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2023年11月29日20:42

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日本と宋(かつての中国)との関係

 ただいま取り組み中の「中世史私論」も「僧侶と海商たちの東シナ海」も、ちょうど中国は「宋」の時代です。宋の日本とのはどんなものだったかをまとめてみました。

 まず宋という国ですが、960年に後周の部将であった趙匡胤が宋(南宋)を建国、唐以来の節度使(藩鎮)勢力を抑え、皇帝の独裁制を樹立することに成功し、五代十国の争乱を終わらせ、第2代の太宗は979年に中国の統一を回復しました。都は開封(汴京)。これは東京(とうけい)開封府と言われ、これ以外に西京(せいけい)河南府、南京(なんけい)応天府、北京(ほくけい)大名府の4都が置かれていました(四都制)。
 宋は五代十国の争乱を終わらせた、漢民族による中国統一王朝ですが、華北の一部の燕雲十六州はなお遼(契丹)に支配され、その圧迫を常に受けていました。また西方の西夏、後には遼に代わって台頭した女真の建てた金の圧迫を常に受け、その防衛のための軍事費は常に宋王朝の財政を圧迫していました。
 華北に進出した契丹や女真の国家はかつての五胡と異なり、漢文化に同化せずに独自の民族的性格をそのまま中国に持ち込んできました。そのような周辺民族の活動を見て、宋には漢民族として自覚が生まれたと言えます。宋は遼や金を対等な交渉相手とせざるを得ず、その交渉は宋の政治に直結しました。1004年には遼との澶淵の盟を結び、和平を実現しましたが、遼への贈与の負担は財政を圧迫し、西方に起こった西夏との1044年の慶暦の和約も宋の財政を圧迫し、王安石の改革などの要因となりました。
 遼や西夏に対する防衛、また和平策による贈与は財政負担を強めたため、神宗のときの1070年、王安石を登用して財政その他の政治改革を行って財政再建をめざしたものの、改革を支持する新法党と改革に反対する旧法党の対立が生じ政治は混乱し、改革は結局失敗しました。

 徳祐2年(1276年)、モンゴルのバヤンに臨安を占領されて、事実上宋は滅亡した。
 日本は古くから中国と貿易を行っていましたが、その後の日本を大きく変えたという意味で歴史上重要とされるのが、平安時代中期から鎌倉時代中期まで行われた「日宋貿易」です。これは、平氏の棟梁「平清盛」の政策として知られますが、実は日宋貿易を始めたのは、平清盛の父「平忠盛」(たいらのただもり)でした。平氏の一族は武士でありながら、商才にも長けていたのです。平清盛は日宋貿易をさらに発展させ、のちの国際貿易港・神戸の礎を築き、日本に初めて貨幣経済を芽生えさせるなど、多大な功績を残しました。

 894年(寛平6年)、「菅原道真」の提案により、約260年間続いていた「遣唐使」を廃止。これにより国家間での正式な外交は遮断されてしまいます。
 とは言え、その後も中国船の来航は絶えず、960年(天徳4年)に宋が建国されたあとも日中貿易は継続。日本側は、九州の博多に限定して貿易を許可し、「大宰府」(だざいふ:大陸からの侵攻に備え、現在の福岡県太宰府市に置かれた役所)が管轄することとなりました。
 これに不満を抱いた宋の商人は、当時力を付けてきた北九州の商人を相手に私的な貿易を開始。朝廷側は、貴重な舶来産の品物を入手するルートを失いたくなかったため、こうした私的な商取引も暗黙に認めていました。

 平清盛が確立した日宋貿易は、平安時代以降の日本に多大な影響を与えました。
 それまで、日本において貨幣制度が整備されていませんでしたが、日宋貿易を通して宋の貨幣「宋銭」(そうせん)が大量に流入。
 当時の船が転覆しやすかったため、宋から日本に渡る際、船底に重りとして敷き詰めたのが宋銭流入の始まりとされています。
 このとき、貨幣の利便性に目を付けた平清盛は、宋銭を輸入し国内で流通させようと画策。
 しかし、それまで絹や米などによる物々交換が主流だった国内経済は、混乱に陥ります。物価も高騰したため、平氏に対する不満を招いたという説もあるのです。
 平清盛の死後、宋銭の流通は廃止されるものの、貨幣による利便性の良さを知った商人達は、かえって積極的に宋銭を使用。朝廷もこうした流れを無視できず、鎌倉時代には宋銭が公式に認められるようになったのです。

 南宋が銅銭の流出を防ぐため、「倭船入界之禁」という日本船を対象にした入国制限令を1258年以前に出していました。南宋では銅銭の流出防止策として日本船を制限する必要性が主張されていましたが、その主張が出された時期と引き合わせて「倭船入界之禁」が制定された時期を考えてみると、1251年から1256年の間ということになります。1250代には日本船による銅銭の流出が甚だしく、その入港を制限する必要性が提案されるレベルに達したので、実際それを制限する法令が出されたのでしょう。1240年代に確認される事例からすると、日本船は一年間で南宋の年間鋳造量の四倍以上を持ち出しており、南宋が日本船を特定して禁令を出したとしても不思議ではありません。
 しかし、「倭船入界之禁」が出されたにも関わらず、慶元市舶務は貿易からの収入のため禁令を守りませんでしった。南宋は財政に商業の占める比重が高く、市舶の収入を求めて市舶官に諸外国との貿易の拡大を指令したので、市舶官は収益のノルマのため、密輸の監督が疎かになってしまいました。宋朝自身が市舶からの財政源に大きく依存している限り、銅銭の流出は防ぎようがなかったのでしょう。それだけではなく、南宋は軍需品確保のためには銅銭の流出をある程度容認しており、硫黄という軍需品を載せた日本船の入港までは禁止できない事情もあったのです。また、硫黄とともに日本の主要輸出品であった木材も海船の材料という軍需品の性格を帯びていたので、宋の日本船制限令はますますその実行力を失ったのでしょう。
(2023年2月20日の投稿を手直し)
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