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2023年07月08日10:39

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三田慶應義塾の亡霊? 綱坂の怪談!

フォト


※画像は現在の綱坂

憲さんの仕事仲間で大田区西馬込に在住の西馬込の主、エンタカ氏から興味深いリポートが届いたのでここで紹介する。

以下・・・。

あれは確か4月の頭くらいの頃だったかな、仕事で谷中に行く途中いつもの国道1号線沿いの慶應義塾大学裏のちょとした近道ルート。
イタリア大使館なんかが有るちょと寂しい道。
いつも決まって車で通ってる。
その日は5時過ぎに家出てその場所を通過するのは早くて15分後くらい。暗い横断歩道で人らしき姿が数十メートル前で見えた。

アレ?

こんな時間に人が横断するのは珍しいなぁ‥
と違和感を覚え、人が横断した後ろ姿を何気なくみようと車で通り過ぎ様に左方向を見ると誰もいなかった。
ほんの一瞬の出来事。
そばには慶應中等部の擁壁があり、もしや小扉みたいな入り口に入ったのかな‥

次の日も同じ場所を通る。
気になったのでわざわざ車を止めて小扉みたいなの有るか確かめる。
しかしそんな物は無く、横断した人が見えなくなるシチュエーションでは全く無い。

そういえば‥
今思えば人影にも違和感があった。
例えばトトロに出てくる真っ黒クロスケが全身にまとわりついている様な普通の人影では無かった…
なんとも言えない影が薄く感じでざわついてる感じだった。

三田慶應義塾の亡霊ドクロ

今、貴方の後ろにも亡霊がいるよ‥

以上、レポート終わり。

机上検証しよう!

ここでエンタカ氏が言う「慶應義塾大学裏のちょとした近道ルート。イタリア大使館なんかが有るちょと寂しい道」とは綱坂のことと思われる。

参考

【綱坂】
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E7%B6%B1%E5%9D%82

「暗い横断歩道で人らしき姿が数十メートル前で見えた」とある。

綱坂とは厳密にいえば慶應義塾大学三田キャンパスの西門の先から始まり、車は北に向かう一方通行の道(坂の手前までは両方向通行)であり、中程に右手にイタリア大使館、左手に三田綱町三井倶楽部の壁を見て、綱の手引き坂にぶつかる坂道である。

ここにある「横断歩道」は坂の麓にある慶應義塾大学三田キャンパスの西門と慶應中等部をつなぐ横断歩道、さらにその少し先の慶應中等部と三田綱町三井倶楽部の間の道に左折する道路の先にある坂の始まりの横断歩道である。

「そばには慶應中等部の擁壁があり」とあるからおそらく前者の横断歩道と思われる。

そこでその横断歩道付近を見てみよう。

参考

坂道散歩(綱坂)
https://youtu.be/kc5Ulj31CZ0

確かにその横断歩道の左手は慶應中等部の正門があり、正門が閉ざされていればその前後は低い擁壁で人が消えていく余地はあるまい。

では、エンタカ氏がみたのは何者であったのだろうか?

氏の言う「三田慶應義塾の亡霊」なのであろうか?

確かにその横断歩道は慶應義塾大学三田キャンパスと慶應中等部を結ぶ横断歩道である。

氏が言う事が本当ならその謎の御仁は慶應義塾大学から慶應中等部に向かい、そして消えていったのであろうか?

そこでネットで調べてみたが「綱坂」にまつわる心霊話はヒットしなかった。

三田にはその名もズバリ「三田の幽霊坂」という坂が四丁目に存在する。

参考

【三田の幽霊坂】
https://tokyo-trip.org/spot/visiting/tk1053/

この坂は寛永12年(1635年)、江戸城の拡張の際に移転してきた寺により、寺町が形成され、昼なお暗いことが名前の由来とも言われているが、幽霊坂ではなく、本来は文部大臣・森有礼(もりありのり)の屋敷が近くにあったため、有礼坂だったものが幽霊坂に転訛したという説もある。しかし、江戸時代からあった坂道で、墓地を見ながら昼なお暗いということで、幽霊坂の名が自然発生したと考えるのが定説となっている。

この坂ではまことしやかに現在でも幽霊が出るとの噂があるそうだ。

参考

三田の幽霊坂で起きた心霊現象
https://ghostmap.net/spotdetail.php?spotcd=3241

しかし、この坂は綱坂から約500メートルも離れており、今回の現象はその心霊話とは違うものであろう。

ではエンタカ氏がみた「真っ黒クロスケが全身にまとわりついている様な普通の人影では無」いものとは一体なんなのであろうか?

そのヒントはやはりエンタカ氏のレポートの中にあった。

それは「イタリア大使館」である!

歴史好きの方なら御存知のとおり、現在のイタリア大使館はかつて伊予松山藩の松平定直の屋敷があった場所である。

この土地は赤穂浪士が吉良邸討ち入り後、大石主税(内蔵助の長男)や「高田馬場の決闘」で有名な堀部安兵衛ら10名がこの屋敷に預けられ、元禄16年(1703年)に切腹を遂げたところである。

参考

【大石主税良金ら十士切腹の地】
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E7%9F%B3%E4%B8%BB%E7%A8%8E%E8%89%AF%E9%87%91%E3%82%89%E5%8D%81%E5%A3%AB%E5%88%87%E8%85%B9%E3%81%AE%E5%9C%B0

ちなみに父親の赤穂藩国家老の大石内蔵助はそこから少し離れた現在の東京メトロ白金高輪駅近く高松中のある旧肥後熊本藩江戸下屋敷で最期を遂げている。

参考

【大石良雄外十六人忠烈の跡】
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E7%9F%B3%E8%89%AF%E9%9B%84%E5%A4%96%E5%8D%81%E5%85%AD%E4%BA%BA%E5%BF%A0%E7%83%88%E3%81%AE%E8%B7%A1

ということで、エンタカ氏が見た得体の知れない人影とは大石主税ら赤穂浪士10士の亡霊の可能性が高い。

彼らは未だ、成仏できずにさ迷ってるのだ!

おそらく、最期を遂げた土地でさ迷い続け、たまに隣の敷地に散歩に出かけるのだ!

ちなみにその「得体の知れない人影」が入っていった慶應中等部の土地というのは、松平肥後守、すなわち会津藩の下屋敷であった。

彼ら、元禄の泰平の時代にテロリストとして本懐を遂げ若くして果てた大石主税などがまだ現世に未練を残し、幕末期における「御一新」のスケープゴートとして薩長の暴虐を一身に受け破滅した会津藩の武士らに対し、「同類相憐れむ」と朝な夕なに出かけては亡霊同士で語り合っているのではなかろうか?

憲さんはそう考える。

江戸、そして東京。

そこは、その土地に住み着き生活していた人々の情念が深く織り込まれている土地柄でもあるのだ。

なので、そのような不可解な現象が起きても不思議ではないのだ。

憲さんはそう考える。

どーよっ!

どーなのよっ?
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