mixiユーザー(id:4535387)

2023年05月01日08:17

67 view

京都の三条大橋の袂で土下座するオッサンはいったい誰か? 憲さんと「似て非なる」存在高山彦九郎とは何者か?

フォト


※画像は三条大橋にある高山彦九郎像。マスクをつけている。

憲さんが銅像マニアだということは以前お話した。

参考

憲さん随筆アーカイブス 「賊軍」・ライヴズ・マター 憲さん銅像考
https://hatakensan.cocolog-nifty.com/blog/2021/06/post-09e163.html

関東在住の方にはあまり馴染みはないかも知れないが、関西在住の方、特に京都の人にはよく知られている銅像がある。

それが、画像の銅像である。

これは、コロナ禍で銅像にマスクが悪戯でつけられた時の画像である。

参考

高山彦九郎 皇居望拝之像 通称「土下座像」がマスクをしている件(京都・三条)
https://osumituki.com/kyotokanko/unexplored-region/135008.html

おそらく京大生あたりが悪戯したのであろう。

この銅像 、京都の三条大橋のたもとにあり、その特異なポーズから「土下座像」として、京都の人たちの待ち合わせスポットとして親しまれているようである。

さて、この「土下座像」の人物、一体誰かと言うと江戸時代の「勤王家」高山彦九郎という御仁だそうである。

参考

【高山彦九郎】
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%B1%B1%E5%BD%A6%E4%B9%9D%E9%83%8E
 
といってもあまり現代の人たちには馴染みがないかも知れない。

憲さんも数年前までは知らなかった。

憲さんが初めてこの御仁の存在を知ったのは一坂太郎氏の『幕末歴史散歩 京阪神篇』である。

参考

【一坂太郎著『幕末歴史散歩 京阪神編』】
https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-9784121018113

この本の冒頭に「天皇発見」という章がありこの高山彦九郎が登場してくる。

この本の紹介文にはこうある。

京都・三条大橋のたもとに、御所に向かって遙拝する銅像がある。それまで忘れ去られていた天皇を「発見」し、勤王志士のさきがけとなった高山彦九郎である。彼が扉を開いた幕末は、開国の混乱、大津波、尊攘派と幕府との攻防、大政奉還を経て新時代へと突き進む。

以上、引用終わり。

この高山彦九郎という御仁、京都の人かと言えばさにあらず。

産は上野国新田郡細谷村(現群馬県太田市)の郷士高山良左衛門正教の二男として生まれている。

先祖は平姓秩父氏族である高山氏出身で、新田義貞に仕えた新田十六騎の一人である高山重栄。

13歳の時に「太平記」を読んだことをきっかけに勤皇の志を持ち、18歳の時に遺書を残して家を出て、各地を遊歴して勤皇論を説く。前野良沢・大槻玄沢・林子平・藤田幽谷・上杉鷹山・広瀬淡窓・蒲池崑山など多くの人々と交友した。

しかし、御仁は幕末の人ではない。

御一新(=「明治維新」)の約100年前の人である。

御仁の生年は延享4年(1747年)で没年は寛政5年(1793年)てある。

寛政期の人なので、林子平・蒲生君平と共に“寛政の三奇人”と呼ばれている。

参考

【寛政の三奇人】
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%9B%E6%94%BF%E3%81%AE%E4%B8%89%E5%A5%87%E4%BA%BA

御仁は前述した通り、13歳の時に「太平記」を読んだことをきっかに、天皇を敬う勤皇の志に目覚めた。

そして、明和元年(1764年)18歳の時、学者を志して遺書を残して家出をし、はるばる京都の地へとやってくる。

初めて京都にやってきた彦九郎が東海道の終点である三条大橋に着くと、三条大橋から北北西の方角にある御所(皇居)を眺めると、あまりにも荒れはてていて江戸城とくらべて痛憤し、号泣しながら「草莽の臣、高山彦九郎でございます!」と何度も叫んだそうである。

この像はその姿を模したということで、「高山彦九郎皇居(京都御所)望拝之像」という。

なので、土下座をして謝っている訳ではないのである。

しかしその時、通行人の野次馬の人だかりになったそうだ。

また、彦九郎は入京するたびに御所の方を伏し拝んだといわれている。

確かにとんでもない「奇人」である!

