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2023年11月30日00:00

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11月30日に生まれた主な人々 上

1667年、イングランド系アイルランド人の諷刺作家、随筆家、政治パンフレット作者、詩人、および司祭のジョナサン・スウィフトが生まれました。著名な作品に『ガリヴァー旅行記』(『外科医にして諸船の船長レミュエル・ガリヴァーによる世界の諸僻地への四部から成る旅行記』)、『穏健なる提案』、『ステラへの消息』、『ドレイピア書簡』、『書物合戦』、『桶物語』などがあります。彼の眩暈の発作は今日ではメニエール病として知られているもので、スウィフトを終生絶えず悩まし続けるものでした。1731年、彼は『スウィフト博士の死を悼む詩』を書き、1739年には自ら自分の死亡記事を出しました。1732年、彼のよき友人にして協力者ジョン・ゲイが死去します。1735年、ロンドン時代からのもう1人の友人ジョン・アルバスノットが死去しました。1738年にはスウィフトに病気の徴候が顕れ、1742年に彼は病気の発作を患い、会話する能力を失うとともに精神障害になるという最大の恐怖が実現化しました。1744年、アレクサンダー・ポープが死去した。そしてスウィフトは77歳で死去しました。

1835年、アメリカの作家、マーク・トウェインが生まれました。本名サミュエル・ラングホーン・クレメンズ。『トム・ソーヤーの冒険』の著者として知られ、数多くの小説やエッセーを発表、世界中で講演活動を行うなど、当時最も人気のある著名人でした。アーネスト・ヘミングウェイは『アフリカの緑の丘』において、「あらゆる現代アメリカ文学は、マーク・トウェインの『ハックルベリー・フィン』と呼ばれる一冊に由来する」と述べました。1910年4月21日に74歳で死去。真の男なら、スーツを着て蒸気船で旅するトム・ソーヤーより、粗末な服で徒歩で冒険するハックルベリーに共感するだろうと私は思います。

1863年、フィリピンの独立運動家・革命家、アンドレス・ボニファシオが生まれました。スペインの植民地支配からの独立を目指すフィリピン独立革命のリーダーの一人。この革命はヨーロッパの植民地政府に反対するアジア最初の革命であり、ボニファシオは(悲劇的最期を遂げたこともあって)現在でも同時代の民族運動家・思想家のホセ・リサールと並び多くのフィリピン人から敬愛の対象となっています。革命運動はアギナルド派とボニファシオ派に分裂し、敗れたボニファシオはアギナルドらと袂を分かち、独自の独立革命を進めようとしましたが、彼の離反を恐れたアギナルドにより逮捕され、1897年5月10日に処刑されました。

1869年、スウェーデンのエンジニア、企業家、ニルス・グスタフ・ダレーンが生まれました。ダレーンがまず研究したのはアセチレン(IUPAC: エチン)で、非常に爆発しやすい炭化水素ガスです。ダレーンはガスを吸収し安全に貯蔵・輸送できるようにする多孔質の Agamassan (Aga) を発明しました。これを用いて、灯台の照明用燃料にアセチレンを使えるようにしました。アセチレンを燃焼させた火はそれまでのLPGに比べると発光が強く白色であり、多くの灯台で使われました。さらに暗くなったら自動的に点火し夜が明けたら自動的に消火する自動調節器ソルベンチル(solventil、すなわち太陽バルブ)を発明。また、'Dalen Flasher' は種火を除けば周期的に光を強めるときだけガスを消費するようにした装置です。AGA社はこれらの発明を使って、電力も不要で従来の1/10のガス消費量で長寿命で保守の工数を減らした灯浮標を製作し、航海の安全に貢献しました。1906年、ダレーンは技術主任となり、1909年にAGA社に改組されたときには社長に就任しました。AGA社はダレーン式の灯台や灯浮標を製造し、1912年ごろには大きな工場がリディンゲに完成し、AGA社はストックホルムからリディンゲに移転しました。スカンディナヴィアの複雑な海岸では、AGA社のブイが大いに使われ、パナマ運河でもAGA社の灯台がその全長に渡って設置されました。1912年にノーベル物理学賞を受賞。1937年12月9日に68歳で死去。

