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2023年09月01日21:11

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関東大震災100年企画3 震災100年の日とZARDの9thシングルもう少しあと少し...リリース30周年を組み合わせた物語 ZARD坂井泉水が育った丹沢山麓秦野市を中心に旅する 2023年第12回目 8月20日(日)

 <関東大震災100年 海老名市、伊勢原市、秦野市の被害 ZARD坂井泉水が育った丹沢山麓を旅する 2023年 第12回目 9月4日に9thシングルもう少しあと少し...リリース30周年>

 関東大震災100年企画 ネス湖の成り立ち(前編)https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1985765579&owner_id=32437106
 ネス湖の成り立ち(後編)https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1985773740&owner_id=32437106

 ZARD坂井泉水が育った丹沢山麓を旅する 前11回目 7月23日(日)
https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1985655301&owner_id=32437106

 目次
・第1章 海老名市
・第2章 伊勢原市へ
・第3章 秦野市への旅
・第4章 震生湖へと繋がる今泉町の高台からの夜景
              

 今回は、1923年9月1日に起こった関東大震災100年企画と、1993年9月4日に発売されたZARDの9thシングル「もう少しあと少し…」リリース30周年記念を組み合わせた旅物語である。

 写真=シングルCDのジャケットが写った冊子 https://www.neowing.co.jp/product/NEOBK-2133692
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 もう少しあと少し…は、不倫をテーマに書き上げた作品である。歌詞を読み込むと、信頼していた人に裏切られ、放浪する若者像が見える。かつての恋人への思いから、自分の行き先にも迷いが生じ、過去へと引きずられていた。実に、日本史上最大の人的被害をもたらした関東大震災の被災者の気持ちとも通じるものがある。

 関東大震災は、房総半島沖から伊豆半島にかけてのトラフと呼ばれる地形が動いたことに起因する。トラフとは、深度6000m以内の海底の浅い盆地のことを差す。さらに深い地形を海溝という。関東大震災を引き起こした相模トラフは、総延長250km、およそ3分の2に相当する200kmに渡る断層が破壊されたとみられている。人の密集地、首都圏の全域に被害が拡大した。地震による10万5000人の犠牲者のうち、9万2000人は2次災害となる火災旋風の被害と推定されている。生活の基盤となる家を失ったのは200万人といわれている。

 写真 掲載元 THE SANKEI NEWS発生100年 関東大震災を知る https://www.sankei.com/article/20230620-MPLJZCCQP5P7DMT7B7FIDK3Q2U/?outputType=theme_nie
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 神奈川県中西部の海老名市、伊勢原市、秦野市にも、地震に伴い、建造物の破壊、土砂崩れによる、人的被害は後を絶たなかった。

 今回のたび物語は、心が折れた青年が、災害について学び、命の大切さに気付き、新たに一歩踏み出す様子を描く。

第1章 海老名市 
 
 主人公が始めに訪れたのは、相鉄線、小田急線、JR相模線が停車する海老名駅である。相模湾に面した小田原、都心の一等地新宿、今なお開発著しい横浜駅まで、電車一本でいける利便性から、商業地や住宅地として発展した。到着時間帯は午前8時50分、駅南側の商業施設ビナウォークの開店時間前、昼時若者やファミリー世帯が行き交う中、朝方掃除婦が、丁寧に箒と塵取りでごみを集めていた。静かな商業地を歩くと、昔の記憶が蘇ってくる。

 もう少しあと少しの冒頭の一節:「きまぐれな9月の雨に白い傘の少女がすれ違う。」

写真=MVの一幕
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 9月といえば、本州に張り出した高気圧が弱まる影響により、台風の直撃を受けやすい。雨の日は、さらに億劫な気持ちになりやすい。白い傘を差した少女に幻想を抱いた。

