わが国のいわゆるインテリ層にはある種のコンプレックスがあります。それは白人に生まれなかったこと、日本文化はルーツをたどると日本オリジナルのものはあまりなくて、中国発祥で朝鮮半島経由がほとんどである、以上の二点です。
これは明治に開国して欧米の文明を知り、圧倒されて以来、日本人をずっと悩ましてきたことでありました。「脱亜入欧」、すなわちアジアから抜け出して欧米人の仲間入りをしようというスローガンが掲げられたほどです。今の日本人はその多くがそんなことを考えないですむようになったのは、ノーベル賞受賞者が何人も出たこと、そしてやはりGNPが一時は世界第二位にまで成長したことなどが自信になったのでありましょう。「俺たちは俺たちなんだ」と。それまではやたらと「日本人論」、それも白人から見た「日本とは何か?」という書物がベストセラーになったことが証左でもあります。
古くは本居宣長の『古事記伝』や賀茂真淵の『国意考』などが挙げられますが、西欧文明に圧倒された近代では、津田左右吉の『支那思想と日本』、中村元の『東洋人の思惟方法』のようなルーツをインド・中国に求めたものもありましたが、やはり、和辻哲郎の『風土』に代表される西欧との比較ものが多くの注目を集めるようになりました。それは昭和になってからの文化人類学者であるルース・ベネディクトの『菊と刀』が頂点を極め、さらにイザヤ・べダサン名義の『日本人とユダヤ人』というベストセラーさえ生み出しました。
後者は、「いざや、便出さん」のもじりで、現在では山本七平の著作であるとされています。私はかつてこの本を手に取ったときには「ずいぶん胡散臭い日本人論だなあ」と思った次第です。それも時の政府・保守勢力を喜ばせるものだな、と。発行元が右寄りの文藝春秋社でありましたし。
アメリカ軍の戦争情報局の命令で制作された報告書「Japanese Behavior Patterns (『日本人の行動パターン』)」を基に書かれた『菊と刀』は第二次世界大戦で、アメリカが日本に勝って占領すれば、という想定のもと、日本人とはどんな民族かということを事前に把握するために戦争で捕虜になった日本人たちから聞き出したことを元にしたものです。「神聖日本」「万世一系「鬼畜米英」で育てられたはずの日本兵たちは、捕虜になると打って変わってやたらと協力的であったことに著者のルース・ベネディクトは驚いたそうです。ともあれ、一読すればこちらに多大なる劣等感を起こさせる著書であります。偏見も混じっていることも否めず、批判的な意見もありますが、講談社学術文庫から出ていますので、ぜひご一読あれ。
まだ日本と西洋文明との間に圧倒的な差があった江戸時代に、それに触れても「脱亜入欧」に走らなかった人たちも何人かいました。代表的なのが新井白石と三浦梅園の二人です。私はこの二人のことを思うと、「本当に日本人に生まれてよかったな」と、誇らしい気持ちになります。
まずは名前は有名な新井白石。「正徳の治」という政治で記憶されている方もおられるでしょう。それは1709年から1716年の間、江戸幕府において、6代将軍徳川家宣、7代将軍徳川家継のもとで、無役の旗本ながら儒学者新井白石が補佐するかたちで進めた文治政治のことです。5代将軍徳川綱吉の政治を立て直すため、貨幣の質を戻したり、貿易を制限したりしました。
彼はローマ教皇からの命でキリスト教の布教復活のため日本へ密航して捕らえられ、長崎を経て江戸茗荷谷キリシタン屋敷に拘禁されていたシドッチを取り調べ、本国送還が上策と建言しました。白石はこの事件により得た知識をもとに『西洋紀聞』『采覧異言』を著しています。ここで彼はキリスト教世界に正確な判断を下しています。渡航経験もないのに。シドッチ一人から聞き出しただけなのに。ローマ字の合理性を説いたり、キリスト教的世界把握(世界観)をばかばかしい妄想であると見抜いたり。例を挙げれば、進化論を知らずとも、この世の人間や動物はすべて神がこしらえたものである、とする世界観です。白石のこのような冷徹な判断力はもっと多くの同胞に知ってもらいたいところです。
