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2024年04月13日00:24

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04月13日の日記

今日の出来事:710年−藤原京から平城京に遷都、744年−恭仁京から難波京に遷都、翌年再び平城京に遷都、1336年−南北朝動乱:多々良浜の戦い、1352年−南北朝動乱:武蔵野合戦、1468年−応仁の乱:稲荷山の戦い、1668年−宇都宮興禅寺刃傷事件、1861年−井口村刃傷事件、1874年−佐賀の乱:江藤新平処刑、1904年−日露戦争:第七次旅順口攻撃、1945年−第二次世界大戦:城北大空襲

今日は、遷都が2回行われました。藤原京から平城京に遷都:710年に、元明天皇により、「藤原京(奈良県橿原市)」から「平城京(奈良県奈良市)」へと遷都が行われました。左大臣・石上麻呂を「藤原京」の管理者として残したため、右大臣・藤原不比等が事実上の最高権力者になりました。恭仁京から難波京に遷都:740年、「藤原広嗣の乱」の後に、聖武天皇が「平城京」から「恭仁京(京都府木津川市)」に遷都しました。聖武天皇は遷都が好きで、742年には「紫香楽宮(滋賀県甲賀市信楽町)」へ、744年に「難波京(大阪市)」に遷都しました。しかし、745年に再び「平城京」に戻しました。

次に、南北朝動乱:多々良浜の戦いです。後醍醐天皇の「建武の新政」に謀叛した足利尊氏は、新田義貞を「箱根・竹ノ下の戦い」で破りましたが、「豊島河原の戦い」で楠木正成や北畠顕家に敗れました。その後、赤松円心に助けられ、九州へと落ち延びました。足利尊氏は筑前・筑後・豊前の守護である少弍貞経に迎えられました。少弍貞経は、息子・頼尚に援軍を率いさせて足利尊氏に派遣しました。しかし、肥後の菊池武敏や阿蘇惟直がこの隙を付き、大宰府を襲撃しました。少弍貞経は自害して果てました。足利尊氏は少弍頼尚と共に、たった2千騎で菊池武敏や阿蘇惟直に戦いを挑みました。宗像大社で戦勝祈願した後、多々良浜で決戦となりました。しかし、菊池軍に裏切り者が出て、菊池武敏は敗走し、阿蘇惟直は自害しました。こうして足利尊氏は九州の勢力を味方に着け、全域を支配下に治めてしまいました。そして、足利尊氏は少弍頼尚と再び東上し、南朝軍を率いる新田義貞・楠木正成との決戦「湊川の戦い」が行われる事になります。

その次に、南北朝動乱:武蔵野合戦です。武蔵野合戦は、南北朝時代の「観応の擾乱」での合戦です。1351年、「観応の擾乱」により、北朝は足利尊氏派と足利直義派に分裂し、激しい戦いを繰り返しました。足利尊氏は南朝と和睦し、鎌倉の足利直義を攻撃しました。駿河で行われた両軍による「薩埵峠の戦い」に勝利した足利尊氏は、翌1352年に足利直義を降伏させ、鎌倉に入りました。その後、足利直義は急死しましたが、足利尊氏による毒殺説があります。一方、南朝方の北畠親房は北朝方の不和をつき、東西で呼応して京都と鎌倉の同時奪還を企てました。3月31日、新田義貞の遺児である新田義興・義宗は、鎌倉奪還を目指して従兄弟の脇屋義治や南朝に降伏していた北条時行らとともに、上野国で挙兵しました。また、同時に征夷大将軍に任じられた宗良親王も信濃国で挙兵しました。新田義興ら南朝勢は、鎌倉街道を南下しました。南朝勢には、足利尊氏に反発する直義派の武将も多く参加しました。足利尊氏は、鎌倉を出て武蔵国狩野川に布陣し、南朝勢を迎え撃とうとしました。南朝勢は4月3日に一旦鎌倉を占領しましたが、4月5日に金井原(東京都小金井市)と人見原(東京都府中市)で足利勢と合戦を行いました。双方とも相当の損害を出しました。足利尊氏は、武蔵国石浜(東京都台東区)に撤退し、勢力の回復を図りました。新田義宗は笛吹峠(埼玉県鳩山町と嵐山町の境)に陣を敷き、宗良親王の信濃勢や直義派の上杉憲顕と合流しました。4月13日、足利勢と新田勢は高麗原(埼玉県日高市)、入間河原(埼玉県狭山市)、小手指原(埼玉県所沢市)で合戦となりましたが、足利勢が勝利しました。敗れた新田義宗は越後方面、宗良親王は信濃方面に落ち延びました。一方、金井原と人見原の戦いの後に南方に脱出していた新田義興、脇屋義治、北条時行は、三浦氏の支援を受けて鎌倉に入りました。しかし、新田義宗勢の敗北を知ると4月16日に鎌倉を脱出し、相模国河村城(神奈川県足柄上郡山北町)に立て籠もりました。4月26日に、足利尊氏は鎌倉を奪還しました。敗れた新田義興と脇屋義治は越後に逃亡しました。北条時行は、鎌倉付近で足利基氏の手の者に捕らえられ、龍ノ口で処刑されました。