 続く歌詞:探してた行方 今はまだ知りたくない

 その傘を差した少女に対して、ふられた恋人の姿が合わさった。少女といえば、純粋で、思ったことを素直に吐き出す。成長するに従い、交友関係が複雑化する。
 
歌詞:あなたの揺りかごの中、そっと眠りたい。心に秘めた涙忘れ

 恋人に裏切られ、深く思い悩む中、白い傘の少女とすれ違い、心は昔に返っていた。

 あれから間もなく1年、9月の雨の日とは対照的に、この日は最高気温35度を超え、晴天に恵まれていた。ビナウォークを抜けて、住宅街の細長い坂をのぼること、台形の広場にいきついた。海老名市の史跡の一つ「相模国分寺跡」である。夜の盆踊り大会に備えて、テントが設営されていた。数人の係員が打ち合わせのため、着席している。広場の南側には、提灯が取り付けられていた。駅からのアクセスは、徒歩10分弱、周辺は住宅地に変わったものの、史跡は残したのである。

全国津々浦々点在する国分寺が作られる背景は、天平13(741)年の聖武天皇の詔による。海老名市発掘調査の所見から、8世紀中頃には創建されていたという。国分寺創建当時、相模国の国府は今の平塚市にあったことがわかっている。なぜ平塚市から離れた海老名に国分寺が設けられたのか、はっきりとした答えは出ていない。一説によると、関東地方の寺院建築に深く関わった壬生氏が高座郡周辺を拠点にしたことにあるという。海老名市と高座郡は隣接した自治体である。

 詳細 写真掲載元 海老名市  国指定史跡 史跡相模国分寺跡・尼寺跡 平成30年3月26日付け
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復元模型は、ビナウォークの中心部分に立てられた。昭和40年代の調査によると、国分寺のシンボルといえる城跡の高さは1m程の基壇上に建てられている。塔は古代建築学から復元すると七重で高さが65メートルと推定されている。

 広場には、丁度年配のグループ客が、数分に渡って、通りかかった。皆帽子をかぶり、マスクを外した状態で、手を振りながら、前を見据えて歩いている。朝早い時間、寺院巡りをしてきたのだろうか、海老名市は、古くからの文化を残しながら、駅前を中心に開発することにより、暮らしに便利な街づくりを実現した。

 青年の目的地は、国分寺史跡跡の目の前に位置する市の郷土資料館を兼ねた「温故館」である。大正モダンをイメージした白い基調の2階建ての建物は、周辺の住宅に溶け込んでいた。第1次世界大戦が終結した1918年(大正7年)に、当時の海老名村の村役場庁舎として建てられ、耐震強度を施し、修繕を重ねながら、105年のときを刻んだ。1982年(昭和57年)に、郷土資料館として新たに開館した。1923年の関東大震災の強い揺れや、第2次世界大戦時にも空襲による被害を免れ、海老名村から市へ発展した経緯を今に伝えている。2階の一室には、農機具が展示されていた。窓際には、昭和の高度経済成長期にはやった、タイプライターや電子計算機、レコードが並んでいた。
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令和の時代、音楽は配信ダウンロードへ、タイプライターや電子計算機は、メールやエクセルなどで代わりが利く。便利な世の中になったとはいえ、人も物も活発に動く時代、二酸化炭素の増加により、温暖化に拍車がかかった。昭和の流行ものを見ると、懐かしい気持ちを抱くようになる。

 サビの歌詞にも現れていた。

 「もう少し あと少し 愛されたい いけない恋と知っても」

 あなたの事を愛しつづけたい。でもそれは悪いこと、なぜならあなたは私を裏切ったのだから、と自問自答する。

 「もう少し あなたのこと 困らせたい この愛止められない」

 恋は時に魔法にもたとえられる。一度取り付かれると、相手のことを頭から離れられない。例え浮気をされて、憎くなっても、簡単に捨てられないのである。裏切られると、本来は嫌気がさすはずである。ところが魔法にかかったかのように、愛する気持ちが勝り、心は決して離れられなかった。

