mixiユーザー(id:5138718)

2022年05月27日11:28

30 view

北方の王者 + 義時の扱い

 NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」に関連して。今日は奥州藤原氏についてもう少し。基本情報はこちら。
https://ja.wikipedia.org/wiki/奥州藤原氏
  奥州藤原氏
 けっこうボリュームがあります。スキップしていただいても差し支えありません。そもそもの出自と藤原を名乗っていた経緯、ライバル安倍氏との関係、藤原一族の系図などについてはよくまとめられています。欠けているとしたら清原氏と奥州藤原氏との関係。それまで東北地方の太平洋側を治めていた清原氏がどうなっていたのかなど。それをここで説明いたしましょう。
 永保3(1083)年、清原氏の跡継ぎ問題をめぐる内部抗争「後三年の役(ごさんねんのえき)」(後三年合戦)が始まります。兄弟同士(真衡・清衡・家衡)の間で争いが起こり、さらに長男真衡の死後、清衡と家衡の争いになり、いくさはさらに激しいものになりました。この戦いには朝廷から陸奥守として派遣されていた源義家(よしいえ.源頼義の長男)が介入し、前九年の役で安倍貞任とともに斬首となった藤原経清(つねきよ)の遺児で、清原家に身を寄せていた藤原清衡(きよひら)も義家に味方しました。真衡の病死や真衡の養子成衡(なりひら)の陸奥退去もあり、最後には清衡は、武貞の子で異父兄弟でもある清原家衡(いえひら)を滅ぼしたのでした。ここに清原氏は滅亡、藤原氏がとって代わり、陸奥・出羽(つまり東北地方全体)を支配下としたのでした。

 半独立国家であった奥州ですが、藤原清衡が藤原関白家に貢物を献上して主従関係を結び、朝廷から陸奥の押領使に任じられて支配権を正当化することに成功したのです。また、この清衡の代に平泉に中尊寺を造営してこの地に居を構えました。北方貿易も始まりました。相手が中国の宋であったことははっきりしています。いよいよ藤原氏が最盛期を迎えたのでした。

 で、3代目となった藤原秀衡(田中泯)にはひとつ悩みがありました。自分の息子たちが不和であることです。以前にも書いたように、嫡子の泰衡(山本浩司)と長男の国衛(平山祐介)がそうだったのです。安定していたと見える藤原氏3代も、じつは兄弟を殺しての相続だったので、自分の死後に息子たちそうなれば、かならずや鎌倉の源頼朝につけこまれるのは間違いありません。そもそも秀衡は頼朝には良い感情を持っていませんでした。朝廷への献上品を頼朝経由にするよう申し入れされた過去があったからです。東北を鎌倉政権の子分扱いされたのです。そこで秀衡は現代人の目からすればとんでもない奇策を打ったのです。それは自分の正室を長男の国衡に嫁がせることでした。曲がりなりにも、この結婚により国衡は泰衡の義父となる訳です。血はつながっていないので結婚に支障ありません。兄弟ならば生死を掛けたいさかいになるとも、親子関係になればそれはないだろうと踏んだわけです。そして今後は義経(菅田将暉)を主君として仕え、いざとなればこれを総大将として兄弟が手を取り合うようにと遺言して亡くなりました。 この秀衡の奇策が功を奏したのか鎌倉勢が押し寄せてきたとき、国衛に阿津賀志山に城壁を築いて迎え撃たせました。
 これに先立って泰衡は義経をその妻子とともに自害させましたが、そのくだりは大河ドラマでは描写されていません。泰衡は親義経であった弟の頼衛 (川並 淳一) や通衛も殺しています。そして奥州藤原氏は滅びました。

 大河ドラマでは主役の北条義時(小栗旬)が平泉を訪れ、国衡と泰衡に義経を差し出すよう説得するくだりがありますが、これはフィクションです。『吾妻鑑(あずまかがみ)』にはこの間の義時の動向についての記述がありませんから、脚本の三谷幸喜は義時がダークサイドへの階段を登っていくステップとして挿入したのでしょう。畑仕事をしていた義経に会って怒らせたのも同様です。
 また、父の北条時政(坂東彌十郎)が京に上り、後白河法皇(西田敏行)に鎌倉政権が西国にも守護・地頭を置くことを許可するように頼んだときも、義時が同席していましたが、これも創作。こちらは主人公である義時にスポットライトを当てようとしたものなのでしょう。
8 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する

<2022年05月>
1234567
891011121314
15161718192021
22232425262728
293031