1871年、明治政府は江戸幕府が幕末に結んだ日本にて不平等な条約を改正することや、欧米の文明を視察する目的で使節団 (岩倉使節団)を欧米に派遣しました。そして、岩倉具視が代表となり、木戸孝允や大久保利通、伊藤博文など政府の有力者約50名がアメリカ、ヨーロッパ各国をまわりました。
しかし、日本は法律が整備されていないなどの理由で、条約改正は達成できませんでした。 使節団には留学生も多く同行し、津田梅子ら、日本ではじめての女子留学生も同行しました。明治政府は近隣の国々に開国を求め、国交を結ぼうとしていました。
1871年、清とは対等な立場での日清修好条規を結びました。また、岩倉使節団が欧米を訪問している間、政府の代表となっていた西郷隆盛は板垣退助と協力し、欧米に対して鎖国をしていた朝鮮を開国させようとする征韓論を主張し、使節の派遣を決定させました。
しかし、欧米から帰国して、国力を増強させるために国内の整備を優先しなくてはならないと実感した岩倉具視や大久保利通は、朝鮮への使節の派遣を中止し、征韓論をおさえました。
そのため、1873年、西郷、板垣らは政府を去ることになりました(明治6年の政変)。そののち、政府は国内の整備をすすめつつも朝鮮との交渉をすすめ、1876年には朝鮮にとって不平等な日朝修好条規を結び、朝鮮を開国させます。
また、政府は近代国家として日本の国境をしっかり定める必要があると考え、ロシアとの間で領有が不明だった樺太(サハリン)をロシア領として、千島列島を日本領土にする樺太・千島交換条約を結びました。ほかにも、1876年、 小笠原諸島を日本の領土としました。
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