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2023年09月03日08:52

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2023長崎の旅日記3日目


JR九州ホテル長崎をチェックアウトして荷物をフロントに預かっていただき、路面電車を利用して、クルーズの乗船所に向かった。軍艦島上陸ツアーは、連日国内外から多くの方が乗船しており、この日も外国のお客さんが参加していました。船内では、ガイドがオリジナルの資料をモニターに映しながら軍艦島の説明をするのです。

長崎港を出港して約40分、いよいよ軍艦島が見えてきました。黒い鉛の塊のように見える巨大なシルエットはまさに「軍艦」です。島内に上陸後は、安全と文化財保護の観点から、指定されたエリアのみを見学することになります。

軍艦島の大きさは新宿駅とほぼ同じサイズです。小さな島に、最盛期には約5300人もの住民がひしめき合うように暮らしていたというから驚きです。最盛期(昭和34年)の人口密度は東京都の約6倍です。世界一の人口密度で、この記録は現在も破られていないそうです。炭鉱の現場は24時間稼働の不夜城です。

より多くの人が生活できるよう、1916年には日本初の鉄筋コンクリート造りの高層アパートが建設されました。農作物を育てる場所がなかったため、アパートの屋上には日本初の「屋上菜園」が設けられました。神社もお寺もあるそうです。火葬はできません。

「端島小中学校」の跡。鉄筋コンクリート7階建てで、1階から4階までが小学校、5階と7階が中学校、6階には講堂、図書室、音楽室、7階には理科室などの特別教室があったそうです。世界一の人口密度だった軍艦島は、子どもの数が多く、島には子どもたちのためのプールもありました。

水源のない島のため、真水ではなく海水を使ったプールだったそうです。日本の近代化を支えた産業遺産として2015年、世界文化遺産に登録された軍艦島。閉山から40年以上経った今、実際にその現場に上陸してベテランガイドさんの説明に耳を傾けると、廃墟の中にも当時の様子を想像することができます。

レンガ造りの建物は、鉱山の中枢である総合事務所の跡。内部には炭鉱マンのための大きな共同浴場もあったそうです。坑道の内部はもちろん真っ暗で、気温30度、湿度95%。まるで岩盤浴のような環境の中で、ガス爆発や落盤など死と隣り合わせの危険な作業に従事していた炭鉱マンたち。「一度入ると二度と出てこられないかもしれない…。」

そんな思いを抱えながら降りるこの階段は、「いのちの階段」と呼ばれていたのだそうです。ただし、給料は非常に高かったようで、この島で働いていた方の話によると、給料は孫請の作業員でも県庁の一般職の2倍ほどです。また、全国的にテレビ普及率が25%だった頃、軍艦島のテレビ普及率は100%です。

他にも最新の電化製品などが多くの家庭で普及しており、しかもアパートの家賃は全て無料(会社負担)。軍艦島の人々は非常に豊かな生活をしていたようです。なんと100年以上も前に建てられた7階建てのアパートで、歴史を語るうえで重要な核となるものです。

中庭に吹き抜けの廊下と階段があり、採光や風通しに優れたモダンなデザイン。地下には売店もあったのだそうです。むき出しになった内部には、机などが当時のまま残されています。軍艦島(端島)は世界文化遺産「明治日本の産業革命遺産」の構成資産のひとつですが、世界遺産的な価値は島の礎であるこの護岸にあります。

明治時代、石灰と赤土を混ぜた「天川」と呼ばれる接着剤を使った石積みの護岸は、長い間波に揉まれながらも島を守り続け、特有の景観を形作っています。精選された石炭はこのベルトコンベアーによって貯炭場に蓄えられ、石炭運搬船へと積み込まれたそうです。「緑なき島」といわれた軍艦島ですが、今ではこんなに緑が溢れています。

廃墟かの地面から力強く生える草が印象的でした。船に乗り込み、往路とは反対側を眺め長崎港に戻ります。暑い中のクルーズとなりましたが、九州地方がすべてが雨なのに長崎だけが晴れて無事に上陸できたことはありがたい事でした。

長崎港からは路面バスを利用して平和公園に向かいました。近所の長崎生まれの友人が長崎に行ったら必ず居酒屋で食事をするべきだと教えてもらったのでお昼にやっている居酒屋に入りましたが、おいしくなかったかな。お店は狙いをつけていくべきです。

食事を済ませた後、平和公園に向かいました。平和公園に着いたとき、落雷が鳴り、小雨が降ってきました。なんか、涙なのかと思わせるようなタイミングでした。平和祈念像で黙祷しました。今はとても美しく整備された長崎の街が原爆の被害に遭ったなんて想像できません。立っているだけで汗が噴き出すくらい暑かったですが、小雨で冷やされました。

