去年の日記に「私には従兄妹従姉弟が30人いる」と書いたことがあります その内容を書く前に私が発病してしまい、日記を書くどころではなくなってしまったわけですが、昨日、昭和30年代の横浜を描いたアニメの話を友人が日記に書いたので、その日記に寄せて続きを書いてみました 突然なので、まとまりのない話になるかもしれませんが・・・
私は昭和26年生まれ
父は12人兄弟妹の上から2番目(成人して結婚したのは8人)
母は12人兄姉妹の下から2番目(成人して結婚したのは6人)
両親の兄弟のそれぞれの夫婦が2〜4人の子を産んだので、数えてみると従兄弟が30人おります そのうち横浜のど真ん中に住んでいた母の姉夫婦のとこだけ子供が一人でしたが、平塚と横浜で行き来していました
小学生だった私は妹と年に2回は横浜に遊びに行きました 伯母の家は伊勢佐木通りと市電通りの間の親不孝横丁にあったので、市電通りを走るチンチン電車の思い出には胸が熱くなります 商店街ではハワイから直接持ってきたようなアロハシャツや輸入品のスイス製の腕時計がごく普通に売られていたりしていて、子供ながら平塚の田舎とは異なる空気を感じました
伯母夫婦には背の高い色黒の従兄が一人いて、腎臓の病気で片足が不自由ながら、私たちとバドミントンをやったりしてました わりと早めに結婚して、子供もできて、間もなく離婚してと、従兄の中では波乱万丈の人生を歩んでいましたが、その従兄が50前後に亡くなった時、ちょうど私も横浜に住んでいたのでお葬式に出ようとしたら、私の母が止めました その時のセリフを今でも思い出します
「いいのよ、お前とは血は繋がっていないんだから…」
でも母が私を止めた本当の理由は、当時もう伯母夫婦は亡くなっていて、元奥さんとの間にできた子供以外身寄りがいないというていで公共の病院に入院していて亡くなったので、いないはずの親戚が葬式に出てはまずかったからのようでした たぶん入院費や葬式代の請求書の送り先になってしまうのを恐れたのでしょう(^^;)
一番の驚きは従兄と血が繋がっていないことを知らされたことでした 日本人にしては異様に背が高く、でも色は黒くても黒人ほどではなくほとんど日本人で通る顔でしたから、思わず「えっ、うそ!」と叫んでしまいました ですから、今どこのお墓に眠っているのかは不明です たぶんこのままお墓参りもできずに終わってしまうと思います
山田雄一郎 これが従兄の日本名です
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