(´艸`)くすくす

この像は「18歳」の彦九郎が三条大橋に至って御所を拝んでいる場面だという。

しかしこの像の御仁、どうみてもオッサンである!

というか、爺さんである。

とても18才の若者には見えまい!こんな老けた18才はいまい。

しかも、彦九郎は47才という中年で自刃して果てているので爺さんにはなっていない。

それはこの像を作る時に18歳の若者の姿では威厳がないということで、このような風格ある老人の姿で制作されたのだそうである。

参考

「土下座」で知られる高山彦九郎の像
https://www.kyoto-tabiya.com/2012/09/18/19775/

ちなみに、この像は戦後作り直された2代目であり、初代は昭和天皇の大典を祝して有志からの寄付により1928年に作られ、東郷平八郎が台座の揮毫をしたそうだ。

まさに天皇を賞揚するためならその対象の年齢も歴史的事実も修正してしまえ!といった歴史修正主義丸出し、皇国史観むき出しの銅像であった。

ところで憲さん、この高山彦九郎には全くもって興味がなかったのであるが、奇しくも現在図書館で借りている二冊の本に同時に高山彦九郎が登場しており、そのどちらもを御仁を肯定的に書いてあったので今回この随筆で触れることにした。

まず一冊には彦九郎の相貌とその熱情がこう書かれていた。

以下引用

 彦九郎はその「烈々たる気宇、不抜の信念、・・・火のような意志、それに、手放しで泣ける大丈夫の涙」(三上卓『高山彦九郎』)という多血質の激情家の性格と、「身の丈高く、総髪にして、眉毛太く長し、眼鋭く鼻隆く、肩怒り、脣(くちびる)厚く、口大に、頬骨荒し、顔色赭(あか)く、鬚髯(しゅぜん・アゴヒゲと頬ひげ)美く、音声遠く響き」(『高山芳躅志』〈ママ・高山芳躅誌の誤り・高山彦九郎の伝記〉)という魁偉な容貌と体軀で、奇人・狂士と呼ばれながらも人びとに愛され、慕われた。

以上、引用終わり。

読んでの如く、御仁は当時にしては高身長で異形の相であり、また声がでかく自己主張の激しい泣き上戸であったようだ。

Σ( ̄□ ̄;)ハッ!

これって憲さん?

いやいや、憲さんはそんなに背が高くないし髭もはえていない。

それにしてもこんな奴と一杯飲もうものなら、熱く語ることうるさすぎて嫌になるだろう。

と・・・、上記の記述が載っている書籍が寺尾五郎著『草莽の維新史』である。

参考

【寺尾五郎著『草莽の維新史』】
https://huruhon.shop-pro.jp/?pid=30399412

この寺尾五郎氏は憲さんが安藤昌益を勉強していたときに「安藤昌益研究家」として知った。

参考

憲さん随筆
『万国の直耕者、団結せよ!』 憲さんの日本政治思想史講座 『日本のマルクス』? 奇跡の思想家 安藤昌益に迫る! 前編・安藤昌益『自然真営道』を著す!
https://hatakensan.cocolog-nifty.com/blog/2021/08/post-a6f49f.html

さらに、憲さんの吉田松陰批判に対して「左翼」の立場から吉田松陰を真っ向から肯定する論を掲げる論客と聞き及んで、現在彼の著作『革命家 吉田松陰 草莽崛起と共和制への展望』を読んでいる。

参考

【寺尾五郎著『革命家 吉田松陰 草莽崛起と共和制への展望』】
https://huruhon.shop-pro.jp/?pid=38834734

今回、前出の本(『草莽の維新史』)を図書館で借りて読んだのはこの本(『革命家 吉田松陰 草莽崛起と共和制への展望』)を理解するためのサブテキストとして借りたわけである。

しかし、この高山彦九郎という御仁、まさに「奇人」の典型ではないだろうか?

