都を行いました。大津は琵琶湖に面しており、陸上・湖上に東山道や北陸道の諸国へ向かう交通路が通じており、西方へも交通の便が良い場所でした。翌年、斉明天皇が崩御すると、ついに即位して天智天皇となりました。天智天皇は大友皇子を第一皇子に、弟の大海人皇子を太政大臣にしました。これが天智天皇崩御後に、日本古代史最大の内乱と言われる「壬申の乱」を引き起こす元になるのです。

次に、豊臣秀吉が吉野の花見を開催です。豊臣秀吉による朝鮮出兵「文禄の役」が行われている中、嫡男・拾丸(後の秀頼)が誕生しました。秀吉は徳川家康、前田利家、宇喜多秀家、伊達政宗ら武将をはじめ、茶人や連歌師たちを伴い、5000人を率いて吉野山を訪れました。しかし、この年の吉野は長雨に祟られ、秀吉が吉野山に入ってから3日間も雨が降り続きました。苛立った秀吉は、同行していた聖護院の僧・道澄に「雨が止まなければ吉野山に火をかけて即刻下山する」と伝えました。道澄はあわてて、吉野全山の僧たちに晴天祈願を命じました。その甲斐があり、翌日には前日までの雨が嘘のように晴れ上がり、盛大に豪華絢爛な花見が催されました。さすがの秀吉も、吉野山の神仏の効験に感じ入ったと言います。この吉野山は、1924年12月に国の名勝・史跡に指定され、1936年2月には「吉野熊野国立公園」に指定されました。1990年には「日本さくら名所100選」に選定されました。そして、2004年7月には吉野山・高野山から熊野にかけての霊場と参詣道が「紀伊山地の霊場と参詣道」としてユネスコの「世界遺産」に登録されました。

その次に、戊辰戦争:結城騒動です。結城藩主・水野勝知と家老・水野甚四郎は佐幕派でした。国許の家老・小場兵馬は、前藩主・水野勝進の晩年の子、勝寛を立てて新政府に恭順の姿勢を取りました。この動きを察知した江戸に居た藩主・水野勝知は激怒し、彰義隊士ら旧幕兵を率いて直ちに小山に着陣しました。小場兵馬は小山の水野勝知のもとへ赴いて陳謝しましたが、聞き入れられませんでした。その報を古河で耳にした会津藩の田中左内、井深恒五郎、宮原尚記が、小山で「彰義隊」と合流しました。1868年4月17日、藩主・水野勝知自らが彰義隊士らと結城城を砲撃し、城は灰塵に帰しました。水野勝知は、焼け残った藩士の屋敷に入って本陣としました。ここを維持するために、宮原尚記らを真岡の陣屋へ走らせて、旧幕府代官・山内源七郎と交渉してミニエー銃、ゲベール銃300挺を借り受けさせる事に成功しました。後日、山内源七郎が新政府軍に処刑された原因になりました。しかし、4月26日に「彰義隊」が城を出て江戸へ戻ってしまいました。結城城は4月27日に新政府軍の参謀・祖式金八郎と香川敬三により奪回されました。水野勝知は、領内の成東から上野山内へ逃亡しました。藩の存続のために結城藩の二家老が切腹する事になりました。水野甚四郎が光福寺で、5月6日に小場兵馬が孝顕寺で、それぞれ従容と死に就きました。その後、水野勝知は7月4日の「上野戦争」前夜に、結城藩佐幕派が結成した「水心隊」を置き捨てて脱走し、生家である二本松城に落ち延びました。二本松藩降伏と同時に政府軍に捕えられ、隠居謹慎の処分を受けました。結城藩は嗣子・勝寛へ相続が許されました。

その次の次に、西南戦争:八代の戦いです。熊本鎮台司令長官・谷干城が立て籠もる熊本城は、薩摩軍が攻囲していました。4月13日、別働第2旅団の山川浩中佐は緑川の中洲にいましたが、友軍の川尻突入を見て、機を逸すべからずと考えて兵を分けて、自ら撰抜隊を率いて熊本城目指して突入し、遂に城下に達しました。熊本城への入城に成功し、救援部隊第一号となりました。しかし、山川浩はこの際の怪我が元で、左手の自由を失いました。「西南戦争」を「会津藩名誉回復の戦争」と捉えた山川浩は、「薩摩人 みよや東の丈夫(ますらお)が 提げ佩く太刀の 利(と)きか鈍きか」という歌を詠みました。この頃、薩摩軍は田原方面での戦闘の激化で兵力が不足してきたため、桐野利秋の命で淵辺群平、別府晋介、辺見十郎太らが鹿児島に戻って新たな兵力の徴集にあたっていました。3月25日、26日の両日で1500名ほどを徴兵しましたが、政府軍が八代に上陸し、宇土から川尻へと迫っていたため、熊本にいる薩摩軍と合流できませんでした。このため、この部隊は人吉から下って、八代から熊本へ進軍中の政府軍を背後から攻撃し、退路を断って孤立させるという作戦で行動する事になりました。4月4日、人吉から球磨川に沿い、舟で下って八代南郊に出た薩摩軍は、まず坂本村の政府軍を攻撃して敗走させました。その後、八代に迫りましたが、政府軍の反撃によって八代に至る事ができず、再び坂本付近まで押し戻されました。4月11日、再び薩摩軍は八代を攻撃しました。疲労もあって政府軍が一時敗退しましたが、13日に政府軍に援軍が投入されると、薩摩軍・政府軍ともに引かずに4月17日までこの状態が続きました。17日、1個大隊に薩摩軍の右翼をつかせる作戦が成功すると政府軍が有利となり、薩摩軍は敗走しました。この間の「萩原堤の戦い」で党薩諸隊の一つ「協同隊」の宮崎八郎が戦死し、別府晋介が足に重傷を負いました。

