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2023年11月30日09:51

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『《復刻》 トーマス・ヒル・グリーン研究』 その58   第二部 第一章 T・H・グリーンの思想とその継承者  ー 主権理論を中心として 一

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ニ ラスキの多元的国家論 1

 周知の通りラスキ(Harold Joseph Laski)は多元的国家論者として出発し、次いでマルクス主義に接近しました。しかしそうした変遷にもかかわらず、常に彼の発想の核心になっていたのは、個人人格に最高の価値を認める、グリーン的な理想主義の立場でありました。ラスキの多元的国家論は、近代国家のもたらした危機に対して、理想主義的な立場から提起された救済策とみることができるのです。近代国家の内包する問題としてラスキ自身が掲げていることは、第一に「人間が行政の単なる従属者に過ぎなくなる傾向」が発生し、従って第二に近代国家の諸制度の下では、「多様で等しくないものに、統一的な方法を適用しようとする無駄な企て」が増大するということであります。そしてこうした状況の下では、人間は政治的に無気力、不活発にならざるを得ません。

 20世紀になって目立つようなーになった、こうしたいわば「管理国家」への反発は、全ての多元的国家論に共通に認められる要素なのです。この弊害を除去するためにまず必要なことは、多様な社会価値の独自性に着目して、それらが強制権力の下に従属させられないものであることを示すことなのです。これは既に述べたように、グリーンの基本姿勢でありましたし、ラスキの多元的国家論の採った道でもありました。ラスキは例えば、イギリスで議会主権ということが高唱され、議会が万能であるかのように考えられていることに対して、「議会の意見や議会の制定する法律は、諸力の巨大な複合の結果である」と述べて、議会のみの力は限られていることを指摘します。そしてさらに、「そうした諸力の形成に対しては、国家の内外の人や集団が、しばしば極めて貴重な貢献をしている」ことに注意を促します。ラスキはまた、そうした諸力のうちで、常に確実に人々の服従をかち得るものは存在しないことを強調し、「社会の真の支配者は発見できない」というグレイ(John Chipman Gray)の言葉を、国家主権にも適用しようとするのです。

 グリーンが、強制権力を社会関係の真の決定要素とみなさなかったのと同様に、ラスキは、国家が社会の真の支配者になることを認めません。そしてこう述べています。「主権の真の意味は、それが手段として所持する強制力にではなく、好意のからまり合いの中に見出されねばならない。そうした好意があるが故に、国家は存立しているのである」。こうして、人々の好意に支えられて存在する点で、国家は他の人間集団と、何ら異ならないものとさされ、国家の行為は、「他の結社の行為と道義的には対等の地位」に置かれることになるのです。

ニ ラスキの多元的国家論 2

 それでは、ラスキのいう「好意のからまり合い」とは何でしょうか。ラスキが、個人を物事の中心に置かなければならないことを強調し、国家は成員に対して何を為すかを示して、成員の服従への同意をかち得なければならない、と説いているところから明らかなように、この好意というのは。国家の在り方に対する個々人の同意のことなのてです。そして国家の在り方を審判して、同意するか否かを決する個人の側の基準は、結局個々人の良心に求められるのです。つまり主権そのものよりも、主権を支えている基盤を重視する点では、グリーンもラスキも同様なのですが、グリーンがその基盤を一般意志とか共同善という、いわば「社会の意志」に求めたのに対し、ラスキはそれを「個人の意思」に求めているのであります。

 このような見方は、いうまでもなく、国家と国家以外の団体とを同一視しようとするところから生じています。確かに国家以外の団体の場合、団体と個人相互間に大体選択の自由があり、相互間で取捨選択あるいは淘汰が為されるため、結局特定の団体の構成員は、その団体の行き方に大体良心的に同意している人達だけから成っているとみることができます。しかしこれと同じ考え方は、国家には適用できません。国家と個人との間には選択の自由がないため、国家が成員の服従への同意を得るために、いかに誠心誠意努力しようとも、国家の行き方に同意しない成員を皆無にすることはできません。もしもそういう同意しない成員に対しては、国家の権力が及ぼされないとすれば、国家は主権を行使する団体ではなくなりますし、法秩序を維持する団体でもなくなってしまいます。


ニ ラスキの多元的国家論 3

 このように考えてくると、ラスキの主権理論の無理な点が明らかになります。国家は、その他の団体のように、自らの行き方を受け入れてくれる者だけを相手にするするのではなく、自らの行き方を受け入れようとしない者をも強制的に従わせるのでなければ、その職務を全うし得ません。このことは、統治機構としての国家の直接の目的が、個々人ではなく、あるいは個々の社会でさえなく、国家社会全体であることを示すものであります。ラスキは、この国家社会全体との関連で主権を捉えようとしていないのであります。
 しかし同じことはグリーンに関してもいえるのです。グリーンが主権の基礎として重視した一般意志は、個々の社会集団の一般意志ではあっても、必ずしも国家社会全体の一般意志ではないことに注意しなければなりません。しかし例えば、個々の社会集団が、一般意志によっていかに高度な凝縮力を発揮しようとも、そのことが直ちに国家社会全体の凝縮力を強めることにはなりません。また社会集団が依拠する共同善が相互に食い違った場合、最終的には国家社会全体の共同善をふまえて調整を加える必要もあるでしょう。グリーンは、こうした国家社会全体の一般意志とか共同善の性格について、殆ど触れていないのです。

 結局グリーンもラスキも、統治機構としての国家の究極あるいは間接的な目的(すなわち社会及び個人)について力説高唱するばかりで、直接的な目的(すなわち国家社会全体)については、殆ど何も語らなかったといえます。ここに、両者に共通するもどかしさがあることは否めません。これは両者が「国家社会」を成立させる基盤を認識し得なかったことによるのです。しかしこの基盤は、後続の多元的国家論によってはっきりと自覚されるようになります。そしてその基盤には、community,nationあるいはcountry等の名前が与えられ、個人にも個々の社会集団にも還元し得ない独自の持味が認められました。こうして、グリーンの系統を引く理想主義的主権理論は、新たな展開を迎えることになります。

(2023年2月4日・7日・9日の投稿を統合・再構成)

 次回は「三 共同体の発見--ホブハウスとマキヴァー-」。
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