ところでこの「寛政の三奇人」の「奇人」とは本来「傑出した人物」という意味である。

すなわち「奇」は「優れた」という意味であり、「奇妙な人物」という意味ではないそうだ。

この事については、もうひとつ彼を紹介した著作を書いた作家も勘違いをしている。

その部分を紹介する。

以下、引用。

(前略)そうした驚きの感情は、私の彦九郎に対する先入観からである。高山彦九郎といえば、京都三条大橋の袂で、京都御所に向かって土下坐している銅像が連想される。狂信的な尊皇論者ということが、ほぼ定説になっているのではないだろうか。

(中略)

彦九郎は寛政の三奇人の一人とされているが、奇人という言葉からも、理性というものとは程遠い激情家という像が浮かびあがる。

(中略)

なぜ、私が彦九郎にそのような愚かしい先入観をいだいていたのか。それは、終戦時までの軍国教育で、彦九郎が国民の戦意高揚の道具として利用されていたからにほかならない。彦九郎の大きな悲劇というべきである。

以上、引用おわり。

この彦九郎についての勘違いを懺悔しているのが前回も憲さん随筆で紹介した吉村昭氏である。

参考

【吉村昭】
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E6%9D%91%E6%98%AD

憲さん随筆
憲さん文芸論 安政七年三月三日の江戸に降る雪はいつ止んだのか? 作家吉村昭氏の歴史小説の執筆作法から学ぶ!
https://hatakensan.cocolog-nifty.com/blog/2023/04/post-ccf4d9.html

氏はこの高山彦九郎に惚れ込んで『彦九郎山河』という伝記小説を書いている。

参考

【吉村昭著『彦九郎山河』】
http://kamituke.web.fc2.com/page113.html

書評 『彦九郎山河』(吉村昭、文藝春秋、1995)−「戦前」は賞賛され「戦後」は否定され忘却された高山彦九郎という人物を現代に蘇らせる
https://e-satoken.blogspot.com/2018/02/1992.html?m=1

今回の引用は彼の著作の裏話を書いた随筆集『歴史の影絵』の中の「反権論者高山彦九郎」から抜粋した。

ちなみに前出の『草莽の維新史』を書いた寺尾五郎氏は物故者であるが元日本共産党員のゴリゴリの共産主義者である。

それは彼の経歴を見てもわかるが、その著作を読めばハッキリする。

参考

【寺尾五郎】
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%BA%E5%B0%BE%E4%BA%94%E9%83%8E

そして、彼はゴリゴリの「草莽」マニアであり、この『草莽の維新史』とは江戸時代から幕末におけるありとあらゆる“草莽”を網羅した“草莽マニア”必読の著作となっている。

ちなみに「草莽」とは“そうもう”と読み、寺尾五郎氏がいうには以下のような者をいうそうである。

以下、引用。

処士や芻蕘(すうじょう・草刈りときこり。転じて、身分の低い者をいった語)や草莽の臣には二つの要素がある。一つはその庶民性・在野性であり反官性である。もう一つは高潔な賢者という性格である

(中略)

草莽の臣とは、草深い地方の草屋にあり農工作業の汗の匂いのする賢者である。衣冠束帯に身をかため宮廷に在る官学の吏員ではなく、農樵(のうしょう)の間に晴耕雨読する「草廬(そうろ・草葺のいおり)の賢才」であり、生産者・勤労者の要素をもつ学者、つまり農民階級のなかの知識人である。

以上、引用おわり。

Σ( ̄□ ̄;)ハッ!

