mixiユーザー(id:14438782)

2022年09月24日23:53

83 view

『鎌倉殿の13人』第36回「武士の鑑」

 中川大志が演じる畠山重忠は回が進むごとに『新選組!』で堺雅人の演じた山南敬助に見えて仕方がなかったけれど、もうこの回で完全に重なった気がした。
 志を同じくする者たちが集まって当初の目標は達成するけれども、その後は微妙な立場の相違が露呈したり、成功の果実の分配をめぐって対立が表面化し、内部抗争が始まる。
 畠山重忠も山南敬助もそこで新しく始まった別のレースへの参加を拒んだことでは同じだと思う。山南は遁走し、捉えられて斬られた。重忠は勝ち目のない戦いを挑んで滅んだ。

 作劇上の都合でいえば、それまでの前向きでポジティブな進行から、陰惨で血腥い佳境へ至るにあたり、あくまで理想に殉じた個人を描くことで、その前後の落差をより際立てることが可能になる。
 そういう意味では、重忠の最期はかなり美化して描かれているとも思う。武蔵へ戻って兵を募ればもっと戦えたはずにもかかわらず、二俣川で多勢に無勢の戦いになったのは、なにかしら期するところがあったか、単純に北条方の詐略にかかった可能性もある。
 とはいえ、ここは前述の事情があるので、無駄と知りつつ武士の一分を立てるために華々しく散るのが正しいのである。そういう脚本だし、演出だし、演技になっている。いつも冷静な重忠が急に感情を昂らせて、「戦など誰がしたいものか!」と叫ぶところなどは、まさにそれといえる。

 重忠は側面の守りについていた北条泰時の陣を急襲し、嫡男の危機に慌てた北条義時に救援させることでまんまと引きずり出し、一騎打ちに持ちこむ。ここから先はヤンキーもののステゴロタイマン勝負になってしまうのだけど(というか、こっちがオリジナルではある)、案の定というべきか、勝ったのは重忠だった。しかし、彼は義時を殺さない。

 なぜ殺さなかったのかといえば、身も蓋もないことを言ってしまえば、殺すとそこで大河ドラマが終わってしまうからだけど、では、殺せないのになぜ闘わせたのかといえば、重忠の最期を美々しく飾るためであり、対して義時には恥をさらしながら生きることを強いるためである。

 一騎打ちで勝ったきり、その後の重忠の描写はない。あとは首を桶に詰められ北条時政の前に据えられるだけである。具体的な最期は描かれない。それはNHKのコード上の事情かもしれないけれど、その桶の前での義時と時政のやりとりを見れば、喪失感は劣らず深い。
 一方、衆目の下で重忠に敗れた義時は、もう表立って御家人たちを率いていく存在にはなれない。それがかえって彼をして、御家人たちをどうやってまとめていくかについて深く考える契機を与えたといえるかもしれない。


 畠山の一件はどうにか力づくで片付けることができたけれど、その無理がたたって逆に反北条の機運が高まる。そこで、時政の婿の稲毛重成をスケープゴートに仕立てることで、北条本体を守ろうとする。
 ちなみに、重成は亡くなった妻であり時政の娘のために相模川に橋をかけ、その橋の落成供養に出席した帰りに源頼朝は亡くなっている。なにげに鎌倉幕府の重要イベントに関わっている人なのだった。
 重成は義時の命により三浦義村の手で誅される。義村に手を下させるにあたって、義時は「畠山の件ではおれに隠れて勝手に動いたから」と理由を挙げているが、時政に重忠の嫡男の誅殺を命じられた時、「義時に相談しなくていいのか」という和田義盛に対し、義村はあえて「板挟みになってやつが苦しむだけだ」と伝えなかった。ニヒルでクールに見えて、義村の義時への一筋縄ではいかない感情が垣間見られるけれど、重成の死を報告する義村への義時の応答は、
「ご苦労。下がってよい」
 とあくまで素っ気ない。ちなみに、この時の義時の頬には重忠との一騎打ちのときについた傷が、なにかの刻印のようにまだ残っている。不意に出た立場の上下をつきつけるような物言いに、義村はなにか言いかけるが、不敵にも見える笑みを浮かべつつ黙って引き下がる。両者のすれ違いがはっきり現れたシーンでもある。

 結局、重成をトカゲの尻尾として切り捨てたことで、むしろ、時政の声望はさらに失墜し、梶原景時より大きな弾劾状が上がってくる。ついに時政は執権の座を追われ、以後、所領を安堵するのは政子の仕事になっていく。

「稲毛殿が亡くなったそうですね」
「はい」
「あなたが命じたのですか」
「命じたのは執権殿です」
「なぜ止めなかったのです」
「……私がそうするようにお勧めしたのです」
「……これで執権殿は御家人たちの信を失いました。執権殿がおられるかぎり、鎌倉はいずれ立ち行かなくなります。こたびのことは、父上が政から退いてもらう初めの一歩。重成はそのための捨て石」
「……小四郎。恐ろしい人になりましたね」
「すべて頼朝さまに教えていただいたことです」

 頼朝が居合わせれば、「いやいや、おれそんなこと言った憶えないけど」と言いそうな気もするけど、義時はさらに深みへと足を踏み出していっている。もうさすがに戻ることは無理な領域といえそうである。

 ちなみに、白村江の敗戦のショックで大和朝廷の制度が整えられた時、唐にならった公地公民が建前ではあったけれど、当時の人々にとって国家という抽象概念があまりにピンとこないものだったらしく(そもそも唐の均田制からしてどこまで実質的に機能していたかは疑問が残る)、あっと言う間に形骸化して、有力な皇族や貴族や寺社などに寄進してその名前を裏づけに農地を経営する荘園制が一般化する。
 頼朝の武家政権の画期的なところは、そこを東国の実情に合わないとして自分が土地の権利を管理すると言い出したことにあるらしい。朝廷や有力貴族の間に割りこんだのである。
 といって、朝廷や貴族にとって代わるわけでもないし(平将門がそれをやって滅ぼされている)、自分の立場そのものは朝廷によって承認される存在なのである。現代のわれわれからすると、そっちの方がまどろっこしくてどうもピンとこないのだけど、基本的にこの仕組みが明治維新まで続くのだから、当時の人々にとっては、至極しっくりくるやり方だったということなのだろう。
 とはいえ、実朝が独り立ちするまでの暫定的な措置とはいえ、内紛の挙句に未亡人がそれを管理するというのは、なかなかの緊急事態ぶりで、鎌倉幕府の命運もかなりきわまったという状況であるといえるのだった。

 ラスト近く、政子の「私にはもうあの子しかいないのですから」という台詞が予感させる結末が物悲しくも厳しい。
 そして、息子に失脚させられた時政の諦めきれない様子がさらなる波乱を予感させつつ次回へと続くのだった。

2 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する

<2022年09月>
    123
45678910
11121314151617
18192021222324
252627282930 

最近の日記

もっと見る