次が三浦梅園。本職は医師。郷里の国東(くにさき.大分県)で過ごし、再三にわたる諸侯からの招聘も断り続けました。どうやら生涯、一歩も国東の地から出なかったようです。
朱子学者でありながら、独自の学問大系である条理学を築き『玄語』『贅語』『敢語』を著しました。この条理学には西洋哲学の形而上学と一致するところが見受けられます。彼の行動範囲からすると、西洋哲学に触れたとは考えにくいのですが、そういうことです。これは驚きの一語に尽きます。つまり梅園は独自に形而上学的なものを編み出したのです。だから、梅園が西洋の哲学・思想などに触れていたとしても、その影響は受けなかったのでしょう。
村人の良き相談相手であり、もめ事の調停に秀れ、よくいさかいを治め、毎年末には貧しい人々に米や塩を贈ったり、大凶作のときには村の世話人として「慈悲無尽興行旨趣」を書いて、困った人を助けるために物資を提供するように呼びかけて苦しんでいる人々を助けた等の逸話を残していることから、「豊後聖人」として多くの人々から慕われて、豊後の国東の地で骨をうずめました。地元安岐町に梅園自身が設計した旧宅があり、そのすぐ横をバスで通ったことがあります。とても質素な構えでした。
もう一人。福沢諭吉。旧1万円札の肖像画で、慶応義塾の創始者として、また「天は人の上に人を作らず、人の下に人を造らず」の『学問のすすめ』でよく知られた人です。
緒形洪庵の「適塾」で蘭学を学び、アメリカへ渡航して西洋文明も目の当たりにしました。ヨーロッパへも使節団にも加わりました。しかし彼はそういうことには圧倒されながらも、「西洋かぶれ」にはなりませんでした。日本の近代化を呼びかけながらも、士道(武士道)の教えに親近的でありました。彼の思想はあれこれ迷いながらも、一貫して日本の伝統に忠実でありました。それなのに西洋排斥論にもくみしませんでした。『西洋事情』はそんな彼の立ち位置を知るマストアイテムであります。
おもな日本人論・日本文化論を挙げてみましょう。本居宣長の『古事記伝』や賀茂真淵の『国意考』はこのシリーズの第一回でも挙げました。ルース・ベネディクトの『菊と刀』についても。
マルコ・ポーロの『東方見聞録』、フランシスコ・ザビエル『聖フランシスコ・ザビエル全書簡』、マシュー・ペリー『ペルリ提督日本遠征記』、タウンゼンド・ハリス『日本滞在記』、アーネスト・サトウ『一外交官の見た明治維新』、徳富蘇峰の『将来之日本』、ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)の『知られざる日本の面影』、内村鑑三の『代表的日本人』、新渡戸稲造の『武士道』、岡倉天心の『茶の本』、西田幾多郎の『善の研究』、谷崎潤一郎の『陰翳礼讃』、和辻哲郎の『風土』、ブルーノ・タウトの『日本美の再発見』、坂口安吾の『日本文化私観』、岡本太郎の『日本の伝統』、李御寧の『「縮み」志向の日本人』、加藤周一の『雑種文化』、谷川徹三の『縄文的原型と弥生的原型』、司馬遼太郎、ドナルド・キーン『日本人と日本文化』、エズラ・ヴォーゲル『ジャパン・アズ・ナンバーワン』、中根千枝『タテ社会の人間関係―単一社会の理論』、土居健郎『「甘え」の構造』、河合隼雄『母性社会日本の病理』、石原慎太郎・盛田昭夫共著『「No」と言える日本』、丸山真男『日本の思想』…、と代表的な書物だけでも気が遠くなりそうです。
遠藤周作や司馬遼太郎らも小説という媒体を通して日本人を見つめてきました。
映画でも「戦場にかける橋」ゃ「SHOGUN（将軍）」「戦場のメリークリスマス」「太陽の帝国」「ブラック・レイン」などはこの系譜に連なると言えるでしょう。