これってまさに憲さんのこと言ってるんじゃないの?

(´艸`)くすくす

そして、こうまとめている。

「武士的農民というか農民的武士というか、とにかく汗くさく土くさい志士、生産者性・勤労者性を持つ草の匂いのする志士、これを草莽の志士というのである」

そして、寺尾氏に言わせるとこの「草莽の志士」の最高峰に吉田松陰が君臨しているとのことである。

ちなみに、憲さんこの寺尾氏の吉田松陰観について現在研究中であるが、現時点では反対の立場である。

それは以前の随筆でも言及している。

参考

憲さん随筆
吉田松陰は本当に『革命の指導者』か? 革命的左翼の『明治維新史観』を真剣に問う!
https://hatakensan.cocolog-nifty.com/blog/2022/12/post-34ab69.html

話が逸れたので戻そう。

この寺尾氏の『草莽の維新史』はさながらこの「草莽の志士」の列伝となっている。

そして、その中の第一章「草莽の前史」第二節「草莽の先駆たち」の四に「高山彦九郎と六士憤死」の項で彦九郎は紹介されている。

しかし、高山彦九郎とは「狂信的な尊皇論者」(吉村昭氏)=天皇主義者であるにも関わらず、吉村昭氏にして「反権論者」、寺尾五郎氏にして「草莽の先駆の典型」と言わしめている。

何故か?

そもそも「天皇」そのものが一貫して日本の最高権力の地位にいたにも関わらずである。

その答えは吉村昭氏にして「彦九郎は、幕府に対して徹底的に抵抗した孤独な運動家であった。武断政治をとる幕府を倒すため、文治政治をおこなうと期待される朝廷に政権を委譲させるべきだと考えた」

また寺尾五郎氏にして「皇威力恢復(かいふく)をめざす尊皇斥覇(せきは)の心情を基幹に、窮民救済の願いと攘夷の怒りとがからみあい、それらの全体を貫く在野・反官の鬱勃たる気魄が反幕にまで昂まっていたのである」

そうなのである。

高山彦九郎は反幕府の“アンチテーゼ“として「勤王家」となったのである。

太平記を読んで!

参考

【太平記】
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AA%E5%B9%B3%E8%A8%98

単純と言えば単純である。

ところで、この高山彦九郎は憲さんと似たところがある。

それは実は「一揆マニア」だというところである。

これは寺尾氏の『草莽の維新史』から抜粋する。

それは「一揆と聞けば、必ず馳せ参ずる」という小見出しの節で述べられている。

以下、引用。

彦九郎はたんに口舌の経世談をひけらかす慷慨家ではなく、民衆の実生活に熱い配慮を持つ実行型の窮民家でもあった。

中略

幕府の絹糸改役所の設置に反対する二万人からの打毀しが郷里に起こった。いわゆる上州絹一揆である。彦九郎がこれに駆けつけて行った・・・

参考

【絹一揆】
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E7%B5%B9%E4%B8%80%E6%8F%86

中略

また天明三年の二月と三月、京都で凶作と米価高値による打毀しが続いたとき、在京の彦九郎は大村彦太郎(白木屋の二代目)や竹屋忠兵衛などの富豪を説き、百二十両からの義捐金を集めたりもしている。四月に上州に利根川氾濫の水害ありと聞けばとんで帰って救済に当たり、また上京、ついで十一月に入って浅間山噴火による被害で上・信の地に大百姓一揆が起こったと耳にするや、またしても京都から駆けつけている。そのまま郷里に滞在中の翌四年三月、伊勢崎藩内島村に一揆があり、これは打毀しに発展したが、そのときの彦太郎は蜂起農民のなかにいる。

以上、引用おわり。

どうだろう?

この一揆マニアぶり!

彼は一揆の当事者ではないが、寺尾氏の言葉を借りれば「彦九郎は明らかに一揆勢のなかにあり、農民の側から藩側の防備を偵察し、その弱点を見出し、ここを衝けば一揆は勝てるなどとあれこれ想定している」のである!