その次の次に、応仁の乱:稲荷山の戦いです。骨皮道賢は、元は目付の頭目で侍所所司代・多賀高忠に仕えて盗賊の追捕を行っていました。1467年の「応仁の乱」で、細川勝元に金品によって勧誘されて足軽大将として東軍に属して戦いました。伏見の稲荷山(京都市伏見区)に拠点を置き、放火や後方攪乱を担当しました。しかし、翌1468年、山名宗全、斯波義廉、朝倉孝景、畠山義就、大内政弘らの大軍に、布陣していた稲荷社を包囲されました。骨皮道賢は女装して包囲網を脱出しようとしましたが、露顕して朝倉孝景に討ち取られました。

そのまた次に、宇都宮興禅寺刃傷事件です。宇都宮藩主・奥平忠昌が死去し、興禅寺で法要が営まれました。宇都宮藩奥平家には「長篠の戦い」で武勲を挙げ、将軍に対する永代御目見えという特権を得た「七族五老」と呼ばれる重臣12家がありました。奥平忠昌の法要で、そのうちの2家の当主であった奥平内蔵允(奥平家の譜代衆である五老の家柄、別名「黒屋家」)と奥平隼人(奥平家の傍流にあたる七族の家柄、別名「中金家」)の2人が些細な事から口論となり、憤慨する奥平内蔵允が奥平隼人に抜刀しました。奥平内蔵充の法要への遅刻を「腰抜け」となじった奥平隼人を、武士の一分を立てるためと斬りつけたのでした。ところが、返り討ちに遭って刀傷を被った奥平内蔵允は、満座の法要でいっそうの侮辱を受けました。その場に居合わせた大身衆の同輩、兵藤玄蕃などの仲裁により、双方はそれぞれの親戚宅へ預かりの身となりました。しかし、その夜に奥平内蔵允はこれを恥じて切腹しました。藩庁に対しては、興禅寺での刀傷から「破傷風で死去」と報告されました。藩の処分は、事件から半年後の10月7日に下されました。奥平隼人は改易、切腹した奥平内蔵允の嫡子で12歳の奥平源八と内蔵允の従弟・伝蔵正長は家禄没収の上、追放が申し渡されました。両者とも奥平家を追い出される形でありながら、大きな差がありました。奥平内蔵充の遺児たちは、両成敗ならば奥平隼人は切腹となるはずであると、藩の裁定を依怙贔屓と見ました。奥平源八たちに対しては即日退去を命じておきながら、奥平隼人とその父・半斎へは護衛を付けて送り出していたのでした。この処分には、喧嘩両成敗とせずに不公平であると追放された奥平源八とその一族に対して同情する者が続出しました。奥平家を見限って浪人の身となる者も現れました。こうして、奥平源八の与党は、軽輩はもとより重臣の子弟までもが含まれる一団となりました。源八一党は仇討を誓って宇都宮を退転し、3年余も雌伏しました。奥平半斎・隼人の父子らは、江戸の旗本・大久保助右衛門の屋敷に身を寄せました。奥平内蔵允の遺児・源八は4年後に、奥平隼人のいる江戸の屋敷に一党42人で討ち入ります。そして、浄瑠璃坂で源八を討ち取ります。これが、江戸三大仇討ちの一つ「浄瑠璃坂の仇討ち」です。後年、あの赤穂浪士も参考にしたと言う事件となります。

