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2024年04月12日00:00

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04月12日の日記

今日の出来事:1204年−第4回十字軍によりコンスタンティノープルが陥落、1638年−島原の乱:原城が落城し、島原の乱が終結、1861年−南北戦争開戦:南軍が北軍のサムター要塞を攻撃(サムター要塞の戦い)、1877年−東京帝国大学(後の東京大学)が設立、1877年−西南戦争:御船の戦い、1945年−郡山空襲、1957年−第五北川丸沈没事故、1961年−ソ連が、人類初の有人宇宙船「ヴォストーク1号」を打ち上げ

今日は、第4回十字軍によりコンスタンティノープルが陥落です。第4回十字軍(1202年−1204年)は、インノケンティウス3世によって呼びかけられ、フランスの諸侯とヴェネツィアを中心に行われた十字軍です。キリスト教国の東ローマ帝国を攻略し、コンスタンティノープル(現・イスタンブール)を陥落させ、略奪・殺戮の限りを尽くしました。このため、最も悪名の高い十字軍と呼ばれています。東ローマ帝国を一旦滅亡させたため、十字軍の目的とは逆に、この地域のキリスト教国家の力を削ぎ、後のオスマン帝国による東ヨーロッパの大部分支配の伏線の一つとなりました。1203年6月にコンスタンティノープルに到着し、アレクシオスを帝位に就けるよう要求しましたが拒絶されたため、7月に攻撃を開始しました。コンスタンティノープルはそれまで数々の攻撃を防いできた難攻不落の城塞都市でしたが、十字軍はヴェネツィアの優勢な海軍力を生かして海側から攻撃を仕掛けると同時に、陸上からフランス騎士隊が攻撃をかけました。攻防の途中でアレクシオス3世は逃亡し、残された者はイサキオス2世を復位させて城門を開きました。しかし、父・イサキオス2世とともに共同皇帝として即位したアレクシオス4世は、十字軍との約束を果たせませんでした。東ローマ帝国の国庫にはそれだけの金がなく、東西教会の合同にも正教会側の激しい抵抗があったため、即位したばかりのアレクシオス4世には新税を課したり、強制したりする力がありませんでした。十字軍は約束を果たすよう要求し、東ローマ軍や市民との間にいざこざが起こり、次第に両者の仲は険悪になっていきました。1204年2月に先帝アレクシオス3世の婿・ムルヅフォロスが、イサキオス2世とアレクシオス4世を殺してアレクシオス5世を称した事により、両者は決裂しました。十字軍は再び、コンスタンティノープルを攻撃する事になりました。1204年4月に攻撃を開始しましたが、今度は東ローマ帝国側も慣れてきたため、十字軍の苦戦が続きました。しかし、コンスタンティノープル城内にはヴェネツィアの居留民が大勢住んでおり、彼らが東ローマ帝国への抵抗に回りました。12日に、十字軍側が城壁への侵入に成功しました。これを見たアレクシオス5世は夜更けに逃亡し、代わった「一夜皇帝・ラスカリス」も抵抗を断念して逃亡しました。東ローマ帝国側は抵抗をやめましたが、都市に侵入した十字軍はコンスタンティノープルで破壊と暴行の限りを尽くしました。アギア・ソフィア大聖堂に立て籠もった者も含めた聖職者、修道士、修道女、市民たちは暴行・殺戮を受け、一般市民・修道女の別を問わず女性達は強姦されました。総主教座には、娼婦が座り込んで卑猥な歌をわめきちらしました。市街のみならず聖堂や修道院でも略奪が行われ、貴重な品々は持ち去られるか、持ち帰れないものは破壊されました。この時、コンスタンティノープル競馬場などの歴史的建造物が略奪・破壊されました。新たに「ラテン帝国」が作られ、皇帝にはフランドル伯ボードゥアン9世が選ばれました。領土はヴェネツィアやモンフェラート侯(テッサロニキ王国)等の主要参加諸侯で分割されました。教皇は、コンスタンティノープル攻撃に怒りましたが、攻略成功後は東西教会の統合を祝福しました。その後、十字軍にエジプトへの出立を促しましたが、彼らは獲得した領土に居座って、再び出立する事はありませんでした。彼らの多くは、シリアやパレスチナより国土が豊かな東ローマの征服に満足し、それ以上に現地の反乱やニカイア帝国、ブルガリア帝国の侵攻への対処にで、外征どころではありませんでした。東ローマの皇族たちは帝国周辺の各地に亡命し、小アジア西部の「ニカイア帝国」、小アジア北東部の「トレビゾンド帝国」、バルカン半島南西部の「エピロス専制侯国」などを立てました。

