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2023年09月01日08:57

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憲さん随筆アーカイブス 杉田水脈の差別的言辞を擁護する新潮社に天誅くだる! “天誅アート”最高\(~o~)/

フォト


※画像はくだんの天誅アート

※この随筆は2018年9月25日に執筆したものに加筆修正しました。

憲さんの出生地は東京都新宿区箪笥町で、旧本籍地でもある。

その場所に行くには、大江戸線の牛込柳町駅が出来る前は東西線神楽坂駅が最寄り駅であり、そこから歩いて行ったものである。

その道すがら、矢来町を通るのだがそこに件(くだん)の出版社がある。

いま世間を騒がせている新潮社だ。

参考

【新潮社】
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E6%BD%AE%E7%A4%BE

その新潮社の看板が狙われたようだ。

詳しくは以下のニュースにて。

「あのヘイト本、」Yonda?とラクガキ
https://m.huffingtonpost.jp/2018/09/23/shincho-yonda_a_23539497/?utm_hp_ref=jp-homepage

これについては憲さんもこの落書きはアートであり、さらには新潮社に対する天誅だと快哉を送りたい。

落書きはだいたいは見るに耐えない不快な犯罪行為であるが、場合によっては弱者によるやむにやまれぬ自己主張となる。

そもそも新潮社は月刊誌「新潮45」10月号で、同性カップルを念頭に「生産性がない」などと主張した杉田水脈衆院議員(自民)の寄稿を擁護する特集を掲載している。

参考

【杉田水脈】
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%89%E7%94%B0%E6%B0%B4%E8%84%88

憲さん随筆
差別主義者杉田水脈を国会から叩き出せ! 政務官に任命した岸田も同罪だ! 今こそ岸田内閣倒閣運動を!
https://hatakensan.cocolog-nifty.com/blog/2022/11/post-65e8ce.html

杉田の主張もとんでもないものだが、それを擁護する小川榮太郎の論調はさらに読むに耐えないものである。

参考

【小川榮太郎】
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E5%B7%9D%E6%A6%AE%E5%A4%AA%E9%83%8E

不快だが以下小川榮太郎の寄稿文「政治は『生きづらさ』という主観を救えない」より抜粋する。

「LGBTの生き難さは後ろめたさ以上のものなのだというなら、SMAGの人達もまた生きづらかろう。SMAGとは何か。サドとマゾとお尻フェチ(Ass fetish)と痴漢(groper)を指す。私の造語だ。ふざけるなという奴がいたら許さない。LGBTも私のような伝統保守主義者から言わせれば充分ふざけた概念だからである。
満員電車に乗った時に女の匂いを嗅いだら手が自動的に動いてしまう、そういう痴漢症候群の男の困苦こそ極めて根深ろう。再犯を重ねるのはそれが制御不可能な脳由来の症状だという事を意味する。
彼らの触る権利を社会は保障すべきでないのか。触られる女のショックを思えというか。それならLGBT様が論壇の大通りを歩いている風景は私には死ぬほどショックだ、精神的苦痛の巨額の賠償金を払ってから口を利いてくれと言っておく。」

以上、引用終わり。

こんなまともな人間の発言とも思えない、創造力が欠如した愚にもつかない文章を天下の新潮社が、それも開き直った見出しで掲載するのだから、世も末である。

今回のこの天誅を機に新潮社は猛省すべきではないだろうか?

どーよっ?

新潮社?

どーなのよっ?

