トーマス・ヒル・グリーンにおける「罪と救い」について その1 グリーンにとって、伝統となって来たアウグスティヌスの遺伝的原罪観は受け容れ難いものであったのは当然と言えるでしょう。彼にとって原罪とは、本来神の像、即ち神のうちに人間の<可能的自我>を見出し、それに向けての自我実現を希求し、そのために努力することを拒むことを意味しています。換言すれば、それは神からの疎外です。人間は神の霊の働きによって、不断に神意識を呼び求められているにもかかわらず、人は絶えずそれから離れ、むしろ外的な権威や物質的しるしを追い求め、あるいは<可能的自我>に眼を閉じて<現実的自我>に満足する--その時、彼は「精霊を汚す罪」に陥っているのです。
グリーンによれば、人間は二つの仕方で自らの<可能的自我>から自らを疎外します。即ち、第一に、現在の状態に満足し、あるいは自己中心的な関心にとらわれて、謂わば<本来的自我>に向かうことを拒むのです。
第二には、<真実の自我>、<可能的自我>、<より高次の自我>ではないものを理想とし、それを実現しようと試みることによって自己疎外を招来します。
以上のように、<本来的自我>の実現を拒むことを罪と考えるわけでありますから、救いは当然のことながら、そのような<本来的自我>の実現を拒む自我を解放し、正しくより真実な<可能的自我>を知り、その実現しようと試みることによって自己疎外を招来します。
この続きは別項で。
ログインしてコメントを確認・投稿する