次に、島原の乱:原城が落城し、島原の乱が終結です。「島原の乱」は日本の歴史上最も大規模な一揆で、幕末以前では最後の本格的な内戦でした。島原藩主・松倉勝家は、領民から年貢を過重に取り立て、厳しいキリシタン弾圧をしました。年貢を納められない農民や改宗を拒んだキリシタンに対し、残忍な拷問・処刑を行いました。天草でも唐津藩主・寺沢堅高により、島原同様の圧政とキリシタン弾圧が行われました。島原と天草の領民たちは談合を行い、キリシタンの間でカリスマ的な人気を得ていた当時16歳の少年・天草四郎(本名:益田四郎時貞)を一揆軍の総大将として決起する事を決めました。有馬村のキリシタンが中心となって代官所に強談に赴き、代官・林兵左衛門を殺害して「島原の乱」が勃発しました。島原藩は直ちに討伐軍を繰り出して一揆軍と戦いましたが、一揆軍の勢いが盛んなのを見て島原城に籠城して防備を固めました。これに呼応して、天草でも一揆が蜂起しました。天草四郎を戴いた一揆軍は本渡城などの天草支配の拠点を攻撃、「本渡の戦い」では富岡城代の三宅重利(明智秀満の子)を討ち取りました。さらに勢いを増した一揆軍は唐津藩兵が籠る富岡城を攻撃、北の丸を陥落させて落城寸前まで追い詰めましたが、本丸を落城させる事は出来ませんでした。九州諸藩の討伐軍が近づいている事を知った一揆軍は撤退し、有明海を渡って島原半島に移動すると原城に籠城しました。こうして島原と天草の一揆勢は合流し、37000の一揆軍が集結しました。乱の発生を知った幕府は、板倉重昌を派遣しました。板倉重昌に率いられた九州諸藩による討伐軍は原城を包囲して再三総攻撃を行いましたが敗走し、板倉重昌は討死してしまいました。幕府は、「知恵伊豆」と称された老中・松平信綱を派遣しました。新たに着陣した松平信綱が率いる討伐軍は、増援を得て12万以上の軍勢に膨れ上がり、陸と海から原城を包囲しました。側衆・中根正盛は、与力20余騎を諸方に派遣して一揆の動きを詳細に調べさせ、望月与右衛門ら甲賀忍者の一隊が原城内に潜入して兵糧が残り少ない事を確認しました。これを受けて松平信綱は、兵糧攻めに作戦を切り替えました。一揆軍は原城の断崖絶壁を海まで降りて、海藻を兵糧の足しにしていました。松平信綱は、城外に討って出た一揆軍の死体の胃を見分した結果、海藻しかないのを見て食料が尽きかけている事を知りました。松平信綱は4月12日に総攻撃を決定しました。しかし、佐賀藩の抜け駆けにより、予定の前日に総攻撃が開始されました。兵糧攻めの効果で城内の食料、弾薬は尽きかけており、討伐軍の数も圧倒的に多かったため、この総攻撃で原城は落城しました。天草四郎は討ち取られ、乱は鎮圧されました。幕府軍の攻撃とその後の処刑によって、最終的に籠城した老若男女37000人が死亡しました。これによって、島原半島南目と天草諸島のカトリック信徒は、乱への参加の強制を逃れて潜伏した者や僻地にいて反乱軍に取り込まれなかったため、生き残ったわずかな旧領民以外は根絶されました。わずかに残された信者たちは深く潜伏し、「隠れキリシタン」となりました。これ以降「一国一城令」によって各地で廃城となった城郭を反乱の拠点として使えないようにするため、城郭破壊が進められていく事になりました。島原藩主の松倉勝家は、一揆を招いた責任を問われて改易処分となり、斬首となりました。唐津藩主・寺沢堅高は天草領を没収され、後に自害しました。また、軍紀を破って抜け駆けをした佐賀藩主・鍋島勝茂も、半年にわたる閉門という処罰を受けました。この後、幕府は「禁教策」を強化し、ポルトガルと国交を断絶し、オランダとのみ貿易する「鎖国政策」を推し進めていく事になります。以下が乱の首謀者・指導者です。関ヶ原の戦いで処刑された小西行長、その後改易などにあった有馬晴信、加藤清正の家中の者が多く、中には家老職にあった者などが含まれています。生き残ったのは内通者であった山田右衛門作(南蛮絵師)1人でした。
総大将:天草四郎(益田四郎時貞)
副将・原城本丸番頭・本丸物頭:山田右衛門作(有馬氏の家臣・松倉氏御用達南蛮絵師)
評定衆:益田好次(天草四郎の父・小西氏祐筆)
原城本丸大将・原城三ノ丸出丸大将:有家監物入道休意(松島源之丞・有馬氏家老・松倉氏家臣)
評定衆・軍師:蘆塚忠右衛門(貞家・小西氏家老の子・有馬氏祐筆)
評定衆・槍奉行:渡辺伝兵衛(遥・大矢野氏家老の子・大矢野庄屋)
評定衆・軍師:赤星道重(加藤氏家臣の子)
評定衆:會津宗隠(有馬氏家中・医者)
評定衆・徒士大将・大頭:大江治兵衛(治意・天草大江村庄屋)
浪人衆・使武者:三宅次郎右衛門(重徳・小西氏家臣)
惣奉行・兵糧奉行:森宗意軒(小西氏家臣)
侍大将・武者奉行:池田清左衛門(光時・赤里氏家中)
武者奉行:松島半之丞(時光・有家監物の子・松倉氏家臣)
武者奉行・徒士大将:布津村代右衛門(有馬氏家臣・布津城主)
武者奉行・徒士大将:蘆塚忠太夫(蘆塚忠右衛門弟・小西氏家人)
武者奉行・原城二ノ丸北丸番頭:會津玄察(松倉氏家臣・医者)
鉄砲奉行:鹿子木右馬助(駒木根友房一族)
鉄砲奉行:時枝隼人(浪人)
使武者:千々石作左衛門(正時・有馬氏家中)
使武者:會津定重(刑部・有馬氏家中)
夜廻奉行:志岐義安(丹波・中村氏家中)
夜廻奉行・徒士大将:栖本左京進(之時・天草五人衆家中)
浮武者頭・徒士大将:大矢野作左衛門(本多忠朝剣術指南)
浮武者頭:山善左衛門(小西氏家臣)
本丸鉄砲頭・本丸分頭:上津浦大蔵(忠次・島原在住)
本丸物頭:坂部源八(有馬氏家中)
本丸・徒士大将:蘆塚左内(蘆塚忠右衛門嫡子)
本丸・天草四郎近習:三宅左平治(三宅次郎右衛門子)
大江丸大将:大矢野三左衛門(近守・天草五人衆家中)
大江丸・軍師:千々石五郎左衛門(惟時・加藤氏家臣の子)
二ノ丸大将:有馬掃部(重正・有馬氏家中)
二ノ丸番頭・徒士大将:千束善右衛門(小西氏家臣)
二ノ丸・徒士大将:駒木根友房(三会村金作・小西氏家臣)
二ノ丸:軒山善右衛門(小早川氏家臣)
二ノ丸:加津佐村寿庵、二ノ丸・百姓:南有馬村伊之助
二ノ丸出丸大将:田崎重吉(刑部・森宗意軒弟子)
三ノ丸大将・槍奉行:堂崎次家(対馬・有馬氏家中)
三ノ丸番頭:大江源右衛門(実光・小西氏家臣)
三ノ丸・百姓:北有馬村雅樂助
三ノ丸鉄砲頭・日野江口百姓頭:布津村恭右衛門(吉重・有馬氏家中・庄屋)
三ノ丸出丸鉄砲頭:佐志木佐治右衛門(龍造寺氏家中子孫)
天草丸大将:本戸安正(但馬・天草五人衆家中)
天草丸鉄砲頭:上津浦三郎兵衛(種清・天草五人衆家中)
天草丸:渡辺左太郎(渡辺伝兵衛二男・浪人)