 魔法を説くには、気分を一新するしかない。そこで青年は、旅に出たのだった。今回「関東大震災100年」の企画展も開催中である。1階から入る際には、職員が来場者に挨拶し、丁寧にもてなしてくれた。職員には、企画展には紹介されていない内容まで教えてくれた。地震といえば、揺れによる被害と共に、火災や土砂災害など2次災害も懸念される。ここ海老名市では、1924年1月15日に発生した丹沢地震(マグニチュード7,3)の発生に伴い、大谷町では土砂崩れが発生したという。丹沢地震では、最大震度に関しては、山梨県甲府市の「6」だった。死亡者は19人、神奈川県中南部の被害が大きかった。海老名市の大谷地区は、周辺よりも一段高い場所に位置する。関東大震災により、地盤が脆くなったうえに、4ヵ月後に襲った最大規模の余震によって一気に崩れたのである。海老名市では、地震による古い寺院の倒壊、橋梁の崩落など、人々の日常を大きく奪った。100年前、最先端の建築技術を駆使して建てられた温故館は、歴史の悲惨さを如実に伝えていた。

写真=展示パネル
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  第2章 伊勢原市へ

 伊勢原市では、8月18日(金)から20日(日)の日程で、文化会館にて、シンポジウムが開催された。9月1日の関東大震災100年に向けて、防災・減災に関する取り組みを紹介し、当時の被害について、展示物を通して、丁寧に解説している。

 詳細 写真 掲載元 いさぼうネット シリーズコラム 歴史的大規模土砂災害地点を歩く コラム39 関東大震災(1923)による丹沢山地の土砂災害―秦野駅から震生湖周辺の土砂災害地点を歩くー
https://isabou.net/knowhow/colum-rekishi/colum39.asp


 伊勢原市で大きかったのは、地震に伴う揺れではなく、続く土砂災害だった。小田急線の伊勢原駅周辺は平坦地であるとはいえ、北へ行くほど傾斜がきつくなる。とりわけ、大山の麓へ行くと、一気に勾配が上がり、渓谷の中へと入る。

 古くから、鈴川によって削られた谷間に暮らす住民は、雨乞いの神を祭る大山詣での参拝客向けに、食事所や宿を提供していた。今なお門前町として栄え、土産物やと食事所を兼ね、観光産業によって、生計をたてている。1923年9月1日の震災時、地震の揺れによる被害は最小限にとどまった。傾斜地とはいえ、地盤が固く、倒壊した母屋は少なかったのである。最も恐ろしかったのは、地震による二次災害だった。大山の山腹では、揺れによる亀裂が入ったことに伴い、土砂崩れが発生していた。辛うじて谷間にとどまっていた岩や土砂が、雨の力によって一気に押し流された。9月12日から15日、震災の傷跡が残る関東地方に、豪雨が発生し、谷間の岩や土砂が、水の力によって流れ下ったのである。下流の人家の大部分である140戸が被害を受けた。一連の出来事は、関東大震災による二次被害「大山大津波」として記録されている。

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 講演会の中では、震災に伴う、流言卑語の拡大について取り上げられていた。差別の対象になったのは、朝鮮人だった。「朝鮮人が井戸に毒を入れた」、「避難中に一致団結して襲ってくる」と根拠のない噂が広がったのである。9月2日以降、内務省が戒厳令を出すと、自警団が結成され、朝鮮人を取り締まった。かつてペスト大流行したヨーロッパでは、不治の病の原因を魔女と決め付けていた。身寄りのないお年寄りを魔女として告発し、弾圧した歴史がある。関東大震災時、生活を奪われた人々の不満の矛先は、朝鮮人に向ったのである。神奈川県では、川崎・戸塚・茅ヶ崎・小田原で、虐殺の被害が明らかになった。9月3日から5日には、「朝鮮人暴動説」が虚報であると、政府が市民に自制を呼びかけていた。全ての日本人が、暴動説を信じていたわけではなかった。川崎市川崎区渡田では、小屋を設け、約180名の朝鮮人を保護し、押しかけた自警団と対峙した。正義感のある日本人の存在は、川崎市の資料にしっかりと記録されている。

一説によると、少なく見積もって数百人、最大で6000人が殺害されたという。1915年に起きた当時のオスマン帝国によるアルメニア人の砂漠への強制移住政策、第2次世界大戦時のナチス・ドイツによる、ユダヤ人の迫害と同じく、ジェノサイド(特定民族の弾圧行為)が起こっていたのである。震災から100年を迎えるにあたり、検証する必要に迫られている。

