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2023年11月12日08:44

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明治時代の日本工業の発達


明治になってからの日本の工業は、繊維工業中心の軽工業から発達しました。日清戦争前に産業革命をむかえた日本には大工場が多くつくられるようになり、綿糸紡績業や製糸業による綿織物や生糸、綿糸の生産量がふえていきました。

日清戦争後には生糸や綿糸が輸出されるようになり、日露戦争後には世界最大の生糸輸出国になりました。遅れて発達した重工業では、日清戦争でえた賠償金をもとにつくられた官営八幡製鉄(福岡県北九州市)が1901年に操業を開始して鉄鋼の生産が始まりました。

しかし、生産能力が低く、重工業製品はいぜんとして、輸入に頼る状況が続きました。また、交通網も発達し、1889年には東海道本線(東京・神戸間)が開通し、その後も主要な路線が全国にしかれました。

産業が発達すると、政府が経営していた官営企業を民間にはらい下げるようになり、三井、三菱、住友、安田などの実業家の手にわたるようになりました。そしてこれらの実業家は、金融や貿易、運輸、工業などの分野に進出して日本の経済を支配する財閥へと成長していきました。

産業が発達すると、農村でも生活に必要な品物や農業で使うものを現金で買う生活へと変化していきました。しかし、借金などで生活に余裕がない農家は、土地を手ばなして借金を返すかわりに、土地をもたない小作人となっていきました。

多くの小作農家では、少しでも家族の収入をふやすために、二男や三男、娘たちが工場で長時間はたらいていました。一方、小作人を使用する裕福な農家は、小作料だけでも生活ができるようになり、なかには資本家になる者もいました。

農民のなかには、国内の生活をあきらめ海外に移住する者もいました。日露戦争後のおもな移住先はブラジルで、政府が希望者をあつめて、毎年ブラジルへ移民をおくりました。工業の発展とともに、さまざまな社会問題も発生しました。

工場では多くの従業者が厳しい条件ではたらかされており、女子 (工女)が多い製糸業の労働者は、わずかな食事時間をのぞいて1日に15〜18時間も働いていました。このような厳しい労働条件を改善する為に、各地で労働組合がつくられ労働争議がおこりました。

このような中、 幸徳秋水は資本主義が労働者を苦しめているとして、社会主義の考えにもとづいた新しい政党をつくりましたが、政府に弾圧され、さらに天皇の暗殺を計画した罪で12人が処刑される大逆事件がおきました。

また、足尾銅山 (栃木県)のまわりでは、銅生産の燃料にするための伐採や、有毒なけむりのために森林が破壊され、洪水がおこるようになり、川に鉱毒が流れ出ました。これをみた田中正造は、天皇に直接うったえるなど、 足尾銅山反対運動をすすめたのでした。

石原莞爾平和思想研究会 (ishiwara-kanji.com)

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