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2022年11月05日22:29

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『鎌倉殿の13人』第41回「義盛、お前に罪はない」

 冒頭、和田義盛は源実朝に戦にはしないと約束したものの、打って出た縁者と行き違いになり、すでに合戦は始まったと知る。
「敵はあくまで北条。鎌倉殿には指一本触れるな」
 として総勢で押し出すことになるが、このロジックは日本史のあらゆる局面で見られる気がする。リーダーといえども、動き出した流れには逆らえないし、権威に対する畏れの根強さを実感する物言いである。

 なりゆきで和田方から抜けられなくなった三浦義村たちだが、義盛本人に「おまえらは、あっちなんだろ」と図星を刺され、結局、北条方へ戻ることになった。「戦がたけなわになってから寝返られた方が困るから」というのは、これまでの三浦の身の振り方への揶揄もやや入っているような気がする。なぜ有無を言わさず斬らなかったかといえば、「いとこ同士だから」とも答えている。なんだかんだいいながら、鎌倉政権がごく身内のものだったとわかるやりとりでもある。
 飲みこんでしまった誓紙をどうするかについては、頑張って吐き出すというけっこう素直な対応をしていておかしかった。そんなものは気にしないかと思いきや、意外とそうでもなかった。

 三浦はその足で北条のもとへ行く。そんな三浦を北条が信じるかといえば、けっこうあっさり信じている。そして、そこで手に入れた情報による対応はほぼ図に当たったのだから、最大の好機であった機先を制するタイミングを失った和田方の損失は計り知れない。

 戦に先立って、巴は従軍を願い出るが義盛はこれを拒む。「帰ってきた時におまえに迎えてほしいから」は、泣かせる台詞である。しかし、これで巴は二度とも最期の場に居合わせることを拒まれたことになる。
 巴の出番がここまで引っ張られたのは、彼女を介して木曾義仲と和田義盛を重ねて描くためではなかったろうか。この後の回想中に「おまえはあの時のように生き残れ」という義盛の台詞がある。

 直後に御所で始まった戦闘では、首に矢が刺さったり、鎧に火のついた武者が水たまりに飛びこんでのたうちまわったりとか、CGも使ってけっこう迫力のある合戦がくり広げられている。

 なぜか、ここで大江広元は政子が実朝に与えた歌集を取り戻すために御所へ引き返し、和田方の武士とチャンバラをして何人も斬るなど大活躍するのだった。謎である。しかも、その前後、妙に政子としっぽりしたやりとりもある。ひょっとして、二人はデキているのか。そうだったら、一大スキャンダルである。
 そもそも広元は評定に参画している文官の一人であって、それぞれの有力な一族と公平に付き合っているかといえばそんなことはなく、明らかに北条への過度な肩入れが見てとれる。それは北条義時との個人的な関係によるものかと思っていたけれど、どうやらそれだけではなさそうにも見える。

 戦況は他家の加勢を得られず、一族のみで戦っている和田が不利だったが、和田と親しい西相模の御家人たちが鎌倉に到着すると逆転してしまう。そこで義時は実朝に御行書を出させて一気に情勢を決めようとしたが、それをやってしまうと本来は北条と和田の私的な確執にすぎなかったことへ、鎌倉殿が一方的に北条へ肩入れしながら介入したことになる。
 最初、実朝は御行書を出せないと突っぱねるが、犠牲を抑えるにはそれしかないと詰め寄られ、結局、押し切られてしまった。結果として、西相模の御家人衆は和田と合流せず、孤立無援の和田は、そのまま敗れ去る。
 劇中、なぜか北条方は和田方の弓を防ぐために板で三方と上方をかため、古代マケドニアのファランクスのような方陣を組んで間合いを詰め、肉薄していた。

 追い詰められた義盛の前に実朝本人が姿を現し、降伏を勧告する。今回のタイトル、「義盛、お前に罪はない」はこの時の実朝の言葉である。しかし、義盛を生かしておいてはなにかと都合の悪い義時と義村は兵たちに合図をして義盛を射殺させてしまう。
「お分かりか。これが鎌倉殿に取り入ろうとする者の末路にござる」
 要するに、鎌倉殿をいかに手中に収めるかということが争点だったのであって、いざことが始まってからそれにとりかかった和田には、終始ずっと握ったまま離さなかった北条に対して勝ち筋はそもそも存在しなかったといえる。
 一方、最後まで自分のペースでことを運び、悪辣といっていいほどに腕を振るって見事に勝った義時だが、戦場を去る彼の表情は晴れない。

「まつりごとというものは、かくも多くの骸を必要とするものなのか」
 膝元である鎌倉のあまりの惨状に衝撃を受けた実朝は、今後すべて朝廷に伺いを立ててから執り行おうとするが、それではなぜ源頼朝が挙兵したのかからわからなくなってしまう。きっかけは以仁王の令旨かもしれないが、後知恵を承知でいってしまえば、朝廷の政治が関東の現実と乖離しすぎていたのである。
「心を許せるものはこの鎌倉にはおらぬ」
 義時にとっては痛烈に耳の痛い言葉だが、そんなことを認めるわけにはいかない。彼はこれまでの政所別当に加えて侍所別当も兼ね、もはや一介の御家人としては他に抜きんでて並ぶもののない権力を手にし、いよいよ鎌倉殿との抗争へと雪崩れこんでいくのだった。

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