 さて、伊勢原市で残された資料によると、震災からおよそ2週間後の大雨により、隣の秦野市内でも甚大な被害が出た。同じく大山の麓に位置する蓑毛町、その西側の菩提町には、土砂崩れによって、家屋倒壊が起きた。駅南側の渋沢丘陵の1角に位置する千村町でも土石流が発生したものの、幸いにも人家が少なく、被害は確認されなかった。なお渋沢丘陵は、広くいえば、JR大磯駅の北側に位置する平塚市高麗山を含め、大磯丘陵に含まれている。

写真 掲載元 Cycling Wonder https://ameblo.jp/binetu-chunen/entry-11948573524.html
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 地震による地殻変動は、思いがけない恵みを我々にもたらした。秦野市の今泉町では、渋沢丘陵の幅250mに達する谷壁斜面の地すべりにより、市木沢がせき止められた。水の流れが途絶えたことにより、孤立した湖に変わった。地すべりの原因は、6,6万年前の箱根の大規模火山噴火に伴い堆積した軽石層である。そもそも震生湖付近は、丘陵地の中で、深く落ち込んでいる。地質調査によって、断層の存在が浮かび上がった。大磯丘陵には箱根火山・富士火山からの噴出物が数百mに渡り、厚く堆積していた。震生湖の地すべり土塊はほとんどが風化した火山砕屑物(テフラ)からなる。図13に示したように、秦野盆地と大磯丘陵の間には、東西方向に渋沢東断層が走り、50〜100mの撓曲崖が続く。大磯丘陵の震生湖付近には、北東−南西方向の柄沢北断層が認められた。最初に地質調査を行ったのは、学者でありながら、詩人としても名を馳せていた寺田寅彦だった。

写真=図13
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1930年に、震災後の湖を訪れ、「秦野に於ける山崩れ」と題した論文を発表した。一般の人々の印象に残りやすくするため、3つの句を詠んだ。3つの句のうち2つは、既に秦野市内で句碑として採用されていた。その一つ「山さけて なしける池や 水すまし」は震生湖湖畔の句碑になった。もう一つ「穂芒や 地震にさけたる 山の腹」は本町小敷地内の句碑になる。新たに2022年9月7日に、震生湖西側駐車場に、3つ目の句碑の建立を記念して、除幕式を行った。

 3つ目の句「そば陸穂 丸う山越す 秋の風」

詳細 写真 掲載元 寺田寅彦の句について タウンニュース 2022年9月16日付け
https://www.townnews.co.jp/0610/2022/09/16/642226.html
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 句碑の建立を働きかけたのは、2011年9月に結成された「南はだの村七福神と鶴亀めぐりの会」である。かつて合併前に存在した南秦野村の文化継承の目的を兼ねて、市の観光協会と協力し、新たな取り組みを始めた。旧南秦野村に存在した9の神社を巡り、10個のスタンプを集めるツアールートを策定する。それぞれの神社には、管理主の協力を得て、スタンプを設置した。普段無人の神社の敷地内のスタンプは、盗難防止のため、ダイヤル式ロックがかかった箱の中に収めていた。ツアー客向けに、御朱印マップを作成し、全10の神社に置かれたスタンプを集めると、完歩賞を贈る。完歩賞のストラップは、午後5時頃まで職員が常駐する秦野駅構内観光案内所や白笹稲荷神社、また出雲大社相模分祀などで受け取れる。団体の会員は、定期的に集り、清掃活動を行い、一般向けのイベントを主催する。市民の有志によって、文化がアピールされていた。

 さて、震生湖は、水深4mから10m、湖畔沿いに紅葉の木が育つ。釣り人と共に、ハイキング客が、静かな空間を共有する。釣り人をひきつけるのは、オオクチバスやフナ、コイやモツゴなどの魚類だった。静かな水面には、時折体調18cmのカワセミが、飛行する。地元の人々は、地震による遺産を後世に引き継ぐため、北側の崖地にスイセンを植えた。殺風景な冬場にも、力強く白色の花を咲かせる。秋には、湖畔沿いの紅葉の木の葉が色づき、静かな水面に映り込む。今ではインスタ栄えするスポットとしても注目されている。

