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2023年11月29日07:52

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《復刻》 中世史私論 その64 奥州・九州の動向〜松浦党一揆

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 今川了俊(りょうしゅん.貞世)が九州探題になって三年ほどのころ、応安六年(1373)5月6日、青方氏のほか宇久(うく)・有河・多尾・神崎・松尾・鮎河などの諸氏が、「一揆契諾(けいだく)」を結びました。内容は五箇条であります。
 (1)「君の御大事」のときは一味同心して軍忠にはげむ、
 (2)この契約を結んだ仲間の中で、所領のこと、軍事のことなどで争いが生じた場合は、
 必ず談合し多分の議(多数決)によって理に従って平和的に解決する、また仲間の一人が
 公私にわたって苦境に陥ったら仲間一同のことと考えて協力する、
 (3)仲間が裁判にかかわりを生じたときは、縁者他人の区別なく、理運(りうん)に従い
 私曲(しきょく)なく対応する、
 (4)仲間中で、多分の議を破る者があれば永く仲間から追放とする、
 (5)郎従以下の者が狼藉を行ったときは、一人で宿意(うらみ)をとげるようなことはしない
というものでありました。この契諾に連書したのは32名で、名の配列は「孔子(クジ)次第」、上下の順なし、何事も多数決としています。そのうち八名は花押(かおう)がないところをみると、契諾を決定署名する会合に出席しませんでしたが、加盟には賛成の人でありましょう。

 この32名の全員について、その本拠地を確定することはできませんが、北の宇久島(北松浦郡宇久町)をふくみ、大半は中通島の豪族たちであることはまちがいありません。入りくんだ島の浦々に割拠する「海賊」型小豪族層の地域連合であります。第一条に「君の御大事」を掲げていること、またこの契諾の成立が、ちょうど今川了俊が九州国人(こくじん)の統合に乗りだした時点であることから、「青方文書」の校訂者は、一揆契諾は了俊の仲介によって実現されたのではないかと推測しています。

 たしかに了俊は永和三年(1337)、肥後・薩摩・大隅・日向の国人の「一揆」結集をうながし、守護島津の牽制をはかっていますから、この松浦(まつら)の一揆にもそういう契機がなかったとはいえません。しかし、かりにそうした契機があったとしても、「契諾」成立の歴史的基礎は、遠く源平時代から松浦党という形の結集があったながい歴史と不可分であります。五島のみならず、平戸島や九州本土の北松浦地方の小規模国人・土豪層は、「重」「全」「秀」などみな共通に一字名を名乗り、擬制的な同族意識をもって、松浦党という形の結集体をつくっていました。壇ノ浦合戦にこの松浦党が数十艘(そう)の船団をもって平氏に味方したことは『平家物語』によっても知られています。

(2022年6月29日の投稿を加筆修正しました)


参考図書

 『国史大辞典』 佐藤和彦(著) 吉川弘文館
 『室町幕府と地方支配と地域権力』 市川裕士(著) 戎光祥出版
 『室町幕府管領施行システムの研究』 亀田俊和(著) 思文閣出版
 『日本の中世国家』 佐藤進一(著) 岩波書店
 『講座日本史3 封建社会の展開』より「室町幕府と守護領国」
     田沼睦(著) 東京大学出版会

 『室町幕府と地方支配と地域権力』 市川裕士(著) 戎光祥出版
 『日本の中世国家』 佐藤進一(著) 岩波書店
 『講座日本史3 封建社会の展開』より「室町幕府と守護領国」
     田沼睦(著) 東京大学出版会

 https://kyureki.jp
   (参考) 九州の歴史 資料館のサイト

 http://www.matsura.or.jp/rekishi/matsuratou/
   松浦史料博物館 海の武士団 ↓

海の武士団

長崎県北部から佐賀県北部の入り組んだ海岸線は、その環境から歴史的に海と関わる生業をもつ住人をはぐくむことになりました。 それは必然的に船と関係する人々が多くなったのです。これは武士も同様で「海の武士団」とも呼ばれる松浦党(まつらとう)になりました。 松浦党は源平合戦の壇ノ浦の戦いで平家方の水軍の主力となったことが記録されています。鎌倉時代の元寇では多くの松浦党が討たれました。
この元寇以後、報復的な意味や国内事情もあり朝鮮半島を襲う倭寇が猛威をふるうようになりました。李氏の朝鮮が成立すると、倭寇懐柔策が功を奏し鎮静化に向かいます。また、勘合船貿易(遣明船)では、松浦党は船団を護衛する水軍として室町幕府より認められました。

やがて室町幕府が衰退し、また16世紀半ばに日本で良質な銀がとれるようになると、中国系海商らが中核となる密貿易が活発になり、倭寇行為に及ぶようになりました。1540年代に倭寇の首領、王直が平戸に本拠をおきます。当時平戸は「西のみやこ」と称されるほどの繁栄を迎えました。これは1550年のポルトガル船平戸入港のきっかけとなり、その後もオランダ船、イギリス船の平戸来航へとつながりました。


 次回は「封建王政の成立・細川頼之の執政〜細川頼之の登場」。
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