※画像は新潮社の看板にかかれた天誅アート。

最高\(~o~)/

※この騒動の後、新潮社は問題となった雑誌「新潮45」を廃刊にした。

※参考までに、東京新聞に載ったこの問題について論じた中島岳志先生の論考を採録しておく。

LGBT問題は文学か政治か 法制度で困難は解消 中島岳志
https://www.tokyo-np.co.jp/article/3328

2018年10月24日
 『新潮45』10月号が組んだ特集企画「そんなにおかしいか『杉田水脈』論文」が社会的な批判を浴び、休刊が決定した。中でも小川榮太郎「政治は『生きづらさ』という主観を救えない」は、LGBT(性的少数者)への差別と侮蔑を含んでいるとされ、大きな問題となった。
 小川はLGBTの生き方を「痴漢症候群の男」と対比し、彼らの「困苦こそ極めて根深かろう」と揶揄した。また、LGBTの権利を保障するのであれば、痴漢症候群の男の「触る権利を社会は保障すべきではないのか」と挑発した。さらに「LGBTという概念については私は詳細を知らないし、馬鹿(ばか)らしくて詳細など知るつもりもない」と一蹴した。
 これに対して、『新潮』編集長の矢野優は、同誌11月号「編集後記」で、小川の文章を「人間にとって変えられない属性に対する蔑視に満ち、認識不足としか言いようのない差別的表現だと小誌は考えます」と断罪。同じ出版社が刊行する雑誌からの批判は、この問題の深刻さを浮き彫りにした。
 武田砂鉄は『文学界』11月号に掲載した「時事殺し−第三十三回『きちんとした文章』で」の中で、小川の文章は無理解への傲慢な開き直りに依拠しており、まったく「論」になっていないと突き放した。そして、「人間の痛みを知らない人、知ろうともしない人、どこかで痛む人が生じるかもしれないと想像できない人は、公の場で文章を書くべきではない」と論じた。
 その通りである。小川の文章はLGBTへの差別以外の何物でもない。多くの批判を受けるのは当然であり、この文章を掲載した『新潮45』関係者の責任も重い。
 小川はLGBTの問題を「国家や政治が反応すべき主題などではない」とし、「文学的な、つまり個人的、人生的な主題である」としている。そして、「政治は個人の『生きづらさ』『直面する困難』という名の『主観』を救えない」、「いや、救ってはならない」と述べ、「政治の役割は生命、財産、安全のような、人生の前提となる『条件』を不当な暴力から守る事にある」としている。
 このような政治と文学の居場所を明確に峻別するあり方は、保守派の文芸批評家として活躍した福田恆存(つねあり)からの影響によるものだろう。
 福田は一九四七年に「一匹と九十九匹と」という文章を書いた。福田曰(いわ)く「政治と文学とは本来相反する方向にむかふべきものであり、たがひにその混同を排しなければならない」。政治は多様な人間が共存していくための利害調整であり、より多くの人が幸福を追求できる環境を整えようとする。しかし、いくら良い政治が行われていても、それでは救われない「失せたる一匹」が存在する。健康の心配もなく、経済的余裕も手に入れたが、それでも生の苦悩から解放されないという人は存在する。いくら環境や条件が整っていても、存在自体の悲しみからは自由になれない。
 そんな根源的な苦悩に苛(さいな)まれた「一匹」に対して、政治は無力である。いや無力でなければならない。政治が「一匹」の苦悩を救済しようとすると、人間の心の領域を支配することになる。それは全体主義を生みだしてしまう。政治は自らの限界に自覚的でなければならない。絶望の淵をさまよう「一匹」を救うことができるのは文学である。「文学者たるものはおのれ自身のうちにこの一匹の失意と疑惑と苦痛と迷ひとを体感してゐなければならない」
 小川は、このような福田の議論の上に立って、「政治は『生きづらさ』という主観を救えない」と主張しているのだろう。福田の政治論・文学論は重要であるが、それをLGBT問題全般に援用する小川の論法は、明らかな飛躍を含んでいる。
 LGBT問題は個人の主観の問題と言い切れるのか。文学だけが担うべき領域なのか。
 断じて違う。LGBT問題に取り組む人たちの多くは、政治的課題としての法制度の整備を要求しているのだ。政治に対して「生きづらさ」そのものの救済を求めているのではない。「人生の前提となる『条件』」の整備を求めているのである。
 「性的指向および性自認等により困難を抱えている当事者等に対する法整備のための全国連合会」は二〇一五年に「LGBTの困難の事例リスト第2版」を発表している。そこで示された困難の多くは、行政機関や事業者がLGBTのことを理解し、差別なく適切に対応することで解消されると考えられる。当事者が求める「LGBT差別禁止の法制度」は、日本国憲法で保障されている国民の幸福追求権を要求しているのだ。
 LGBT問題を政治から切り離し、文学の問題へと還元することこそが、恣意的な政治である。小川の文章は、差別表現だけが問題なのではなく、その主題においても間違えていると指摘しなければならない。
(なかじま・たけし=東京工業大教授)

以上

※さらに小田嶋 隆氏のこの問題についてのコラム

「新潮45」はなぜ炎上への道を爆走したのか
https://business.nikkei.com/atcl/opinion/15/174784/092000159/
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