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2024年03月07日05:18

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朝倉義景の命取り

一乗谷五代目のあるじ朝倉義景は、その気になれば、充分、天下を狙える資格がありました。家は名門だったし、実力も備えていました。北には浅井氏の小谷山城という恰好の前進基地もあったわけです。足利義昭もそれだからこそ、義景をたよって訪ねてきたのです。

だが、肝心のところで義景は決断に欠けていました。ぬるま湯のような一乗谷の日々が、戦国武将にもっとも大切な闘争の意欲を、義景から吸い取ってしまったのかもしれません。性格の弱さも朝倉義景の命取りになったのだと思います。

義景は、二度好機を逸しています。最初は義昭がたよって来て上洛を奨めたときでした。このときは、何はともあれ上洛の構えを示して天下に呼びかけるべきだったのに、義景は義昭が愛想をつかすほどに煮えきらなかったのです。義昭は滞在十ヵ月ほどで、一乗谷に見切りをつけて美濃へ移ってしまい、上洛一番乗りは織田信長のものとなったのです。

二度目は、元亀三年(1572) 武田信玄の大軍が、京都を目指して進軍を開始したときです。当時、義昭が糸を引いて反信長連合の包囲網ができあがっていたし、信長の盟友だった家康は、三方ヶ原の一戦で信玄に完膚なきまでに叩きのめされてしまった。順調に主導権を握ってきた織田・徳川同盟は、たいへんなピンチにさらされていたのです。

義景は西方で信長を釘づけにしておくために、湖北へ兵を出していたのですが、信長が長島一揆の蜂起で岐阜へ兵を返すと、何を思ったのか、自分も越前へ引き揚げてしまったのです。 雪で補給路が塞がれることを心配したのかもしれないが、この報らせを受け取った信玄は天を仰いで、義景の腑甲斐なさを嘆いたといわれています。

この二度目の逸機が、結局は朝倉氏の命取りになったのです。信長に各個撃破を許してしまう結果を招いたのです。信長は全力をあげて一揆征伐に当たり、輪中の村々の一向宗徒をなで斬りにして、ついに鎮圧してしまったのです。

翌天正元年(1573)4月、三河路を西進していた甲州の大軍団は、不可解な撤退をはじめました。その旌旗に力のないところから、信玄の死が囁かれたが、それは事実だったのです。愁眉をひらいた信長は直ちに反対勢力の黒幕である義昭に迫って、これを河内へ追い払いました。こうして足利将軍家は、尊氏以来15代230余年にして滅亡したのです。

義昭は術策に溺れて破滅を招いたのです。彼は、空虚な将軍の権力を過信し、信長の実力について目算を誤ったのです。信長包囲陣は乱れはじめました。義景も、信長の鋭鋒が次に自分に向けられるであろうと悟っていたので、国境の城を厳重に固めさせていたが、士気の低下は恐るべきものがありました。

果たして信長は、義昭の処分をすませるやいなや、湖北に軍を進めました。小谷山城の長政からは、火のついたように救援の催促が来るのですが、一乗谷では、義景が命じても何かと口実を設けて先陣に立とうとする者がいないのです。

やむを得ず義景は、みずから軍を率いて敦賀まで出むいたのですが、前線は予想以上に混乱していました。いったん衰運の影が射しはじめると、 崩壊は早いものです。朝倉家に見切りをつけて信長に降る者が続出していて、うっかり前進もできないありさまなのです。せっかく出陣した義景は、持前の引っこみ思案を出して、 一乗谷へ引き揚げてしまったのです。

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