原版が投下された直後は焼き尽くす熱さはどれほどだったか。このあたりには原爆投下当時、長崎刑務支所があったそうです。建物は一瞬で消え去り、約130人の受刑者らが亡くなったのでした。曲がった鉄骨がいかに高温だったか物語っています。爆心地公園は、70年は草木も生えないと言われたことに抵抗するように草木が生い茂っていました。

原爆資料館ではガイドさんをお願いして説明を聞きました。浦上天主堂の柱被曝当時の地層やお茶碗などの生活用具が砕け散った様子が見られます。今は涼を与えてくれる美しい川も当時は死体で埋め尽くされたそうです。平和公園の石碑に書いてあった油の浮いていても喉が渇いて水を飲んでしまったというのはこのことかと感じました。

この町内の方は防空壕にいた少女一人を残して全員亡くなられたそうです。資料館は、新しくて綺麗なミュージアムです。地下を利用した螺旋通路が美しい。投下時間で止まった時計。投下当時の街が再現されています。廃墟を見つめる浦上天主堂のマリア様の眼差しには言葉がありません。ファットマンのレプリカ。こんなに小さな爆弾一つで…。

本当に恐ろしい兵器です。爆心地側の部分が熱線により焼けた橋げたなど原子爆弾によって破壊された建物の一部が移設されています。原子爆弾の悲惨さ、凄惨さがダイレクトに伝わってきます。やはり本物の存在感は圧倒的です。広島の広島平和記念資料館にも設置されていました。パネル展示のみならず、動画による映像展示も充実していました。

特に、戦後の先進国による核兵器開発競争が加速化し、核兵器実験の様子、核兵器弾頭数が加速度的に増殖している様子。日本の2発の原子爆弾の悲惨さは、まったく核開発競争の抑止につながらなかったという歴史的事実があります。ニュースで核について今も見聞きしますが、その核の実態はこの惨状。子どもたちには心に留めておいてほしいです。

平和公園の後は路線バスでJR九州ホテル長崎に向かいました。長崎空港へ行くリムジンバスの時間はまだなので隣接しているデパートで涼みました。長崎空港は1975年に開港した世界初の本格的な海上空港です。昔からターミナルであり、ところどころ改修はしているものの、クラシックな空港であります。

手荷物検査入り口に異国情緒漂うあたりは何とも長崎らしいです。そして、青とか赤が飛んでいるのに手荷物検査場はソラシドエアーのためか緑色であります。空港はそこまで広くもなく、お土産屋さんもギュッとコンパクトなので疲れません。

JAL手荷物検査近くを歩いていると近藤という名札のついているJALの方に声をかけられました。「荷物をお預けになりますか」私が「機内に持ち込みますので必要ないです」というと「荷物を検査させてください」といわれ、重さを計っていた。7�圓世辰拭�「問題ないでしょう」というと家族のものも計らせて欲しいと言い出した。

「家族のキャリーバックも機内持ち込み用にしてわざわざ小さいものを購入したばかりで、ANAだが国内どこにいくのも機内持ち込み駄目だといわれたことはないし、国際線のシンガポール航空もルフトハンザも中華航空もこのバックを機内持ち込みで旅をしてきた」と話したのだが、冷酷な悪魔みたいな表情で「航空券を見せてください」「家族の荷物もはかります」と言ってきかない。

家族の鞄を計ったところ10�坩焚爾任靴拭�それでも機内に持ち込めないという。「なぜだ」というと「手荷物があるからです」という。「そんなこと言われたことがないJALだけの規則なのか」と言っても無言で他の人を呼んで預けられてしまった。最終便で帰り、次の日は早朝から仕事やバイト学校なので大変なので機内持ち込みにしていたのになぜ、理由もなくこのようなひどい事するのか。

お土産を購入してカバンに入れるスペースを開けていた。また、夜飲む薬も入っていた。JTBを通したためにJALになってしまった。この飛行機は乗るものじゃないと思った。協会関係の団体旅行も二度と使わないと思う。しかも、JALの飛行機は40分遅れて羽田に到着した。終電がギリギリのところ荷物がなかなか出てこない。

家族には疲れているのに悪いが重い荷物を持たせて電車の乗り換えは走らせた。キャリーバックのタイヤが破損した。楽しい旅行だったのに最後に長崎空港で罪人のような扱いをされ本当に嫌な思いをした。子供たちに嫌な思いをさせてとても申し訳なかった。

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