宗教とは、本来、人から死の恐怖を取り除き、自分の存在を確認させることで生きる意欲をわかせ、集団で生きるために人の行動を律し、社会を平安に豊かにするためのものだと思います。
数多くある宗教のうち、キリスト教、イスラム教、この二大宗教が世界の主要な国々に広まっている宗教です。どちらも、その起源は、古代文明に発祥し、国、民族が興亡を繰り返してきたオリエントにあります。
イスラム教では、イエス・キリストさえも、イスラムの預言者の1人、とみなしています。両宗教とユダヤ教も、古代の預言者であるモーセの言葉に重きをおいていることも注目すべきです。
「あなたの父母を敬え。そうすればあなたは、あなたの神、主が与えられる土地に長く生きる。殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。隣人に関して偽証してはならない。隣人の家を欲してはならない。隣人の妻、男女の奴隷、牛、ろばなど、隣人のものを一切欲してはならない」
と宗教は、社会の平和を維持するためのもっとも基本的な数えから始まりました。さまざまな民族集団が接触しあう中で、和平を保つための人の生き方の手引きのようです。
しかし、その解釈の違いから宗派が生まれ、それがまたアイデンティティと結びついて他者を区別し、抗争のもととなってしまい、信者でありながら戦争の名のもとで正当化された殺人を行う、何とも愚かしい状態なのです。
それでも多民族社会において、宗教は有効に働いています。多国籍、多民族が集まっている米国にあっては、宗教がうまく間をとりもっています。そうした意味では、米国のような多民族社会は、一見、自由に見えながら、実は常に隣人との衝突を避ける為に責任ある行動をとり、思いやり、寛大でなければ暮らせない窮屈な世界といえるのかもしれません。
ところで、島国で、昔は多民族どころか他県の人とも接触する機会の少なかった日本では、大宗教は発達しなくとも、村、町、国の地域性がアイデンティティの源であり、行動を律する規範にもなっていました。いわば「武士道」を旨とする日本教のもとで社会が保たれてきたわけです。
しかし近年、表向きアメリカを真似、「自由」と「無宗教」をはき違え、常識という言葉を失って、日本中が自分の部屋であるかのごとく振る舞う人の存在が問題視されるようになってきました。日本的な社会への「甘え」が固執しているのです。平和を鋭く宗教が原因で紛争が起こることは、歴史的にも珍しいことではないのです。
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