名医下方卦庵(けあん)
今から四百年あまりも昔のことです。戦国時代も終わりに近い天正年間、白川郷保木脇(ほきわき)は、帰雲城(かえりくもじょう)の城下町として、それはそれはにぎわっていました。帰雲城の殿様は、内ヶ島氏理(うちがしま うじよし)と言いまして、飛騨の西部に勢いをふるい、南は郡上(ぐじょう)の白鳥、北は越中の砺波(となみ)まで領地を持っていました。
帰雲城の勢いのさかんなことは、空を流れる雲も、帰雲山(きうんざん)にさしかかると、その勢いにおそれて引き返すほどでした。そんなことから、この城が帰雲城と名がつけられたということです。
「保木脇の帰雲城下に下方卦庵(61才)というお医者さんが住んでいました。お城の典医でもあり、見立ての良い医者と評判で、毎日40〜50人の患者があり、忙しい日が続いていました。毎月の7日はお城へ務めることになっており、丁度秋も過ぎ、冬ちかくなった11月16日のことであります。
お城へ参上し、城主を診察して驚きました。身体にはなんの異常もないのに脈だけが変なのです。「これは大変だ」と、奥方から側女、近侍なども診察しましたが、みな同じ脈なのです。そこで城主をはじめ一同に、「早くどこかへ逃げて下さい」と申しましたが、誰も信じてくれません。
かえって下方医者は気が狂ったと、馬鹿にされてしまいました。城下へ帰り、道を歩いている人の脈をみても、死に脈です。自分の脈をみても死に脈、猫の脈はとみても死に脈、さてはと馬をみても死に脈。驚いて家に帰り、女房や子供の脈をみても死に脈であります。
早速、医者として必要なものだけを箱に入れ、女房と子供3人で逃げだしました。やっと荻町にきましたので、荻町の人はどうだろうかと、道ゆく人を呼びとめ脈をみると、普通なので安心しました。今度は鳩谷、飯島の人をみてまわりましたが、死に脈ではありません。
それから内ヶ戸、椿原と進み、丁度芦倉まできたとき、大音響とともに大地震が起こり、北も南も進めなくなりました。どうにか一軒の農家に泊めてもらいました。次の日になっても地震はやまず、そのうち病人がでましたのでみてやりますと、今まで一度も医者にかかったことのない人たちですから、すぐ癒り、たいへん評判になりました。
この地震で、帰雲城下の町は山崩れの下敷となり、人馬もろ共全滅してしまったのです。下方医者一家3人だけが生き残ったと伝えられています。さて、下方一家は、芦倉の人々のすすめでこの地に永住することになり、その後、3代まで医者が続いたといわれ、今日でも下方家は繁栄しております。また当時の書物(医学的なもの)が残され、保存されています」『白川郷の伝説と民話』10頁
https://www.vill.shirakawa.lg.jp/1292.htm
まあ、評判の名医が大災害が起きると触れ回っても、信じてもらえないというのは悲しいけど、その根拠が「脈がない」ってのは信じがたいね。
地震やら災害を「予言」する輩が多いけど、予言の多くは外れるもので、偶然に当たったやつだけがまとめサイトなどで紹介される。
人工地震や地震予知など出来るはずがなく、本当に予言が当たるというなら阪神淡路や311、関東大震災などを的中させた本物の預言者が出ているはずですね。
地震なんていつ起きるかわかりませんから、日ごろから非常用の食料や水・懐中電灯やら電池を常備したり家具が倒れないようにしておく方が大事だと思います。
少なくとも「原発即時廃炉ニダ」と大騒ぎする暇があったら、家具の転倒防止や非常食などの備蓄に心がけるべきです。
東南海地震や首都直下型大地震が起きれば被災者の数は311や能登地震の何十倍・何白倍になるでしょう。その時に以下に自衛隊や消防が万能だろうが、すべての人を助けられるわけないし、食料や水の配給だって、パイが大きければ一人当たりの受け取れる量も減るものです。
反原発とやらでデモだの裁判をする金があるなら、カップ麺だのミネラルウォーターでも家に備蓄する金に使えと言いたい。
■岐阜県で震度4の地震 津波の心配なし
(日本気象協会 - 03月23日 08:41)
https://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=174&from=diary&id=7797748
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