そのまた次の次に、井口村刃傷事件です。井口村刃傷事件は、幕末の土佐藩にて起こった刃傷事件です。事件後の処分を巡って、上士と郷士が対立しました。1861年4月13日の夜、小姓組の山田新六の長男・山田広衛と茶道方・益永繁斎が、節句祝いの宴会の帰りに永福寺という寺の門前で郷士・中平忠次郎と肩がぶつかりました。中平忠次郎は、非を認めて謝罪して立ち去ろうとしました。しかし、相手を郷士と見た山田広衛は、酒の勢いもあって中平忠次郎を罵倒しました。口論の末に逆上した山田広衛は抜刀、中平忠次郎もこれに応戦しましたが敵わずに殺害されました。中平忠次郎に同行していた宇賀喜久馬は、中平忠次郎の兄・池田寅之進にこの事態を知らせました。2人は急いで現場へ駆けつけましたが、時既に遅く、中平忠次郎は殺害された後でした。近くくの小川で刀を洗い、喉の渇きを潤している山田広衛を発見した池田寅之進は、背後から袈裟懸けに斬り掛かりました。山田広衛を殺害した池田寅之進は、近くから提灯を借用して現場に戻ってきた益永繁斎も殺害しました。池田寅之進は当初、弟の亡骸を運ぼうとしましたが、現場に駆け付けた上士・諏訪助左衛門と上士・長屋孫四郎の2人が「死体をみだりに移動させることは禁じられている」と彼の行動を咎めました。そのため、池田寅之進も一旦、弟の亡骸を寺の門前へと戻し、改めて上士達の亡骸は山田家に、中平忠次郎の遺体は池田家へと引き取られました。翌朝には事件は人々の知るところとなり、山田広衛の家には上士達が、池田寅之進の家には郷士達が集まりました。両者は互いに対決せんと息巻いており、一触即発の危機を迎えていました。この時、郷士側に当時25歳の坂本龍馬も参加しました。この事態は、池田寅之進と宇賀喜久馬の切腹をもって、その日の内に収拾が付けられました。宇賀喜久馬の切腹は、親族立会いの下で行われました。介錯をしたのが宇賀喜久馬の実兄・寺田知己之助(寺田寅彦の父)でした。事件後、藩は山田広衛の父・新八を謹慎処分としましたが、弟・次郎八には家督の相続を許しました。一方、事件に巻き込まれた形の松井家と宇賀家は断絶処分、中平家と池田家は格禄没収の処分がなされました。この決定に郷士側の人々は憤り、この事件の半年後に結成される「土佐勤王党」の勢力拡大へと繋がりました。

さらに次に、佐賀の乱:江藤新平処刑です。「佐賀の乱」は、江藤新平・島義勇らをリーダーとして佐賀で起こった明治政府に対する士族反乱の一つです。不平士族による初の大規模反乱でしたが、電信の情報力と汽船の輸送力・速度を活用した政府の素早い対応もあり、激戦の末に鎮圧されました。江藤新平らは鹿児島に入りましたが、西郷隆盛に決起の意志がなかったため、土佐へ向かって片岡健吉と林有造に挙兵を訴えました。ところが、既に手配書が廻っており、高知県東洋町甲浦で捕縛されました。捕吏長・山本守時は江藤新平に脱走を勧めましたが、裁判で闘う決意を固めたため、これに応じませんでした。政府軍が佐賀城下に迫ると島義勇は佐賀で討ち死にするつもりでしたが、実弟・副島義高らが「境原で政府軍を防ぐので再起を期せ」と無理矢理脱出させました。島義勇は島津久光に決起を訴えるため、鹿児島へ向かいましたが捕縛されました。江藤新平は東京での裁判を望みましたが、大久保利通は急遽設置した臨時裁判所で権大判事・河野敏鎌に審議を行わせました。河野敏鎌は、明治政府の司法制度を打ち立てた江藤新平の昔の部下でした。わずか2日間の審議で、4月13日の判決当日に江藤新平と島義勇は梟首、11名が斬首となりました。江藤新平らの裁判は当初から刑が決まった暗黒裁判で、答弁や上訴の機会も与えられませんでした。その後も、佐賀では士族らを中心に不穏な動きが続き、1877年の「西南戦争」などに合流する士族もいました。以下が「佐賀の乱」で処刑された者です。
「征韓党」梟首:江藤新平、斬首:山中一郎、中島鼎蔵、朝倉尚武、西義質、香月経五朗、山田平蔵
「憂国党」梟首:島義勇、斬首:副島義高、村山長栄、福地常彰、重松基吉、中川義純
その他、石井貞興は佐賀城陥落の直前に脱出して鹿児島県に逃れ、旧知の桐野利秋のもとで匿われました。「西南戦争」では薩摩藩軍に身を投じて活躍しましたが、敗戦後に逮捕されました。そして、長崎に移送され、斬首の刑に処せられました。