ここでロバート・ホワイティングの『菊とバット』を取り上げてみたいと思います。ロバート・ホワイティングは、日本の野球や日本で活動するアメリカ人ギャングなどの現代の日本文化に関するいくつもの成功した本を書いたアメリカ合衆国ニュージャージー州生まれのベストセラー作家兼ジャーナリストです。野球をおもなテーマとして日本人論、日米比較文化論を展開しています。野茂英雄の伝記でも有名。
本書は野球を通じたユニークな日米比較文化論として知られ、来日する外国人選手のバイブルともいわれる名著です。懐かしの名選手のエピソードや、「和」「武士道」などのキーワードを通して、日米野球の根本的な違い、日本野球の本質、問題点がつづられています。読みようによっては、野球というアメリカのスポーツが日本ではまったく同工異曲のものに変換されたという、日本人が外国発祥のものをどう移入して吸収していったかということが野球でも同様であるかというフィールドワークにもなり得ます。
まだ敗戦の記憶が残っていた時に、突如としてこの説は現われました。
前提として、「日本に独自の文化というオリジナリティはない」「日本人は朝鮮民族から枝分かれしたものでしかない」「天皇家も所詮は朝鮮半島が起源」という考えがあり、それに加えて太平洋戦争に惨敗した、というコンプレックスがありました。つまり当時の日本のインテリ層は完全に自信を喪失していたのであります。
江上波夫の唱えたこの説は、上記の呪縛から逃れる脱出口だったのです。簡単に要約するとこういうことです。
東北ユーラシア系の騎馬民族が、南朝鮮を支配し、やがて弁韓を基地として日本列島に入り、4世紀後半から5世紀に、大和地方の在来の王朝を支配し、それと合作して征服王朝として大和朝廷を立てたという説。騎馬民族日本征服論（きばみんぞくにほんせいふくろん）ともいう。東洋史学者の江上波夫が考古学的発掘の成果と『古事記』『日本書紀』などに見られる神話や伝承、さらに東アジア史の大勢、この3つを総合的に検証した考古学上の説である。３世紀末にツングース系騎馬民族（夫余族）の高句麗が、朝鮮半島を南下して南朝鮮を支配する。百済王はこの騎馬民族の首長ではないかと江上氏は示唆している。この騎馬民族はやがて４世紀になって北九州に上陸しこの地を征服する。その時朝鮮からやってきて、後１００年ほど続く「九州王朝」の開祖となった者が、後に「崇神天皇」と呼ばれるようになったと言うのである。現天皇家の始祖はここにあるとする。江上氏によればこれが「第一回の建国」ということになる。
江上説が一般の歴史・考古学ファンの心をつかんだのは、ロマンあふれる騎馬民族征服王朝説でした。
古事記、日本書紀等の古い時代の資料に日本人が騎馬民族であるかのような記述は見られませんが、渡来人に関する記述は数多くみられます。特にニニギノミコトの天孫降臨に対しては数多くの学者たちから数多くの検証がなされてきました。
日本の古代国家の起源を東北アジアの騎馬民族に求めた壮大な説である騎馬民族征服王朝説は戦後間もない1948年、東京・お茶の水駅近くの喫茶店に江上と岡正雄、八幡一郎、石田英一郎の学究仲間3氏が集った座談会で披露され、「日本民族＝文化の源流と日本国家の形成」という特集記事で発表されました。かかわりの深かった研究誌『民族学研究』の出版元が経済的に困っているので売れる論文を書いて助けよう、と座談会が企画されたということです。
江上氏は古墳時代前期と後期とでは、「突然変異的な変容」がみられることに着目しています。とりわけ副葬品の変化に注目されています。前期は鏡・玉・剣さらに車輪石・鍬形石など宝器的・象徴的・呪術的なものであり弥生時代と本質的には変わっていない、しかし後期になると生活・戦闘など実用的なものに変わるのだといわれます。食器・酒器などの容器、帯金具・耳飾り・冠など金工服飾装身具、盾・靱・鏃・刀・甲冑などの武器類、轡・鐙・鞍などの馬具類などに変わっているというわけです。