その次に、南北戦争開戦:サムター要塞の戦いです。サムター要塞はサウスカロライナ州の港で、チャールストンを守っていた要塞の一つで、港への水路の真正面にありました。アメリカ南部の州は、ほとんどが「アメリカ連合国」に加盟し、それに伴い各要塞も南軍の支配下に置かれました。しかし、サムター要塞の司令官ロバート・アンダーソン少佐らは「アメリカ合衆国」に忠誠を誓う事を決定しました。リンカーンが大統領に就任した翌日、サムター要塞の守備隊司令官アンダーソン少佐から手紙が届き、直ちに閣僚会議が開かれました。7人の長官のうち5人が反対しましたが、リンカーンは敵地にあって自身に忠誠を誓った部下のために支援を決定しました。南軍司令官のボーリガード、ピェール・ギュスターブ・トゥータン将軍は撤退を要求しましたが、北軍要塞司令官ロバート・アンダーソン少佐らは、高い士気と忠誠心からこれを拒否しました。1861年4月12日午前4時30分、北軍の救援船が要塞に近づくと、南軍の港口の北にあったムールトリー要塞から砲撃が行われました。この砲撃により食料船は要塞に近づく事ができずに補給は失敗し、船はニューヨークへ帰らざるおえませんでした。これにより「南北戦争」が始まりました。4月13日、要塞が南軍砲兵中隊による砲撃を受けましたが、北軍は効果的な反撃ができませんでした。4月14日午後2時30分、弾薬が底をついたため、アンダーソン少佐は要塞からの退避、事実上の放棄を決定しました。こうして両軍合わせてアメリカ史上最悪の62万人もの死者を出す、4年間にもおよぶ内戦「南北戦争」が開始されました。

