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2022年05月29日03:39

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中世史私論 その60 くずれゆく荘園〜全員参加型の農村 上

 こうした加地子(かじし)名主(みょうしゅ)層の成長は、別の面から見れば、荘内に従来の年貢に加えて加地子を支払っても生活が成り立ってゆくような作人クラスの小百姓たちが存在した、ということであります。鎌倉時代ごろまでの弱小農民は、有力な名主に従属して耕地を借り、そのかわりに要求される労役などを提供することによって、食糧や種もみの不足も分けてもらう、といった保護-被保護の関係なしにはくらしてゆけませんでしたし、されでもきびしい自然環境のもとでは破綻して、一家ぐるみ身売りし、下人(げにん)になったり、流亡(りゅうぼう)したりすることがまれでありませんでした。
 それにくらべると、14世紀ごろから、とくに機内近国の荘園農村では、ため池や用水溝の改良、施肥(せひ)技術の進歩などによって、収量の安定性も高まり、弱小の経営もそれなりにやってゆけるようになりました。
 農村に加地子の収取関係が展開するためには、何よりも収量が安定し、年貢に加えて加地子をも払えるような生産力の水準に到達していなくてはなりません。増大した剰余生産物を荘園領主や守護などが検知や年貢引き上げによって吸い上げてしまえば別ですが、それにたいしては加地子名主クラスの有力農民が先頭に立って抵抗しましたから、大勢的にみると、荘園領主の取り分は概して固定されていました。
 この時代は動乱によって、農村がしばしばその渦中にまきこまれ、苅田狼藉(かりたろうぜき.収穫以前の稲を強引に刈り取る行為)・放火などによってふみ荒らされ、人夫役(にんぷやく)にまで駆り出されることも少なくありませんでしたが、農業生産という点では上昇傾向にあり、その収量増加分が、弱小経営の安定化を加地子名主の成長を可能にしたのでした。(この項つづく)

 …なんだかキー入力が何度も無効になり、えらく執筆に苦労いたしました╮(︶﹏︶")╭ヤレヤレ
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