第一次世界大戦の原因論やその前史に関しては、現在までに膨大な量の研究史の積み重ねがありますが、そうした中で特に多くの刺激を受けたのがポール・シュレーダーの論文です。彼によれば、1914年にヨーロッパの平和・安定を維持していたシステムを崩壊させたのはオーストリアとハンガリーでした。
そしてオーストリアをシステム安定勢力から破壊勢力へと変えさせた要因について、第一にオーストリア自体の国内的衰退、第二にドイツの世界強国になるための政策、そして第三にヨーロッパ・システムを維持する勢力としてのイギリスの政策、の三点をあげています。この第三の要因は大変ユニークな指摘です。
シュレーダーによれば、イギリスはオーストリアがもつヨーロッパにおける真の機能とオーストリアのイギリスにとっての有用性とを理解しなかったのです。それ故に、「イギリスは、フランスと協力してその影響力を行使できたにもかかわらず、何もしなかった。」
「つまり、バルカンのバランス・オブ・パワーを維持し、またオーストリアやロシアやバルカン諸国を抑制することによって、オーストリアの存続を助けることを通じて1914年の危機を救えるはずであったが、何もしなかった。」のです。
こうして彼は、イギリスの責任を指摘します。なぜなら、1914年にオーストリアは、武力によって自らの崩壊に抵抗することを決定したからです。とは言え、シュレーダー自身もなにもイギリスだけを糾弾するわけではないのです。
「根本的な問題は、すべての国が、オーストリアの崩壊がヨーロッパ・システムにとって脅威となることを認識したにもかかわらず、誰もそのことに対して何もしなかった。」ことなのです。
本書の中でも指摘しているのが、イギリスの第一次世界大戦への参戦は不承の参戦であったし、さらに8月3日の参戦決定も閣内で充分に議論された上での決定とは言い難いものでした。同じ日にグレイ外相が下院で述べたのは。
「もしイギリスが、自国の通商・国土・利益を守るために戦争に参入するのなら、イギリスは傍観する時よりもほんの僅かの損失を受けるだけである。」というグレイ自身の認識の甘さが、そのまま大戦勃発10〜15年前のイギリスのヨーロッパ国際関係に対する認識そのものであったと言ってよいでしょう。
そして重要なことは、このイギリスのヨーロッパ国際関係に対する認識の甘さと、先のシュレーダーの見解が明らかにすることの両者が、同一の延長線上にあるということです。つまりイギリスのバルカン問題に対する無関心と誤った認識とが、ヨーロッパ国際関係の悪化に多大な影響を及ぼすことになったのです。
本書も基本的にはこの考え方の上に立ち、第一次大戦前のイギリス外交政策の再考察を試みています。本書のいまひとつの試みは、ドイツとの関係の考察です。第一次世界大戦はヨーロッパ大陸内においては、イギリス・フランス・ロシアの三国協商に対してドイツを中心とする三国同盟との対立として一般的には理解されています。
そしてこの対立は、19世紀末〜20世紀初頭にかけてイギリスの外交政策が、《ドイツとの同盟交渉(1898〜1901年)→その失敗→フランス・ロシアとの接近→三国協商の成立→三国協商対ドイツの対立→第一次大戦の勃発》と直線的に解釈される事によって、ドイツとの同盟交渉の失敗があたかも大戦勃発の大きな要因として強調される事なりました。
しかしながら、イギリスにとってドイツとの同盟交渉の失敗だとか、あるいはそもそもドイツにその意志がなかったといった問題は、実は第一次大戦の原因の考察に関してはあまり重要ではないでしょう。第一次大戦に至るイギリスとドイツの対立は、むしろイギリス自身の問題に起因しています。
イギリスはこの時期に「帝国の防衛」という目的のためにロシアやフランスとの和解を必要としました。そして両国との和解を維持するために、イギリスは結果的にドイツと対立してしまったのです。
つまりイギリスは、ドイツの脅威に直面して、ロシアやフランスと和解し協商を結んだのではなく、ロシア・フランスとの和解の結果、ドイツと対立してしまったのです。イギリスにとって、ドイツとの対立はしたがってフランス・ロシアとの和解の代償なのでした。
そしてイギリスのこうしたロシアやフランスと和解を求める外交政策は、19世紀から継続するものでした。イギリスはこの世紀転換期に、ヨーロッパ大陸諸国との何らかの理解をつねに模索していました。その際のキーワードは「帝国の防衛」でした。
この目的のためにイギリスは、平和時の同盟を拒否し、将来の戦争へのコミットメントを回避してきました。そしてイギリスの歴代内閣で慎重に考慮されたこの政策が、後の時代に「孤立政策」と呼ばれることになったのです。
つまりこの時期に、そもそも孤立政策など存在しなかったのです。そして継続性の強調は、「孤立政策」そのものの実体性を否定することでもありました。したがって、この時期をもって特に「孤立政策」から「同盟協商体制」へとイギリスの外交政策が転換をしたとみなす見解は、否定されるのです。
「日英同盟」協約交渉におけるイギリスの外交政策の考察ですが、1902年の「日英同盟」協約を、「反ロシアではない協定」と定義しています。外務省文書や内閣文書に基づいた1960年代以降の諸研究が、ソールズベリが単なる頑固な孤立主義者ではなかったことを明らかにしたが、彼は1890年代を通じて、ロシアとフランスとの協調の機会をつねに窺っていたのです。
1902年1月末に成立するこの協約においても、ソールズベリ内閣は、日本との交渉に先がけてロシアと交渉を行っていました。結果的にはロシアとの交渉が失敗したことをうけて、内閣は本格的な日本との交渉に入ったのです。
しかしこのことは、イギリスが東アジアにおいてロシアと敵対することを意味するものではなかったのです。イギリスにはその意思はなかったのです。日本との同盟交渉は、決して「反ロシア」ではなく、「反ロシアではない協定」の模索の結果なのでした。
日本との交渉よりも優先されたロシアとの直接交渉も、また日本との「反ロシアではない協定」の交渉もともに、1898年1月にソールズベリによって始まる東アジアに関する一連の交渉の中に位置づけられますが、「スコット=ムラヴィヨフ協定」(1899年4月)にみられるように、ロシアとの何らかの相互理解を求めた結果でした。それが、19世紀末のイギリスの伝統的外交政策だったからです。
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