 写真=震生湖のパネル展示 秦野歴史博物館 企画展「震生湖保存と活用の歩み」より  
7月15日(土)から9月24日(日)まで開催中
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 年代:写真左上から時計回りで記載、1970年、1980年、1989年、2012年12月6日、1986年、1971年、1934年

 写真=秋の震生湖 2021年11月28日(日)昼時私が撮影 掲載日記 https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1981034009&owner_id=32437106
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 観光名所と化した震生湖だが、悲しい歴史を秘めている。地震による揺れに伴い、柔らかい軽石から成る斜面は、一気に崩れた。当時小原地区に住み、南小学校に通っていた女子学生2名が、下校中、峰坂付近で土石流に巻き込まれ、命を落としたのである。二人の女子学生の死を悼み、1930年に慰霊碑が建てられた。四季折々装いを変える震生湖を旅すると、人々の犠牲のうえで成り立ったことを忘れがちになる。青年は、震災の悲惨を学び、次の地震へ備えるように意識した。


第3章 秦野市への旅

 3番目の目的地は、伊勢原市の西隣秦野市だった。向うのは、渋沢駅から北北西へ4,1kmに位置する神奈川県立はだの戸川公園、丹沢登山の玄関口でもある。畑に植えられたヒマワリがほぼ下向きに垂れ下がる中、サルスベリがしっかりと花を咲かせている。花言葉は、「雄弁」、「愛嬌」、「不用意」である。全て恋に絡む用語だった。言葉が達者で、にこやかな人程、相手をリラックスさせる。もちろん、不用意に自分の秘密をさらけだす、また約束時間を忘れることはデートにおいて禁物だ。花自体は、幹がつるつるして滑りやすいことから、縁起の悪さを指摘されている。仏教の言い伝えによると、お釈迦様が産まれた際、そばに咲いていた「無憂木」と似ているサルスベリは、鎌倉時代に信仰の対象になった。サルスベリの木はたった一本とはいえ、風のつり橋が背景になると、戸川公園らしさをアピールできる。

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橋桁の麓には梅の木が育つ。水無川を挟んで対岸の敷地を含め、モミジの木も生えている。梅の木も紅葉も、真夏は共に緑の葉を付けていた。お盆過ぎの夏の終わり、唯一ピンクの花をつけるサルスベリが存在感を放っていた。 

カメラを置いて、ふと耳を澄ますと、麓の水無し川から、小さい子連れの家族の声が聞こえる。階段では、水遊び目的のファミリー世帯が、行き来していた。失恋中の青年の胸にこたえた。

 Bメロの歌詞:「想い出の神戸の町で あなたへの手紙 したためています」

 思いをノートに書き込むことにより、確かに整理がつく。紙と鉛筆がない状態の青年は、心の中でペンを奮った。

 歌詞:「忘れようと 何度もしたわ その方が楽になれる」

 我々人の記憶は簡単には消せない。恋という魔法にかかった以上、つらい記憶との戦いでもある。

  歌詞:「追伸:あなたの生まれた家をみてきました。なんだか切なくて、懐かしかった」


 青年は、一端心の中のペンを置いた。標高340mの公園内は、程よい間隔で樹木がある分、幾分涼しく感じられる。地元の人々も、マスクをせずに、散策していた。緑一色の世界で、白い綿のような房をつけたイネ科のシロガネヨシ(別名:パンパスグラス)が、力強く葉を伸ばしていた。花言葉は「光輝」、その他「風格」と「歳月」である。太陽光を受けて、黄金色に輝く姿から、気品さえ感じられる。花期は8月から10月まで2ヶ月にわたる。花言葉のように、歳月を経ても、優雅な姿は、人々の目をひきつける。緑一色の草地でひときわ背が高く、風にも負けず、しっかりと根を下していた。

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 戸川公園の次に向うのは、同じ水無し川沿いの、標高が一段低い場所に位置する「秦野歴史博物館」である。

