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2023年03月17日08:17

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運命のときがやってきた


小渕元首相の政治手法の特徴についてですが、それは「人柄政治」といってもいいでしょう。人間的にいい人だと思わせることで有権者の支持を得ようとして成功したからです。 政権発足後の内閣支持率がピークで徐々に落ちていくのが通常のパターンですが、小渕内閣は逆で、極めて異例でした。

日本経済新聞の調査によると、政権スタート時は25%と低空飛行で、金融国会がごたついた1998年10月には17%とほとんど失速寸前でした。そのあと、じわじわと支持率がアップし、40%台を維持するなど政権安定ラインに乗りました。

そこには福田赳夫、中曽根康弘という2人の首相をうんだ旧衆院群馬3区で「ビルの谷間のラーメン屋」と自嘲しながら生き残ってきた政治家のしたたかさがあったのです。マイナスイメージを逆手にとるのがこれほどうまい政治家はまれでしょう。

まして首相としてはまずほかにはいません。「凡人宰相」「冷めたピザ」「真空総理」「ボキャ貧」。こうした冷笑ともいえる評価をすべて自らに引き寄せて、それを自分の口から語ることでむしろ有権者に親しみと懐の深さを印象づけました。

「ブッチホン」とよばれた電話も話題を提供しました。自ら受話器をとり、 直接いろんな人に電話しました。ただそれは気さくな人柄、気配り目配りだけではなかったのです。官房副長官をつとめていた古川貞二郎『私の履歴書』(日本経済新聞出版社2015年100頁)にこんなくだりがあります。

小渕さんは総理執務室からこまめにいわゆるブッチホンをかけていた。某有名評論家が雑誌に小渕さんを冷評した記事を載せた際、秘書官にその評論家に電話するよう指示した。電話口に出た相手に小渕さんは朗らかな声で「もしもし、総理の小渕です。いやあ、いい記事を書いてくれてありがとう」。

電話を切ると、小渕さんは厳しい表情で「これでもう俺の悪口は書かない」と言い切った。 小渕さんは人柄の良さでは定評があったが、人柄の良さだけでは総理になれない。温厚な小渕さんの憶測に秘めた気迫、粘り、負けん気の強さを垣間見た思いがした。

そして運命のときがやってきた。2000年4月1日。小渕氏は午後6時から公明党の神崎武法代表と自由党の小沢一郎氏との党首会談に臨みました。引き続き小渕氏と小沢氏の2人だけで会談しました。

その直後の様子を当時幹事長だった森喜朗氏は次のように振りかえっている(『私の履歴書森喜朗回顧録』日本経済新聞出版社2013年・208〜209頁)。「小沢さんとの長時間の会談後、私が首相執務室に入ると小渕さんは疲れ切った表情で元気がなかった。」

「(自由党と自民党の合併提案は)断ったよ」「そうですか。それはよかったですね」「これから記者団とぶら下がりがある。幹事長も立ち会ってくれ」午後8時前、小渕は記者団のインタビューに応じて、自由党との連立に終止符がうたれたことを明らかにするのですが、マイクに向かった小渕氏の口から言葉が出ない。長い沈黙の時間が流れました。

以下が森氏の回顧談です。「小渕さんの言葉が詰まるので隣にいた私もおかしいなと感じた。小渕さんはこの後、自民党の役員に会談内容を報告する予定になっていたが、今日は疲れたので公邸に帰るよ。みんなによろしく伝えてくれと言った。」

私は「ゆっくり休んでください。党の方には私が報告しますから」と応じた。小渕さんは公邸に向かう廊下をとぼとぼと歩き、私はその後ろ姿を見送った。これが学生時代から親しくしていた私と小渕さんの今生の別れになった」から数時間後、小渕氏は千鶴子夫人に体調の不良を訴えた。

救急車は呼ばずに車で東京・本郷の順天堂医院に入院した。2日未明のことだった。2日夕方には容体が悪化、意識不明におちいる。3日午前の臨時閣議で官房長官だった青木幹雄が首相臨時代理になった。4日には小渕内閣の総辞職を発表した。それから1ヵ月半後の5月14日、小渕氏は不帰の人となった。死因は脳梗塞。享年66歳だった。

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