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2023年11月29日11:33

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「騎馬民族征服王朝説」と「文明の生態史観」 下

 梅棹は旧世界のこの2つの地域のうち西洋文明と日本を「第一地域」、アジア・アフリカを「第二地域」と名付けました。彼の指摘によれば「旧世界を横長の長円にたとえると、第一地域は、その、東の端と西の端に、ちょっぴりくっついている。とくに、東の部分はちいさいようだ。第二地域は、長円の、あとのすべての部分をしめる。第一地域の特徴は、その生活様式が高度の近代文明であることであり、第二地域の特徴は、そうでないことである」。「第一地域では、動乱をへて封建制が成立するが、第二地域では、そういうようにきちんとした社会体制の展開はなかった。第二地域のあちこちでは、いくつもの巨大な帝国が、できてはこわれ、こわれてはまたできた。東と西にとおくはなれたふたつの第一地域が、もうしあわせたように、きちんと段階をふんで発展してきたのは、なぜだろうか。それをとうまえに、逆に、大陸の主体をしめる第二地域では、なぜ第一地域のような、順序よく段階をふんだ発展がなかったのか」。

 文明論的な観点からみて旧世界の最も重要な特徴は、ユーラシア大陸を東北から西南に斜めに横断する巨大な乾燥地帯の存在だというのです。
「乾燥地帯は悪魔の巣だ。乾燥地帯のまんなかからあらわれてくる人間の集団は、どうしてあれほどはげしい破壊力をしめすことができるのであろうか。わたしは、わたしの研究者としての経歴を、遊牧民の生態というテーマではじめたのだけれども、いまだにその原因について的確なことをいうことはできない。とにかく、むかしから、なんべんでも、ものすごくむちゃくちゃな連中が、この乾燥地帯からでてきて、文明の世界を嵐のようにふきぬけていった。そのあと、文明はしばしばいやすことのむつかしい打撃をうける」。すなわち「第二地域の歴史は、だいたいにおいて破壊と征服の歴史である。王朝は、暴力を有効に排除しえたときだけ、うまくさかえる。その場合も、いつおそいかかってくるかもしれないあたらしい暴力に対して、いつも身がまえていなければならない。それはおびただしい生産力の浪費ではなかったか。たいへん単純化してしまったようだが、第二地域の特殊性は、けっきょくこれだとおもう。建設と破壊のたえざるくりかえし、そこでは、一時はりっぱな社会をつくることができても、その内部矛盾がたかまってあたらしい革命的展開にいたるまでは成熟することができない。もともと、そういう条件の土地なのだった」。これと対照的に、ユーラシア大陸の東端と西端に位置する第一地域は実に恵まれた地域であった。「中央アジア的暴力」はそこまでは容易に届くことはなかったからであります。
「つまり第一地域というところは、まんまと第二地域からの攻撃と破壊をまぬかれた温室みたいなところだ。その社会は、そのなかの箱入りだ。条件のよいところで、ぬくぬくそだって、何回か脱皮をして、今日にいたった、というのがわたしのかんがえである」。 この見方を「文明の生態史観」というのは、生態学の用語法で文明史を観察し記述したということなのです。「遷移」と訳されるサクセッションは、ある特定の場所に生まれた植物群落が長期間をかけて、その場所の気候条件などに適応しつつ、次第に別の群落に変化していくことを指します。新しい群落としてこれが定着した状態が「極相」(クライマックス)であります。
 すなわち「第一地域というのはちゃんとサクセッションが順序よく進行した地域である。そういうところでは、歴史は、主として、共同体の内部からの力による展開として理解することができる。いわゆるオートジェニック(自成的)なサクセッションである。それに対して、第二地域では、歴史はむしろ共同体外部からの力によってうごかされることがおおい。サクセッションといえば、それはアロジェニック(他成的)なサクセッションである」。

 ところで問題は現代です。中国の発展にみられるように、現代は第二地域の勃興期であります。経済発展の速度は第一地域より第二地域の方が速いのです。しかし、梅棹はここで次のように喝破します。
「生活水準があがっても、国はなくならない。それぞれの共同体は、共同体として発展してゆくのであって共同体を解消するわけではない。第二地域は、もともと、巨大な帝国とその衛星国という構成をもった地域である。帝国はつぶれたけれど、その帝国をささえていた共同体は、全部健在である。内部が充実してきた場合、それらの共同体がそれぞれ自己拡張運動をおこさないとは、だれがいえるであろうか」。
 少なくとも日本の近代史を顧みれば、巨大なユーラシア大陸の中国、ロシアに始まり朝鮮半島を経て吹いてくる強い気圧の等圧線からいかにして身を守るか、これが最大のテーマでありつづけました。古代における白村江の戦いも、元寇も、秀吉の朝鮮出兵もそのことを証す歴史的素材であるかも知れません。しかし、それらはいずれも対馬海峡の荒い海流に遮られて「温室」のような条件の日本に生じた、ある種の偶発的な出来事であったのかもしれません。

日本が「中央アジア的暴力」と本格的に対峙させられるようになったのは、19世紀の末葉以降のことです。「中央アジア的暴力」は必ず朝鮮半島を通じて日本に及ぶというのが、極東アジアの地政学的な構図です。実際、さきにある種の偶発的な出来事であったかも知れないと記した、日本と大陸との「有事」のいずれもが朝鮮半島を舞台に展開されたものでした。維新後の幼弱な日本にとっての最大の焦点が朝鮮半島でした。大陸勢力と海洋勢力がせめぎ合う朝鮮半島の地政学上の位置は日本にとって宿命的でした。

 中国、ロシアというユーラシア大陸から張り出す高気圧に対抗して日清、日露両戦役を戦った日本は、その後、第1次世界大戦の勃発によりヨーロッパ勢力が後退した中国を、対支21カ条々約の強圧的な締結などを通じてみずからの勢力圏に組み込みました。しかし、この事実が同じく中国への勢力拡大を急ぐ「後発国」アメリカの対日関係を悪化させ、1922年のワシントン海軍軍縮条約の締結と同時に日英同盟の廃棄をも余儀なくされました。日本はアングロサクソン勢力の支持を失って、中国というユーラシア大陸の懐の深い中心部で泥沼に足を捕られ、悲劇的な自滅への道を辿るより他ありませんでした。
 これは日本が本当に梅棹が主張するように、日本が第一地域という選良のような特別地域なのかどうか、疑問を呈するところであります。

 宮沢喜一内閣の時期のことです。アジア太平洋問題に関する首相の諮問委員会が設置され、第1回の委員会のゲストスピーカーとして梅棹氏が出席しました。「日本が大陸アジアと付き合ってろくなことはない、というのが私の今日の話の結論です」と冒頭を切り出して、委員全員が呆気に取られるというシチュエーションがありました。このあたりに梅棹忠夫の思考の限界があるのかもしれません。

 ともあれ、こうした見解は日本のインテリ層に自信を与えたのは間違いないところです。やがて日本がGNP世界二位まで昇りつめて、多くの同胞は自信を持つようになりました。いまや「騎馬民族征服王朝説」と「文明の生態史観」もどうでも良いことになりました。
(2022年のきょうから始まって5回連載したものに手直ししました)
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