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2023年11月27日05:05

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江戸幕府が倒れる

幕府が朝廷の許しをえないまま通商条約を結んだことで、天皇をとうとぶ尊王論が高まりました。また、外国の勢力を追い払おうとする攘夷論も高まりこれらの考えは尊王攘夷運動となってあらわれました。

尊王攘夷運動の拡大をおそれた幕府の大老井伊直弼は、幕府に反対する大名や武士、公家らを処罰しました。それが、世にいう「安政の大獄」です。しかし、1860年、江戸城の桜田門外で暗殺されてしまいました (桜田門外の変)。

このような中、尊王攘夷運動の中心であった長州藩 (山口県) は、下関で外国船に砲撃をおこないました。一方、生麦事件ののちイギリスと薩英戦争を経験し、攘夷ができないと考えた薩摩藩は幕府側について、京都から長州藩士を追い出しました。

この時期に下関の砲撃事件の仕返しとして、イギリス、フランス、アメリカ、オランダの四国連合艦隊が下関の砲台を占拠しました。欧米の強さを知った長州藩は、攘夷ができないことを知り、長州藩を征伐しにきた幕府に従う事を決めました。

攘夷ができない事を知った長州藩の桂小五郎(木戸孝允)らは、幕府を倒して欧米に負けない国づくりをしようと考えました。そして、坂本龍馬の仲立ちで、西郷隆盛や大久保利通らが実権をにぎる薩摩藩と長州藩とが密かに薩長同盟を結び、幕府を倒す大きな勢力となっていきました。

薩長同盟ののち、幕府は再び長州藩に軍隊を送りましたが、今度は薩摩藩の応援もなく、敗れてしまいました。一方、乱れた世の中をあらためる「世直し」を期待した農民一揆が全国で多く起こるようになりました。

また、「ええじゃないか」とはやしながら熱狂する民衆の騒ぎが東海から西日本にかけておこりました。このような中、15代将軍・徳川慶喜は、徳川家が新しい政権のなかで主導権を握ることを考え、政権を朝廷にかえしました。これが大政奉還です。

一方、西郷隆盛や岩倉具視らは朝廷を動かして、王政復古の大号令を出しました。これによって、長く続いた武士による政治がおわりました。大政奉還ののち、新政府の方針に不満をもつ旧幕府の勢力が、1868年1月に鳥羽・伏見の戦いをはじめました。

そののち、旧幕府勢力は上野 (東京都)、会津(福島県)などで政府軍と戦いましたが負けました。最後に1869年5月、五稜郭の戦い (北海道)で旧幕府軍は降伏し、戊辰戦争とよばれる戦いは終わったのです。

石原莞爾平和思想研究会 (ishiwara-kanji.com)

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