まさに彦九郎は「バリケード」の内側(農民側)にいたのである。

「安永から天明にかけての数年間、彦九郎はもっぱら百姓一揆との関連において東奔西走し、窮民救済に専念している」のだ。

まさに「実行型の救民家」であった。

この点について寺尾氏も吉村氏も評価しているのである。

そしてその慷慨心が「反幕府」に向かわせたのであろう。

これも、寺尾氏の本からの引用である。

以下

安永三年の夏、幕府老中田沼意次は禁裡賄方(まかないかた)に汚職ありと御所の役人や出入商人に大規模な手入れを行なった。これを聞いた彦九郎は、収賄の元兇のような田沼が収賄事件をでっちあげたものと判断し、激怒して「田沼の豎子(じゅし)(小僧っ子)、何奴ぞ」と怒鳴り、「今、故紙(ぼろ紙)をついで幟となし、これを上野東叡山の廟門の外に樹つれば、たちどころに同志千人ばかりを得べし、豎子を誅する何かあらん」と怒号し、聞く者の耳を掩(おお)わしめたという逸話がある。

以上、引用おわり。

これを読んでも彦九郎の「胸中で反幕の焰は燃えさかっていたと見るべき」であろう。

このようなところも憲さんに似ている。

しかし、憲さんはあまり行動の伴わない「たんに口舌の経世談をひけらかす慷慨」の徒に近い!

(´艸`)くすくす

しかし、彦九郎のそれは「誅する」と言っているので、幕末のテロリズム思想を支えた吉田松陰のようにもみえる。

ただこれもまた巷間の評判に左右された単純な思考回路でもある。

田沼意次は単なる賄賂好きの腹黒い貪欲な為政者ではなかろう。

印旛沼の干拓事業などを見れば明らかである。

憲さんはそう考えている。

参考

憲さん随筆
憲さん歴史探偵! 田沼意次(たぬまおきつぐ)は本当に悪人だったのか? 一橋幕府説から読み解く
https://hatakensan.cocolog-nifty.com/blog/2021/06/post-8b7435.html

それにしても、この寺尾五郎という人は徹底した反幕府主義者である。

彼は封建的故か知らぬが、幕府を“蛇蝎の如く”嫌う。

そこが憲さんとは相入れぬ。

そして、それを倒すためならばその徳川幕府に権威付けをしたさらなる権力=天皇と結び付く者についても評価する。

憲さんはどうもそれが納得いかない。

冒頭に挙げた一坂太郎氏の『幕末歴史散歩 京阪神篇』で、高山彦九郎が天皇を「発見」し、その後その高山彦九郎に心酔し、彦九郎の戒名「松陰以白居士」から以後「松陰」と名乗った吉田松陰がその思想を受け継ぎ、松陰の育てた連中がその後の日本を内乱の坩堝に叩き込み、さらには1945年の「破滅」へと日本を導いたことを忘れてはいないだろうか?

参考

歴史散歩「寺町の遍照院」
https://ahiguchi.com/stroll/%E5%AF%BA%E7%94%BA%E3%81%AE%E9%81%8D%E7%85%A7%E9%99%A2/

憲さん随筆アーカイブス 「賊軍」よ、永遠なれ! 安倍晋三の尊崇する吉田松陰とは何者なのか?松陰著『幽囚録』を読む
https://hatakensan.cocolog-nifty.com/blog/2021/05/post-4431d6.html

吉村昭氏は彦九郎は「武断政治をとる幕府を倒すため、文治政治をおこなうと期待される朝廷に政権を委譲させるべきだと考えた」と書いているが、実際に「朝廷に政権を委譲」した後(「明治維新」後)天皇の権力と薩長の思惑が合致し、天皇を頂点としたとんでもない「武断政治」が行われたのてはないのか?

