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2023年10月06日04:18

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[TVねた]2023.10.4 らんまん、おもしろかったです

後半の6月あたりからは、皆勤賞

毎日毎日、お昼に録画を楽しみに15分

お昼休みをTV三昧にした

朝ドラは、(^O^)至上初めてだったと思います

で、木俣冬さんのコメントも、携帯で毎日のように

眺めてましたが、今回も秀逸

万ちゃんすえこロスに尾を引きながら

最後の冬さんのコメ、備忘で載せておきたいと思います(^^♪

smile(^O^)

https://www.msn.com/ja-jp/news/entertainment/%E7%A5%9E%E6%9C%A8%E9%9A%86%E4%B9%8B%E4%BB%8B-%E6%B5%9C%E8%BE%BA%E7%BE%8E%E6%B3%A2-%E3%82%89%E3%82%93%E3%81%BE%E3%82%93-%E5%85%85%E5%AE%9F%E3%81%AE%E5%8D%8A%E5%B9%B4%E9%96%93%E3%81%AB%E6%84%9F%E8%AC%9D-%E5%AE%9F%E3%81%AB%E5%8A%87%E7%9A%84%E3%81%A0%E3%81%A3%E3%81%9F%E3%82%B9%E3%82%A8%E3%82%B3%E3%82%B6%E3%82%B5%E3%81%AE%E8%84%9A%E8%89%B2/ar-AA1hsQIW?ocid=msedgdhp&pc=U531&cvid=afcf2d195382434b996118b3736241c6&ei=13
神木隆之介×浜辺美波『らんまん』充実の半年間に感謝 実に劇的だったスエコザサの脚色
Real Sound 映画部 によるストーリー •
4 日

充実の半年だった。朝ドラことNHK連続テレビ小説『らんまん』は、清濁併せ持ったひとりの植物学者・槙野万太郎(神木隆之介)の生涯を、ただただ植物を愛した人物として描ききった。いや、それだけではない。万太郎は植物を愛しただけでなく、妻・寿恵子(浜辺美波)を愛し、隣人を愛した。それが最終週「スエコザサ」では強烈に伝わってきて、最終回に至っては、旅の終わりにすてきなお土産をもらったようなあたたかい気持ちになった。

主人公の少年期からはじまったドラマも最終週では60代。昭和2年、練馬区の広い敷地に住居と資料室を建て、植物図鑑発刊に向けて作業も大詰めの頃、寿恵子がこの時代の医学では治せない病にかかっていることが判明する。

図鑑発刊を急がなくてはならない。万太郎は「どうか」「どうか」と旧知の仲間たちーーかつての大学の同僚・藤丸(前原瑞樹)や波多野(前原晃)、野宮(亀田佳明)、長屋の仲間・丈之助(山脇辰哉)たちに助けを求める。植物画、索引作成、校正など、みんなの力が結集して図鑑が完成し、万太郎は、本の冒頭に、みんなの名前を記す。まるで過去の贖罪のようである。
若き頃、万太郎は論文にお世話になった人たちの名前や謝辞を入れず、恩人・田邊(要潤)を怒らせた。視聴者的にも万太郎は常識を知らなさ過ぎると思ったものだが、長い歳月を経て、万太郎は、自分ひとりの力では何事もできないと知ったのだろう。

こと植物に関しては「雑草という草はない」「どの草花にも必ずそこで生きる理由がある。この世に咲く意味がある」という信念を早くから持ち、ひとつひとつの特性を知り、名づけていくことを人生の課題にしていた万太郎が、なぜか人間に対する意識は薄めで、晩年になってようやく、人間にもひとりひとりの個性と名前があり、なんらかの関与をしながら生きているのだということに気づいたという変化の物語にもなった。

個人主義が行き過ぎると、欲望がぶつかりあい争いが起こる。個人を認めながら、助け合うこと。あいみょんの主題歌「愛の花」で、語尾の「わ」が「輪」になることとも呼応しているような、いわば民主主義の理想が、植物図鑑という一冊の本として可視化された。

万太郎は青年期、一瞬、自由民権運動にハマった際、植物と人間を重ね合わせて考えるに至ったようであったが、活動の挫折によって停止した万太郎の思考が再び動き出した要因は寿恵子との出会いであろう。


寿恵子に出会い、焦がれ、結婚して、子供を成し、彼らに想いや願いをこめて名前をつけたことで、はじめて万太郎は、人間の名前の大切さを知ったのではないか。万太郎が寿恵子に出会っていなかったら、ほんとうにただの植物に夢中なだけで、お金遣いの荒い、良識のない人物で終わってしまったかもしれない。

万太郎のモデルである、稀代の植物学者・牧野富太郎の、自叙伝や評伝などを読むと、実家が豪商だったため、金遣いが荒く、実家の家族や、妻に対しても、自分のやりたいことに資金や労力を提供してくれる人のように思っていただけのようにも感じる。そのため、牧野富太郎をモデルにしてドラマを作ったとき、視聴者が嫌悪感を抱く人物になる可能性もあったと想像する。

人間誰もが清濁併せ持っているという真理を描くことは意義深いとはいえ、実家の経済状態を危うくさせ、妻が働き、子沢山の家計を守るなか、植物研究に没頭していたという、いささか変人的な人物が、朝ドラとして面白く愛される人物になるのか。すると、記録として残っていないが、当人は、家族ーーとくに妻にとても感謝して、愛していたのではないか、という作家の想像力の翼を思いきり広げた物語になった。おそらく、その根拠は「スエコザサ」であろう。妻の名前をつけた植物とは何にも勝る愛情表現である。ドラマでは、出来上がった図鑑に、最後に1ページ、スエコザサを加えているのが実に劇的だ。

「愛の花」に「言葉足らず」という歌詞があるが、万太郎は不器用で言葉足らずなだけだったのだという面を、ドラマは思い切り描いた。残っている牧野富太郎の満面の笑顔の写真から感じる、こんなに植物が好きなのだし、マイペースながら、困難を乗り切ってきたことには、当人の人柄が作用しているうえに、ほんとはきっと家族や隣人愛にも溢れていたのではないかという希望をドラマは描いてくれた。歴史上、悪いと言われていた人がじつはいい人だったというドラマは視聴者の大好物である。ほんとは、いやな人だったというドラマはやはりあんまり観たくないものだ。

また、内助の功も視聴者の好物であるが、『らんまん』では夫のために妻が自己犠牲を強いられるようには描かれず、寿恵子は常に自分を主体に生きている。万太郎が必ず成し遂げる人物だと信じて励まし続け、そのおかげで万太郎がどんなに困難にあっても挫けなかったようにドラマは描かれている。そのため、寿恵子は途中、自分の期待のせいで万太郎が苦悩しているのではないかとも心配する。最終回では、自分が死んでも泣き続けず、植物に会いにいってと願う。植物と触れ合っているときと、家庭に戻ったときの万太郎は別で、家庭では寿恵子が最上級であるという自信を持ち続けた寿恵子。だからこそ、まったくめそめそと湿っぽいところのない、からりと明るく、仲のいい夫婦関係だった。

物語を盛り上げるためとはいえ、誰かが亡くなることに注目させる流れには時々、疑問を感じるのだが、寿恵子が亡くなる流れをさらりと描き、その前に万太郎もまたすでにいないことを時制を入れ替えて描き、亡くなったあとも万太郎の残した膨大な研究と、寿恵子の出汁の味の親子丼などで、彼らの気配を感じさせたところも上品だった。肉体は滅びても、思いは永遠だ。

(文=木俣冬)
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