1874年、イギリスの政治家、軍人、作家、ウィンストン・チャーチルが生まれました。出生名はウィンストン・レナード・スペンサー=チャーチル。1900年のイギリス総選挙にオールダム選挙区から保守党候補として初当選(当時:25歳)。しかしジョゼフ・チェンバレンが保護貿易論を主張すると、自由貿易主義者として反発し保守党から自由党へ移籍。ヘンリー・キャンベル=バナマン自由党政権が発足すると、植民地省政務次官としてイギリスに併合されたボーア人融和政策や中国人奴隷問題の処理など英領南アフリカ問題に取り組みました。アスキス内閣では通商大臣・内務大臣に就任し、ロイド・ジョージとともに急進派として失業保険制度など社会改良政策に尽力、この体験を通じて暴動やストライキ運動に直面し社会主義への敵意を強めました。ドイツとの建艦競争が激化する中、海軍大臣に就任。第一次世界大戦時には海軍大臣、軍需大臣として戦争を指導しました。しかしアントワープ防衛やガリポリ上陸作戦で惨敗を喫し、辞任。しかしロイド・ジョージ内閣で軍需大臣として再入閣。戦後は戦争大臣と航空大臣に就任し、ロシア革命を阻止すべく反共産主義戦争を主導し、赤軍のポーランド侵攻は撃退しました。だが、首相は干渉戦争を快く思わず、植民地大臣への転任を命じられ、イギリス委任統治領のイラクやパレスチナ政策、ユダヤ人のパレスチナ移民を推し進めました。初の労働党政権となったマクドナルド内閣に反社会主義の立場から自由党を離党し、野党に下落した保守党へ復党しました。スタンリー・ボールドウィン内閣では財務大臣を務め、新興国アメリカや日本の勃興でイギリス貿易が弱体化する中、金本位制復帰を行いましたが失敗し、政権交代が起き再びマクドナルドの労働党政権の復帰となりました。1951年に再び首相を務め、米ソに次ぐ原爆保有を実現し、東南アジア条約機構(SEATO)参加など反共政策も進めました。1953年、ノーベル文学賞受賞。1955年にアンソニー・イーデンに保守党党首及び首相職を引き継がせ政界から退きました。1960年代に入った晩年のチャーチルはひどく老衰し、言葉の意味もよく分からなくなっていました。また頻繁に涙を流すようになりました。1965年1月8日に脳卒中で左半身がマヒし、1月24日午前8時頃、家族に見守られながら永眠。
https://www.youtube.com/watch?v=q3kcgG2B3lo

1874年、カナダの小説家、ルーシー・モード・モンゴメリが生まれました。1908年最初の長編小説『赤毛のアン』を出版し、世界的ベストセラーとなる大成功を収めました。モンゴメリは続く11冊の本をリースクデールの牧師館で書きました。モンゴメリは「うつ病による薬物の過剰摂取が原因の自殺」を図り、1942年にトロントで死去。『アンの想い出の日々』を書き上げた直後でした。モンゴメリは1908年の『赤毛のアン』の成功の後、1909年の第2作『アンの青春』など、『赤毛のアン』シリーズ(アン・ブックス)を含め生涯に20冊の小説と短編集を書きました。特に『赤毛のアン』は何度も映画化され、40か国語に翻訳されるなどの成功を収めました。『赤毛のアン』は日本では、1952年に村岡花子により翻訳・紹介され、主に少女たちの間で熱狂的に愛読されました。なお、少女期から『赤毛のアン』を愛読していた作家の松本侑子は、1990年代に原書で読み直したところ、中世から19世紀にかけてのイギリス文学のパロディが、大量に詰め込まれていることを発見し、1993年に詳細な注釈つきの『赤毛のアン』の改訳版を刊行しました。
https://www.greelane.com/ja/%E6%96%87%E7%B3%BB/%E6%96%87%E7%8C%AE/lucy-maud-montgomery-author-4586962