寺尾氏は幕府を倒すためならば悪魔=天皇と手を結ぶことをも“是”とするのであろうか?

私にはそこがどうも理解できない。

高山彦九郎の最期は、吉村昭氏の筆を借りれば「家庭は弾圧によって破壊され、妻子との縁も断たれた。そうした境遇にありながら、孤独な戦いをつづけ、やがて絶望して自ら命を断った」のである。

九州の久留米の友人宅で「気が狂った」と言い腹に刀を突き立て果てた。

凄絶な最期であったそうである。

しかし、やはり憲さんは彦九郎に感情移入はできない。

何故か?

寺尾五郎氏は草莽の“定義”にこう書いている。

「草莽の臣とは(中略)農樵の間に晴耕雨読する『草廬の賢才』であり、生産者・勤労者の要素をもつ学者、つまり農民階級のなかの知識人である」

しかし、高山彦九郎についてはこう書いている。

「生涯を通じて官職につかず、『野に在りて、而して孜々(しし)焉たる者』(皆川淇園)として『無業無職』でおしとおした」

Σ( ̄□ ̄;)ハッ!

“無業無職”?

でもって「各地を放浪」してたのね?

ヒッピーのはしり?

(´艸`)くすくす

参考

【ヒッピー】
https://kotobank.jp/word/%E3%83%92%E3%83%83%E3%83%94%E3%83%BC-120211

結局、高山彦九郎は一揆マニアで慷慨家の“口舌の徒”に過ぎなかったのではないだろうか?

それが憲さんとの決定的違いである。

憲さんはさすがに農樵の間に晴耕雨読する「草廬の賢才」ではないが、生産者・勤労者階級に身をおいている「義民マニア」なのである。

( ̄ー ̄)ムフフ

結局、彦九郎は「軍国主義時代、かれの尊皇思想のみが拡大され、反体制の精力的な運動家であったことは、その背後に押しこめられてしまった、そうした時代の操作によって、かれは大きな誤解をうけ、今でもそれはとかれていない」と吉村昭氏は同情的に書いているが、高山彦九郎のその「悲劇」はやはり彼の階級的立ち位置とその「尊皇」という思想性に起因する必然だったのではないだろうか?

憲さんはやはり、

「世を挙げて聖人という者は・・・天道を盗んで衆人の直耕を掠め取り、私法の学術を制して、押さえてもって上に立ち、不耕貪食にして賁(かざ)り衣(き)て栄耀(えいよう)をなす」といい、天皇の存在すらも否定する安藤昌益の思想こそが日本の後世の社会変革には必要だったのではないかと考えている。

参考

憲さん随筆
『万国の直耕者、団結せよ!』 憲さんの日本政治思想史講座 『日本のマルクス』? 奇跡の思想家 安藤昌益に迫る! 前編・安藤昌益『自然真営道』を著す!
https://hatakensan.cocolog-nifty.com/blog/2021/08/post-a6f49f.html

『万国の直耕者、団結せよ!』 憲さんの日本政治思想史講座 『日本のマルクス』? 奇跡の思想家 安藤昌益に迫る! 後編・安藤昌益の思想と哲学
https://hatakensan.cocolog-nifty.com/blog/2021/08/post-522861.html

この寺尾五郎氏の『草莽の維新史』は高山彦九郎はじめ田中丘隅、安藤昌益、大塩平八郎(玉)から「水戸学の人びと」、吉田松陰、長州奇兵隊、相楽総三(石)と、玉石混淆の「草莽の志士」を取り上げていて大変読みごたえがあり、色々と幕末における社会変革史を考える上で示唆に富んでいる。

これを足掛かりに寺尾五郎氏が傾倒する「草莽の志士」の最高峰、吉田松陰に肉薄していきたいと憲さんは考えている。

乞う!ご期待!

どーよっ!

どーなのよっ?
0 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する