その次の次に、西南戦争:御船の戦いです。政府軍の参軍・黒田清隆は衝背軍を部署し、次の方面への一斉進撃を企図しました。甲佐・御船・吉野:別働第3旅団、隈庄・鯰村・上島:別働第1旅団、上記旅団の予備隊:別働第1、第2旅団の一部、緑川下流・川尻:別働第2旅団、別働第4旅団。永山弥一郎は、有馬新七らに従って京都に上り、「寺田屋騒動」に関わりましたが、年少であるという理由で処罰を免れました。「戊辰戦争」では、城下四番小隊(隊長・川村純義)の監軍として「鳥羽・伏見の戦い」に参戦しました。その後、「白河攻防戦」を戦い、白河城陥落後は棚倉に転戦しました。会津に進撃する際は、川村純義指揮の下で「十六橋の戦い」を勇戦しました。西郷隆盛に従って上京し、陸軍少佐に任じられました。政府が「樺太・千島交換条約」を締結した事に憤激して、職を辞して鹿児島へ帰りました。4月12日、別働第3、第1旅団は一斉に攻撃を開始しました。別働第1旅団は宮地を発して緑川を渡り、薩摩軍を攻撃しました。薩摩軍は敗戦続きで気勢が揚がらず、民家に放火して退却しました。この時、負傷を推して二本木本営から人力車で駆けつけた、薩摩軍三番大隊大隊長・永山弥一郎は酒樽に腰掛け、敗走する薩摩軍兵士を叱咤激励していましたが、挽回不能と見て民家を買い取り、火を放つと従容として切腹しました。こうして御船は政府軍に占領されました。別働第2旅団は新川堤で薩摩軍の猛射に阻まれ、第4旅団も進撃を阻止されました。翌13日、別働第2旅団と別働第4旅団は連繋しながら川尻を目指して進撃しました。別働第4旅団の一部が学科新田を攻撃して薩摩軍を牽制している間に、主力が緑川を渡り、薩摩軍と激戦しながら川尻へと進みました。川尻に向かった別働第4旅団と第2旅団は両面から薩摩軍を攻撃して退け、遂に川尻を占領しました。