最後に、第二次世界大戦:ユーゴスラビア侵攻(ユーゴスラビアがナチス・ドイツに降伏)です。ユーゴスラビア侵攻は、1941年4月6日〜4月17日に、ドイツ、イタリア を中心とする「枢軸国軍」とユーゴスラビアとの間で行われた戦いです。ドイツ軍は「ポーランド侵攻」、「フランス侵攻」に次いで電撃戦を成功させ、僅か12日でユーゴスラビア全土を制圧しました。1940年10月、ベニート・ムッソリーニが率いるイタリアは中立国であったギリシャに侵攻しましたが、激しい抵抗に遭ってアルバニアまで押し戻されました。アドルフ・ヒトラーは枢軸国の威信を回復させるためと、ドイツが石油消費の大部分を依存するルーマニアの油田地帯へのイギリス軍の戦略爆撃が可能となるのを防ぐため、同盟国であるイタリアへ援軍を送る事の必要性に気付きました。ヒトラーは、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリアに次いでユーゴスラビアに対し、「日独伊三国軍事同盟」へ参加するよう圧力を掛けました。ユーゴスラビアの摂政パヴレ・カラジョルジェヴィチは、1941年3月25日に、この圧力に屈しました。しかし、この事は反枢軸であるセルビアの民衆と軍部の間に強い不満を抱かせました。3月27日、反枢軸のセルビア人の陸軍士官達によってクーデターが引き起こされ、摂政パヴレは失脚し、国王ペータル2世による親政となりました。この出来事はヒトラーを激怒させ、ユーゴスラビアを罰する事を決意しました。4月6日、枢軸軍はあらゆる方面から侵攻を開始し、ドイツ空軍はベオグラードへの爆撃を行いました。ベオグラードは陥落し、わずか12日でユーゴスラビアはドイツに降伏しました。ドイツ軍が「ユーゴスラビア侵攻」によって受けた被害は、戦死151人、戦傷392人、行方不明15人という軽い物でした。ユーゴスラビア軍の死者は数千人を数え、ドイツ軍は254000人〜345000人ものユーゴスラビア人捕虜を得ました。イタリア軍は30000人の捕虜を得ました。ユーゴスラビアはドイツ、ハンガリー、イタリア、ブルガリアによって分割され、セルビアの大部分はドイツによって占領されました。ムッソリーニはクロアチアのファシスト組織「ウスタシャ」の指導者アンテ・パヴェリッチを支持し、クロアチア独立国の成立が宣言されました。一方、国王をはじめとするユーゴスラビア王国政府は国外に逃亡して「ユーゴスラビア王国亡命政府」を組織し、「チェトニック」に指令を出すなどして王国回復のための戦いを続けます。また、占領に抵抗する「パルチザン」が全土で蜂起し、占領軍に対して攻撃を加えました。1943年には「パルチザン」の主導による「ユーゴスラビア民主連邦」が成立し、1945年の枢軸国敗北の後には正式な「ユーゴスラビア国家」となります。 この後ヒトラーは、ギリシャに苦戦するイタリアのムッソリーニを支援するため、ギリシャへ侵攻する事になります。

今日の誕生日:三田村鳶魚、滝口順平、畑正憲(ムツゴロウ)、市川森一、大泉逸郎、若松勉、福井ミカ(元サディスティック・ミカ・バンド)、高見沢俊彦(THE ALFEE)、武内陶子、黒田慶樹、立川俊之(大事MANブラザーズバンド)、ゴルゴ松本(TIM)、ヴィクトリア・ベッカム(元スパイス・ガールズ)、玉城千春(Kiroro)、森内貴寛(ONE OK ROCK、元NEWS)、イシノアラシ、ロンググレイス、ハクタイセイ、フジヤマケンザン、メルシーステージ

今日の記念日:世界血友病の日、ハローワークの日(職安記念日)、なすび記念日、飯田・下伊那の日(五平もち記念日)、少年保護デー、恐竜の日、クイーンの日(QUEENの日)

今日の「今日訓」:本日は、「世界血友病連盟」を設立したフランク・シュネーベルの誕生日で、血友病およびその他の血液の病気についての啓発デー「世界血友病の日」、1947年、それまでの職業紹介所が「公共職業安定所」に改称した事で「職安記念日」、現在は「ハローワーク」という愛称で呼ばれているため「ハローワークの日」、「ヨ(4)イ(1)ナ(7)ス」の語呂合わせで「なすび記念日」、「し(4)もい(1)な(7)」の語呂合わせで「飯田・下伊那の日」、長野県飯田・下伊那地方の特産が「五平もち」である事から「五平もち記念日」、1923年、恐竜の卵の化石を世界で初めて発見したアメリカの動物学者、ロイ・チャップマン・アンドリュースがゴビ砂漠へ向けて北京を出発した日で「恐竜の日」、イギリスのロックバンド「クイーン」が初来日で羽田空港に到着した1975年4月17日から「クイーンの日(QUEENの日)」となりました。
0 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する