トーマス・ヒル・グリーンの「神と人間」その7 以上に述べて来たことを要約する言葉として、グリーンは果たしてキリスト者であったかどうかという問いに対するネットルシップの答えを引用して見きしょう。
「その答えは、『キリスト者である』とは一体何を意味するかにかかっている。もしそれが、すべての人間は自我のうちに神を持っていること、宗教とはより低次の自我の不断の死、より高次の自我の生命への到達、さらにこれらの真理が我々に知らされている他の誰にもまさって、ナザレのイエスと彼に従った人々のある者達によって、思想と生活の中により一層生き生きと実現されたこと、以上のことを信ずることを意味するのであれば、確かに彼らの真理が我々に知らされている他の誰にも、ナザレのイエスと彼に従った人々のある者達によって、思想と生活の中により一層生き生きと実現されたこと、以上のことを信ずることを意味するのであれば、確かに彼(グリーン)はキリスト者であった。もしそれが、以上に述べた真理が他の人間存在にとっては全く不可能な条件の下でイエスが生まれ、そして死んだという事実に依存していると信ずることを意味するのであれば、同じく確かに彼はキリスト者ではなかった。それでは、なぜ彼はあれ程までに口癖のように正統キリスト教の用語を用いたのであろうか。これを彼に尋ねたとすれば、恐らくは次のように答えたであろう。言葉というものはある個人、あるいは一集団の私有物ではなく、またパウロや第四福音書の用語の多くは、確かに正統派によって自由に採用されはしたけれども、正統信仰の教理のあるものとは全く相容れないものではなかろうか、と」。
次回からはグリーンにとっての「罪と救い」について。
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