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2022年05月25日11:14

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「帰ってきた義経」補遺

 奥州藤原氏についてのあれこれ。

 藤原三代の奥州支配は当初は半独立のいわば勝手な統治でした。そのため朝廷や藤原摂関家に砂金や馬などの献上品や貢物を欠かしませんでした。こうして都の皇室・貴族たちのご機嫌を伺うことで安寧な統治を保ってきたのです。
 そして秀衡(田中泯)は老獪な政治力とくに外交方面の嗅覚を持っていましたから、源平が争っていたときでも旨く立ち回っていたのです。平清盛(松平健)には見方すると文書を送り、一方の源頼朝(大泉洋)には「いざというときには私が控えておりまする」と返信し、平家が滅ぼされると「あらら、お味方をしようと思っていたら、ちゃっちゃっと片付けちゃったんですね」という具合のちゃっかりさ(°д°) たしかにこの老獪さと義経(菅田将暉)の戦闘能力があれば鎌倉勢に互したかもしれません。

 さて、そんな奥州藤原氏の17万騎の軍事力を支えたのはもっぱら経済力でした。それが砂金と名馬によるもので、シベリアなどの大陸との交易によるものだとは前回も触れましたが、その交易はどこを拠点としていたのでしょうか? 考えられるのは十三湖(じゅうさんこ)という青森県の津軽半島にある汽水湖です。日本海に面したこの湖には中世(13世紀初頭〜15世紀前半/鎌倉時代〜室町期)には日本海沿岸の交易港「十三湊」がありました。かつてはずいぶん栄えた港町があったとされ、かのマルコ・ポーロの『東方見聞録』に描かれた「黄金の国ジパング」はここがモデルであったのだとされます。モンゴルのクビライ・ハーンも日本を攻めるにあたって、黄金に注目していたのでしょう。しかし室町期のあたりでここは寂れました。現在の東北地方では金がまったく産出されないので、まるで嘘のような話です。

 源頼朝が奥州藤原氏を攻められると踏んだのは、一族が不和だったことからです。秀衡には多くの子がいましたが、とくに不仲だったのは嫡男の泰衡(山本浩司)と長男の国衛(平山祐介)。泰衡の母(天野眞由美)が正妻だったために嫡男=後継者とされたのです。ここに頼朝は目をつけました。泰衡に揺さぶりをかければ他の兄弟たちは助けの手を差し伸べてはくれない、という訳です。父・秀衡の死後、泰衡も最初のうちは惚けていましたが、ついにはかばいきれず、ついには衣川館に軍勢を派遣しました。弁慶らが敵の前に立ちはだかる中、源義経は妻の郷御前、4歳の娘を刺し殺し、自らも自害。義経の首は、美酒に浸され、黒漆塗りの櫃で鎌倉へ。およそ一ヶ月半かけて、頼朝のもとに辿り着きました。
 鎌倉と対立するつもりはない。どうしても戦は避けたい。そう考えた泰衡は、さらに頼朝らに恭順の意を示すため、驚くべき行動に出ています。義経の死から二ヶ月後に異母弟の藤原頼衡(六男/川並淳一)、さらにその四ヶ月後に別の異母弟・藤原忠衡(三男)を誅殺するのです。「義経に味方していた」というのが表向きの理由であり、弟を手にかけてまで頼朝にすり寄りました。頼衡は史料に乏しく、実在を疑う説もあります。結果、どうなったか? 義経の死の一報は京都にも届き、朝廷は「めでたいこと」と見なしました。彼らはそれ以上の戦乱は望んでおらず、ようやく弓矢をしまう時が来たと安心し、鎌倉にも祝意を伝えます。泰衡にしてみても、宣旨通りに義経を討ったからには一件落着という思いもあったでしょう。そして文治5年(1189年)、『吾妻鏡』には奥州平定を願った神事の記述が見られます。準備万端の鎌倉軍。奥州平定の祈願が幾度も実施され、その間に「奥州を攻め取れば所領が増える」と戦意を高揚させていたならば、武士たちの胸も高まったことでしょう。そして出陣! とは、なりませんでした。いざ頼朝が立ち上がろうとすると、朝廷側がトーンダウンしていて追討の宣旨が得られなかったのです。つまり藤原泰衡の読みは当たっていました。義経が討たれたからには、奥州で合戦をする意義はありません。鎌倉軍が奥州へ攻め込む理由が掲げられない。そこで頼朝の側で重用されていた大庭景能(國村隼)が『十八史略』前漢文帝の「軍中には将の令を聞き、天子の詔を聞かず」という故事を引いてこれを正当化しました。名目は「奥州藤原氏が朝敵の義経を匿っていたことは重罪だ!」でした。朝廷からの許可もなく(後にしぶしぶ事後承認)、頼朝自身が指揮を取るなど本気度が覗えます。奥州軍は、大規模な抵抗を見せましたが、源頼朝軍に敗北。藤原国衡は北へ逃亡しようとしますが、和田義盛(後の鎌倉幕府の御家人になった人物.横田栄司)に討たれ戦死。藤原泰衡は、多賀を捨て、さらに北の平泉に逃げました。奥州軍は阿津賀志山の戦いで多くの戦力を失い、実質的に軍は崩壊。その後、大きな戦闘は起こらず、北へ逃げる藤原泰衡とそれを追う源頼朝軍の小競り合いが続きます。阿津賀志山の戦いの時点で勝敗は決しており、残りは消化試合みたいな感じでした。藤原泰衡は厨川(くりやかわ)をさらに北上し、北海道への逃亡を考えていたのでは?なんて言われていますが、その前に泰衡は命を落とすことになります。逃走中、側近に裏切られ殺されてしまったのです。こうして4代続いた奥州藤原氏は滅ぶことになります。

 さて、義経の首は黒漆塗の首桶に納められ、美酒にひたされて鎌倉へ送られました。しかし時は夏、旧暦の6月でしたからおそらく腐敗はかなり進んでいたと思われます。だから義経の首はじつは偽物であったという生存説が生まれ、それがさらに拡大されて義経は北海道から樺太、そして大陸へと逃れ、やがてはジンギス・カーンになってアジア大陸を駆け巡るという巷説が生まれることになりました。じっさいには二人のいた年代にいささかのズレがあるのでそんなことはありえませんが、民衆のヒーローの生存を望んでいたからなのでしょう。

 話は変わりますが、大河ドラマの中で、工藤祐経(くどうすけつね.工藤 祐経)に後ろから「人殺し!」と叫んで石を投げつけては逃げる二人の子どもたちがいました。これが曽我兄弟です。成人して親の仇討ちを果たしました。これが日本三大仇討ちと言われる「曽我兄弟の仇討ち」として多くの謡曲や歌舞伎作品にも取り上げられました。
 次回はこれを深堀する予定です。

 また、一年半にわたる義経の逃亡は能の『安宅』、歌舞伎の『勧進帳』として取り上げられ、『義経千本桜』という昼・夜一日がかりの作品にもなっています。あまりに長いので、各パートを独立して上演されるのもしょっちゅうです。その中の『碇知盛(いかりとももり)』は故・二代目中村吉右衛門などが好演していました。
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