さらに次の次に、日露戦争:第七次旅順口攻撃です。4月7日に、日本の連合艦隊司令部は「第七次旅順口攻撃」を発令しました。その作戦案は、第四・五駆逐隊と第十四艇隊および「蛟龍丸」から成る部隊が第二駆逐隊の護衛の下で旅順港口付近へ機雷を隠密敷設するとともに、第三戦隊(装甲巡洋艦2隻で増強)がロシア艦隊主力の誘致を図り、第一戦隊が誘い出されたロシア艦隊を攻撃するという内容でした。悪天候のため作戦は順延され、4月12日午後5時40分に機雷敷設部隊は旅順港口へ向けて出撃しました。同日午後11時から13日0時30分まで、敷設部隊は各艦船や駆逐艦「村雨」に曳航された団平船に積まれた機雷計44個を港口外へ敷設しました。この間、雨による視界不良によりロシア側から発見される事はありませんでした。13日の早朝、敷設援護任務の第二駆逐隊と哨戒中のロシア駆逐艦「ストラーシヌイ」が交戦したのをきっかけに、ロシア巡洋艦「バヤーン」が救援のため湾外へ出撃し、日本の第三戦隊と旅順の湾口で砲戦となりました。日本艦隊を追撃すべくロシア側はマカロフ中将指揮のもとに戦艦「ペトロパブロフスク」他、戦艦2隻、巡洋艦3隻、駆逐艦9隻の艦隊主力が出撃しました。退避する第三戦隊よりの電報を受けて日本の第一戦隊が救援に駆けつけましたが、ロシア艦隊はこれを見て反転し、陸上砲台の射程内に日本艦隊を誘う動きを見せました。この時、10時32分「ペトロパブロフスク」および続航する戦艦「ポベーダ」が共に触雷しました。ロシア側はこれを潜水艇の攻撃と誤認して海面を乱射しました。被害を受けた「ペトロパブロフスク」は砲弾と魚雷の誘爆に加えてボイラーが爆発した事により沈没し、座乗のマカロフ中将も戦死しました。4月14日、マカロフの後任指揮官として極東総督のエヴゲーニイ・アレクセーエフ大将が戦艦「セヴァストーポリ」に着任して直接指揮を執りました。以後、日本艦隊の攻撃があっても積極的な反撃を行わなくなりました。更に日本陸軍が塩奥襟襖付近に上陸した事を5月4日に知ったアレクセーエフは、連絡を絶たれる事を恐れて奉天へ脱出し、艦隊の指揮をウィットゲフト少将に任せました。

最後に、第二次世界大戦:城北大空襲です。1945年4月13日の深夜に「B−29」爆撃機330機により、東京の西北部が空襲されました。主として豊島・渋谷・向島・深川方面が被害を受けました。死者2459名、焼失20万戸の被害を出しました。豊島区では、死者778人、負傷者2523人、焼失家屋34000戸の被害で罹災者の数は161661人と、実に当時の人口の約7割に及びました。この空襲によって命を失った数多くの犠牲者が、当時「根津山」と呼ばれた「南池袋公園」の一角に埋葬されました。

今日の誕生日:松平信康、トーマス・ジェファーソン(第3代アメリカ合衆国大統領)、大原幽学、後藤象二郎、浅野総一郎、吉行淳之介、宮尾登美子、藤田まこと、上沼恵美子(元海原千里・万里)、西城秀樹、萬田久子、牛島和彦、ヒレル・スロヴァク(元レッドホットチリペッパーズ)、西崎幸広、名越美香(元おニャン子クラブ・元ニャンギラス)、つみきみほ、水嶋ヒロ、昴生(ミキ)、中元日芽香(元乃木坂46)、ホリスキー、オサイチジョージ、カリブソング、ツインターボ、ファビラスラフイン、アグネスタキオン、ひこにゃん、諸星あたる

今日の記念日:喫茶店の日、決闘の日、水産デー、新型インフルエンザ対策の日、浄水器の日、恵美子の日

今日の「今日訓」:本日は、1888年に東京・下谷上野西黒門町に日本初のコーヒー専門店「可否茶館」が開店した事で「喫茶店の日」、慶長17年4月13日、船島(巌流島)で宮本武蔵と佐々木小次郎の決闘が行われた事で「決闘の日」、1901年に「漁業法」が制定された事で「水産デー」、2009年4月13日にメキシコで最初の新型インフルエンザの患者が確認された事から「新型インフルエンザ対策の日」、「4(良)1(い)3(水)」の語呂合わせで「浄水器の日」、上沼恵美子の誕生日(1955年4月13日)にあやかり、日本全国の恵美子さんにエールを送る日「恵美子の日」となりました。
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