こうした変化をいかに解釈するか。江上氏は、こうした「突然変異的な変容」は「その社会それ自身の内部的な発展によって生み出されるものでは決してなく、別種の社会形態をもった、別種の人間がそこに移動してきた場合に限って見られる現象です。」と考えられたのです。（「騎馬民族の渡来と倭国の統一」ｐ18、『倭から日本へ』所収）
騎馬民族説は学会に大きな論争を巻き起こし、発表直後から柳田國男、折口信夫といった民俗学者をはじめ、様々な分野の研究者から批判を受けました。この説については佐原真はじめ、岡内三眞、穴沢�峺�、鈴木靖民、安本美典など多くの研究者からも批判が寄せられました。 江上説の批判者の一人、岡内三真氏の言葉もまた厳しいものです。
「この仮説は、現代では通用しなくなった戦前の喜田貞吉の「日鮮両民族同源論」を基礎にして、戦前・昭和初期の歴史教育を受けて北京に留学し、軍隊の庇護の下に中国東北地区を闊歩した江上流の資料収集法と旧式研究法に基づいている。無意識に吐露する現代論や人間感にはアジアの人々の心を逆なでするような言葉が含まれる」
しかし、江上は学説の不備を指摘されると、その都度修正、補強し続けました。学界では疑問視する意見も強いのですが、発表後50年以上経っても、一般に流布した学説として生き続けています。
学説が発表されたのは天皇家の起源を神話に求める皇国史観の束縛から解き放たれた時期で、マスコミはこぞって江上説を紹介しました。北方から騎馬民族が南下し、次々と農民族を支配下に入れて新王朝を建設するという話に、ロマンを感じる人が多かったのです。
晩年には反騎馬民族説を主唱する佐原真に対論を挑まれ、2人が激論した著作も刊行されました。この説は日本古代史上の仮説として学会でも激しい論争となりましたが、定説には至りませんでした。しかし議論自体は現在も残されたままともいわれます。
なお、騎馬民族征服王朝説の「征服王朝」と言い出したのは江上ではなく、ヨーロッパの学者で、おそらくウィットフォーゲルが最初だろうと江上自身が語っています。 騎馬民族説は「昭和の伝説」となってしまいましたが、江上の学者としての真価はむしろ、日本の考古学に海外調査への道を開いたという点にあります。
現在では、この江上説は壮大なロマンを感じさせるだけで、根拠は皆無として否定する向きが大勢を占めていますが、批判的に継承する説も少数ながら存在しています。
「文明の生態史観」（ぶんめいのせいたいしかん）が日本人に与えた自信は、誤解を恐れずに述べると、日本の文化・文明はアジアでも特別なものであり、欧米のそれと同等・比肩できるものだということでした。
『文明の生態史観』は、1957年（昭和32年）に『中央公論』に発表された梅棹忠夫の論考。『知的生産の技術』と共に梅棹の代表作。1967年（昭和42年）に中央公論社から叢書版が出版され、1974年（昭和49年）に中公文庫から文庫版が出版され、1998年（平成10年）に同文庫の改版が出版されました。「文明の生態史観」は、今西錦司を師と仰ぎ京都大学に雲のごとく集まった俊秀たちの思考様式に発するものですが、東洋対西洋という、長きにわたり日本人の頭の中に刷り込まれてきたイメージを一新するものとして受け取られたのです。
梅棹は東洋と西洋という分類はただ「類別をあたえただけで、種別をはかる目が用意されていない。日本が東洋一般でない以上は日本と日本以外の東洋とがどのようになるかが、かたられねばならない。よくしらべてみたら、案外ひどくちがうものかもしれない」としています。
(下 に続く)
ログインしてコメントを確認・投稿する