私は漫画や小説、記録資料など分野に関わらず本が好きです。
海外作品などを見ていると、同じ作品で複数の出版社・翻訳者の
手による作品が販売されていたり、同じ翻訳者による「新訳」等、
翻訳者の技量や考え方・想いによって作品の印象が非常に変わります。
それと、逆に日本の映像作品の海外字幕を見ていると、
「こんにちは」「ごきげんよう」「ちは」「よう」などの言葉が
「Hello」で済まされていたりするので、翻訳は単純なんだな
と思うのですが、映像なのでそれで済んでいるのでしょうが、
小説で言葉一つで発言者の立場、上下関係、
親密度を計れる日本語を英語意訳するのは大変だと思います。
そんな中、クーリエ・ジャポンの記事によると、欧米の出版業界では
近年、名作文学で使われている差別表現の削除や変更が
広くおこなわれていて、それは、現代の倫理観に合わせた
「アップデート」なのだそうです。
当然「作者の意図や時代背景を無視した画一的な修正」と言う批判が出てきて、
ファンや作家、遺族まで巻き込んだ大論争になっているとの事。
名作と呼ばれる文学作品を、
現代の価値観に合わせて修正するのは
許される行為なのか?と言う所が論点なのだそうです。
記事のサンプルに上がったアガサ・クリスティの作品では、
「東洋人」「ジプシー」などの表現が削除され、
イアン・フレミングの『007』シリーズでは、
人種や性に基づく差別表現が修正されました。
ロアルド・ダールの作品は児童書も多い為に、結構削除されている様子。
映画にもなった『チョコレート工場の秘密』では「太った」「醜い」
などの容姿や登場人物の性別や肌の色に関する表現が一掃されているとの事。
近年は、現代人が不快に思うような語句を画一的に削除する場合が多く、
名作文学へのこうした修正が批判の対象になっていて、
原作者の意図を守りながら多くの読者の共感を獲得、
作品を売り続けるににはどうすればいいか─と言う妥協点が論争の
主戦場で、善意の修正が「検閲」に化けてしまった例も多々あるようです。
こう言った検閲(敢えて)は翻訳作業に似ていると思います。
それとも、オーケストラの指揮者のアレンジとか、
ホルストの「惑星」のカラヤン版、小澤征爾版みたいな感じでしょうか?
まあ、それでも脱落した語彙は補いきれないのでしょうが。
なので、根本的な解決にはなりませんが、制限付き販売の原書版の他、
複数の検閲者(敢えて)版の作品を出して購入層に合わせた販売をすればいいかと。
根の深い問題だけに解決は長引くと思いますが、
現在の妥協点はこんな所ではないでしょうか。
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