 関東最震災100年、震生湖誕生100年の企画展を開催していた。関東大震災の直後の様子について、市内の名古木在住の歌人、大木良(1898年から1927年)が詳細に記録していた。余震に警戒しながら、生活再建を行う中、1923年11月に罹災記を発行している。
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 市内で最も被害が大きかったのは、秦野駅北側の本町地区である。牛舎に火がつき、見る見るうちに周囲を焼き尽くした。白黒写真ながら、焼けた後の生々しい傷跡を刻んでいる。生活を奪われ、途方に暮れる人々と、帰る家がある自分との境遇はどうなのか、改めて考えさせられる。職員から、展示物に関して、質問するうち、気持ちも変わってきた。100年前の出来事を身にしみて感じながら、博物館を後にした。

第4章 震生湖へと繋がる今泉町の高台からの夜景

 夕暮れ時、秦野駅南口から、震生湖の方へと向った。通り沿いでは、先月と同じく、サルスベリが花を咲かせていた。開花期間は100日、6月中旬から10月に跨る。アジサイやヒマワリ、コスモスなど、地面から茎を伸ばす鮮やかな花に注意が向いていると、街路樹として植えられるサルスベリを意識しなくなる。我々ヒトは単体で咲く花よりも、桜やツツジに代表されるように、まとまって咲く花に目を奪われてしまう。今の青年は、過去の出来事と現在(いま)を重ねあわせるうち、些細な植物相の変化まで見えてくる。

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住宅街の緩やかな斜面を登り、秦野桜道を跨ぎ、農地が広がる渋沢丘陵の高台を登った。標高190mの尾根沿いは、秦野盆地を一望する格好の眺めの良いスポット、尾根を挟んで、すぐ南は震生湖である。陽が落ちて、薄暗くなる中、18時42分から始まるトワイライトが迫るにつれて、青年の旅もいよいよゴールである。

 一月前と同じく、農道にはヒマワリが咲いていた。種の植え付け時間によって、開花時期にもずれが生じる。

 ヒマワリの数的には多くはない。背景の標高1000mを越える丹沢山塊の峰々の麓の町と合わさり、絵になるような光景である。青年は、秦野盆地から瞬く明かりによって、心が吸いこまれていくような感覚を抱いた。

 Bメロのサビの歌詞:「もう少し あと少し そばにいたい かなわぬ夢と知っても」

 正直、あなたとずっと一緒にいたかった。それが現実的には難しいとしても。心の中で手紙をしたためた青年は、素直に秦野の町に向って、思いを叫んだ。

 続く歌詞「そう少し あの女性(ひと)より 出遭う時が 遅すぎただけなの」

 写真=18時46分
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  進学や就職、恋にしろ、タイミングによって決まってしまうこともある。いくら上手く事が運ばなくても、運命は受け入れるしかなかった。100年前の震災の出来事を学んだ青年には、それが出来る。なぜなら未来があるからである。

 写真=もう少しあと少しのMVの一幕
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  100年前に襲った関東大震災によって、10万5000人の尊い命が奪われた。日本でも、朝鮮人に対するジェノサイドが起こったことを忘れてはならない。過去の教訓から、9月1日を防災の日と定め、小中学校を中心に、避難訓練を行った。
過去の歴史を紐解くと、地球が活動している限り、地震や火山噴火は、必ず起こる。今の科学技術では、火山噴火の予兆をつかめても、地震の兆候は検出できないのである。唯一の対策は、備えである。予め避難場所を把握し、日ごろから備蓄品を確保する。家具を固定し、懐中電灯を取り出す。地震後の停電でも、懐中電灯さえあれば、暗闇でも最低限の行動は出来る。また、在宅避難にも仕える食卓用の頑丈なテーブルに飛び込み、落下物から身を守ることも必須だ。自分の住んでいる地域の地盤や火災の危険性について知ることにより、対策を練りやすい。地震と共に歩んできた日本人は、生活を破壊されても、再建してきた歴史がある。物語に描かれた青年も、秦野盆地の夜景を眺めながら、確かな足取りで、歩き出した。
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