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2022年06月23日03:02

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「鎌倉殿の13人」と勝手にコラボしたコラム その20

 ナンバリングは18かと思っていたら20でした。それはともかく、きょうは後白河法皇(西田敏行)の傍らにぴったりくっついていた丹後局(たんごのつぼね.鈴木京香)について。

 まずはこちら。
https://ja.wikipedia.org/wiki/高階栄子
 高階栄子というのも本名ではありません。位を貰う時や、土地の権利を扱う時の便宜上の名前です。

 Wikipediaにも記載されているように夫を亡くした丹後局は、幽閉された後白河法皇の世話係となりました。丹後局は美貌の持ち主だったらしく、たちまち後白河法皇の寵愛を受ける事となります。治承5(1181)年3月に清盛殿が亡くなった後、再び後白河法皇は政治の場に復活しました。そしてその年の10月には、なんと後白河法皇と丹後局の間に皇女・覲子(きんし)=宣陽門院(せんようもんいん)が誕生します。これを機に丹後局も政治に口をはさむようになります。朝廷内では楊貴妃にも例えられていました。公家の九条兼実(ココリコの田中直樹)の日記『玉葉(ぎょくよう)』には「近日朝務ひとえにかの脣吻(しんぷん)にあり」と記されています。
 また、この人、夫の平業房(なりふさ)とは別の男性との間に子をなしたと伝えられています。

 ドラマでも後白河法皇の死去により退場するかと思いきや、とんでもないです。後白河法皇の遺領として娘に譲られた膨大な荘園群(長講堂領)を背景にして、丹後局は京都政界の中心として活躍します。当時は女性が直接政治に口出しすることは困難でしたから、土御門通親(関智一)という人物を通しての工作でした。また、源頼朝の娘・大姫(南沙良)の入内工作に関与し、頼朝夫妻の上洛を歓待した人物とされています。そして、その立場を利用し、土御門通親こと源通親(みちちか)らと謀って、政敵・九条兼実を失脚させ、朝廷内の親幕府派の勢力を殺ぐことに成功したのでした(=建久7年の政変)。
 ここで登場するのが源頼朝(大泉洋)です。娘の大姫(南沙良)を入内させて外戚として権力を奮おうとしたのです。紆余曲折ののち、結果的に丹後局はこれに協力しましたが、大姫の死により、これは流れました。しかし頼朝は諦めません。大姫の妹・三幡(さんまん)を入内させようとしました。しかしこれも急死により頓挫し、頼朝自身の死により、鎌倉幕府からの入内計画は行われなくなりました。
 その後の丹後の局は関白にまで出世した、土御門通親や頼朝の死、さらに後鳥羽上皇の院政開始により、朝廷内での求心力を失ってしまいました。出家して京都・東山の浄土寺に隠れ住んだとされています。
 その子孫は山科家として朝廷の財務担当などになり、戦国時代には山科時継が織田信長・徳川家康などと交渉を持ち、さらに明治時代には子孫が伯爵に任じられ、令和の今にも続いています。
 …しかしまあ、鎌倉時代も女性は強かったんだなー。
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