1875年、ジャーナリスト、評論家の長谷川如是閑(はせがわ にょぜかん)が生まれました。明治・大正・昭和と三代にわたり、新聞記事・評論・エッセイ・戯曲・小説・紀行と約3000本もの作品を著しました。大山郁夫らとともに雑誌『我等』(後に『批判』)を創刊し、大正デモクラシー期の代表的論客の一人。「如是閑」は雅号、本名は萬次郎。1912年(大正元年)頃からコラム「天声人語」を担当するようになりました。筆名の「如是閑」は朝日新聞記者時代のもので、非常に多忙であった彼に対し、ある支配人が「せめてペンネームくらいは閑そうな名前を」ということで名付けてくれたものです。ファシズムを強く批判した自由主義者。1946年(昭和21年)3月12日、最後の貴族院勅撰議員となり日本国憲法の制定に携わりました。1969年(昭和44年)11月に死去。享年94歳。今の若い人には如是閑という名前すら読めないことでしょう。これも時代の流れでしょうか。
https://www.youtube.com/watch?v=uVS9f8ujAyQ

1911年、哲学者・フランス文学者の森 有正(もり ありまさ)が生まれました。
生後間もない1913年に洗礼を受けてクリスチャンとなり、6歳からフランス人教師のもとでフランス語、後にラテン語を学んだ。暁星小学校・暁星中学校から東京高等学校 (旧制)を経て1938年に東京帝国大学文学部哲学科を卒業(卒論は『パスカル研究』)、同大学院を経て東京帝国大学の特研生、副手、助手を歴任。傍ら東京女子大学や慶應義塾大学予科などで講師を務め、フランス思想・哲学史を講義しました。旧制一高教授を経て、1948年東京大学文学部仏文科助教授に就任。1962年にフランス人女性と再婚するも1972年に離婚。
デカルト、パスカルやリルケ『フィレンツェだより』、哲学者アランなどを訳し、パイプオルガンを演奏しレコードも出しています。晩年に哲学的なエッセイを多数執筆し注目を浴び、1968年に『遥かなノートル・ダム』で芸術選奨文部大臣賞を受賞しそれらにより一時日本に帰国し講演・対談や短期の集中講義なども行っています。日本に永住帰国を決め、国際基督教大学に教職が内定していましたが、血栓症がもととなり1976年にパリで客死。墓所は多磨霊園に。
https://www.youtube.com/watch?v=7lbuX3Zlq0k

1925年、噺家の初代林家三平が生まれました。1952年、妻・香葉子と結婚。1955年、出口一雄により、KRテレビ(現:TBS)『新人落語会』(後に『今日の演芸』と番組名変更)の司会者に抜擢されました。三平大ブームが巻き起こります。「どーもすいません」「好きです、ヨシ子さあーん♪」という一節は一世を風靡しました。1979年正月、脳溢血で倒れて東京逓信病院に入院。1週間の昏睡を経て右半身が麻痺し、言語症が生じましたがリハビリを重ね、10月に奇跡の復帰。高座に復帰する際、妻の香葉子が劇的な演出を試みたことは立川談志などから冷たく批判されました。1980年9月18日、肝臓癌で入院、9月20日に死去。54歳没。妻・香葉子、長女・美どり、次女・泰葉、長男・泰孝(9代目正蔵、当時はこぶ平)、次男・泰助(2代目三平)、義兄・中根など家族・親族、一門弟子が見守る中息を引き取りました。高座でなくともあらゆるところで人を笑わせないと気が済まず、トイレの朝顔でたまたま並んだ人に「ボク、長嶋茂雄です」と挨拶して呆然とさせたそうです。同じ時期にテレビ、ラジオで活躍した落語家に、弟弟子5代目月の家圓鏡(8代目橘家圓蔵)、7代目立川談志、5代目三遊亭圓楽、2代目三遊亭歌奴(現3代目三遊亭圓歌)らがいます。
https://www.youtube.com/watch?v=o4TUdLzLe4g


引用・参照したサイト

11月30日は何の日?記念日、出来事、誕生日などのまとめ雑学
11月30日 - 今日は何の日〜毎日が記念日〜
11月30日は何の日
11月30日の雑学。今日は何の日?記念日、誕生日、カレンダー
トラッドジャパン 11月30日← より充実を期して
マイナビウーマン 11月30日← より充実を期して
Wikipedia「11月30日」
ほか
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