そのまた次に、郡山空襲です。1945年4月12日、福島県郡山市が空襲を受けました。軍需工場だった保土谷化学郡山工場、日東紡富久山工場などを中心に「B−29」の波状攻撃を受けました。隣接する国鉄・郡山駅、駅前商店街、周辺の民家も被害を受けました。この空襲により、死者460名を出しました。

そのまた次の次に、第五北川丸沈没事故です。第五北川丸沈没事故は、1957年に発生した海難事故です。舵を甲板員見習に任せたために操船を誤り、暗礁に座礁・転覆した事により発生した事故でした。定員の3倍を超える乗客を乗せた上、救命胴衣も定員の半分しか用意しておらず、死者・行方不明113名を出す大惨事となりました。1957年4月12日は穏やかな天気で、「西の日光」といわれる生口島(現在の広島県尾道市瀬戸田町)・耕三寺には大勢の団体参拝客や花見客が訪れていました。午後0時半に、瀬戸田港から尾道港への帰途についた芸備商船の定期客船であった「第5北川丸(旅客定員77名、船員7名、合計定員84名)」が出航しました。この客船は定員が84名でしたが、235名(うち子供12名)という旅客定員の3倍超の乗客と乗員4名を乗せていました。同船は建造から33年経過した老朽木造船で、乗員5名のうち一人を別の用事のために下船させたため、船長自らが切符整理を行い、舵を当時16歳の甲板員見習(事故により死亡)に任せていました。生口島瀬戸田港から尾道港に向け出航しておよそ10分後、佐木島西方にある寅丸礁(事故後、灯台が設置された)と呼ばれている暗礁に座礁・転覆し、あっという間に沈没してしまいました。付近を航行していた運搬船や漁船がすぐに救助に当たりましたが、船内に閉じ込められるなどして死者・行方不明113名、負傷者49名を出す大惨事になりました。海難審判では、操船を未熟かつ資格のない甲板員見習に任せた船長の職務上の過失に加え、老朽木造船に安全性を省みずに多くの乗客を乗せるなど運航会社の運航管理が不適当であったとして責任があるとされました。事故後、現場近くの地元住民らが中心となり、現場近くで毎年4月に慰霊祭を開催してきましたが、慰霊会を執り行っていた地元佐木島の住民及び遺族が高齢化してきたため、節目となる49周忌にあたる2006年の法要を最後に遺族に対して参列呼びかけをしなくなりました。しかし、地元住民により慰霊祭は毎年続けられており、事故から55年目を迎えた2012年4月12日の慰霊祭には約20人が集まりました。

最後に、ソ連が人類初の有人宇宙船「ヴォストーク1号」を打ち上げです。ユーリイ・ガガーリンは108分間の飛行の後、無傷で帰還しました。そして、あの有名な「地球は青かった」 と言う言葉が生まれました。この事から、今日は「世界宇宙飛行の日」となりました。

今日の誕生日:円融天皇(第64代天皇)、鍋島直茂、秋山真之、井上日召、園まり、中田ボタン(中田カウス・ボタン)、三雲孝江、田中康夫、高田延彦、森川由加里、広瀬香美、紺野まひる、藤原基央(BUMP OF CHICKEN)、岩隈久志、中川パラダイス(ウーマンラッシュアワー)、吉澤ひとみ(元モーニング娘。)、小原春香(元SDN48、元AKB48)、鈴木愛理(元℃-ute、Buono!)、藤浪晋太郎、川本璃(元E−girls、元Happiness)、上村ひなの(日向坂46)、(紀元前98036年)ルーク篁(聖飢魔II)、天野春子、ノースフライト

今日の記念日:世界宇宙飛行の日、パンの記念日、にんじんの日、子どもを紫外線から守る日

今日の「今日訓」:本日は、1961年にソ連が世界初の有人宇宙衛星船「ヴォストーク1号」の打ち上げに成功した事で「世界宇宙飛行の日」、天保13(1842)年4月12日、伊豆韮山代官の江川英龍が軍用携帯食糧として作った乾パンが、日本で初めて焼かれたパンという事で「パンの記念日」、「よ(4)い(1)にんじん(2)」の語呂合わせで「にんじんの日」、「良(4)い皮膚(12)」の語呂合わせで「子どもを紫外線から守る日」となりました。
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