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2022年05月21日01:52

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新宮行家(しんぐうゆきいえ) 下

 木曽義仲(青木崇高)とともに京に入った源行家(杉本哲太)ですが、ここでも彼はいかにも「らしい」ことをしでかしてしまいました。それは「序列」への執着です。やんごとなき人の前に侍るときは、順番をつくって縦に座るのが通例ですが、彼は義仲の下手に回るまいと、横に並んで座ったのです。これには後白河もさぞかし驚いたことでしょう。
 で、朝議で出た結論として勲功は頼朝(大泉洋)→義仲→行家の順になりました。現代の目から見ても何もしなかった頼朝の位置づけには疑問が残りますが、負けいくさばっかりだったはずの行家でしたが分不相応にも不満を述べました。交渉の結果、備前守に据えられ。平家の没官領地だった90カ所の土地も与えられました。おそらく新宮行家は京ことばに終始したのでしょう。無骨な信州ことばしか話せない木曽義仲と違って気にいられたのでしょう。悪運の強さもあって行家は、木曽義仲のように都の人びとから嫌われずにすみました。詳細は省きますが、義仲は宮中のルールに疎く、連れてきた軍勢が都で略奪を働き(畿内は大不作だったから)、そして以仁王の遺児・北陸宮を次期天皇として推薦するなど、後白河の神経を逆なでしたのでした。行家ばかりが後白河に気に入られ、双六相手をするなどが気に入らなかった木曽義仲は行家と険悪な仲になってしまいました。身の危険を感じた行家は平家討伐のためと称して京から抜けて平家軍と戦いますが、やっぱり敗北。河内の国の長野城に立て籠りましたが、今度は義仲の部下である樋口兼光が追手として派遣され、またまたまたまた破れて紀伊の国に逃げ込み、潜伏生活に戻ってしまいました。
 ここでまた運命が好転。木曽義仲が頼朝が派遣した源義経 NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』もいよいよ一つの架橋を迎えつつあるようです。TwitterなどのSNSでは「すべてが頼朝(大泉洋)のせい」とされてきた声が「すべては後白河(法皇.西田敏行)のせ」とか「すべては行家のせい」とする声に変わってきているそうです。
 今回は源行家(杉本哲太)について取り上げてこます。まずはこちら。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E8%A1%8C%E5%AE%B6
 源行家
 ここでも書かれているように行家は源為義(小日向文世)の十男、頼朝の父である義朝の弟です。20年ほど紀州・熊野の新宮に潜伏していましたので当初は「新宮十郎」と名乗っていました。
 行家の人物的な特徴はとにかく戦(いくさ)にメチャメチャ弱かったこと、そして野望や名誉心が分不相応に強かったことです。だから源頼政(品川徹)や以仁王(木村昴)の意向を汲んで平家誅伐の「令旨(りょうじ.命令書)」を全国の源氏に配って歩きました。しかし自身は立ち上がっていません。この行家の行動を不審に思った熊野別当の湛増(たんぞう.)は令旨の存在に気づき、都の平氏に告げたので、たちまち平清盛の知るところになりました。以仁王・源頼政の側の準備不足もあってたちまち玉砕。二人はこの世から消えてしまいました。言うならば死亡フラグを呼ぶ男・新宮行家の最初の犠牲者でした。以後、このパターンは何度も繰り替えされます。
 次に行家と組んで立ち上がったのは義朝の八男・義円(成河)でした。ドラマでは義円は鎌倉の頼朝のもとに参じたように描いていましたが、史実では頼朝とは別行動で行家とともに平家軍と対峙しました(墨俣川の戦い)。しかし惨敗。義円は川を渡って敵陣営に潜入していたところを見破られ、服が濡れていることから見破られ、たちまち斬首されました。はい、二人目の犠牲者(@_@;)
 ちゃっかり勢力圏にしたはずの三河国でも惨敗。各地に自分の基盤を作るのはうまかったようです。そして鎌倉に甥の頼朝を訪ねて行きましたが、待遇に満足できず、領地を所望しましたが断られたことから頼朝と不仲になり、頼朝のライバルのはずの木曽の源義仲(青木崇高)の元へと出奔。このことが後の頼朝と義仲とのあいだの緊張関係を生む原因のひとつとなりました。義仲と行動をともにするようになって信濃から北陸へ出陣。義仲の率いた軍勢は倶利伽羅峠の戦いで圧勝。
https://ja.wikipedia.org/wiki/倶利伽羅峠の戦い
 倶利伽羅峠の戦い

 しかし行家のほうはまたまた惨敗。義仲が救援に駆けつけてくれたので一命をとりとめました。やはり行家は弱い(ノ´Д`)、しかししぶとい(-o-;)
 平家の兵糧の補給地であった北陸を制圧し、またここで以仁王の遺児を手に入れた義仲はこれで「朝敵」とされることもなくなったので、都へ兵を進めることになります。でも行家が一緒なので一抹の不安があります(-_-;)
 義仲が鎌倉軍によって滅ぼされると、後白河の助けよって再び義仲のいなくなった京に戻りました。ここでまたちゃっかり。行家は源氏の本拠である河内の国をおのがものとしてしまいました。平家追討の鎌倉軍には加わらず、和泉国と河内国を根城とした独立した勢力になりました。おそらく頼朝やその弟たちに対して「叔父だぞ」というプライドがあったのでしょう。やがて頼朝と源義経(菅田 将)のあいだに隙間風が忍び込むようになると、行家は義経に接近しました。頼朝は自分に従わない行家を討伐する計画をしましたが、壇ノ浦の戦い以後、頼朝と不和になった義経は行家と結託。ここにとうとう義経の死亡フラグが立ったのです。行家は得意の交渉術を使って反頼朝勢力を結集し、鎌倉と対峙するのでした。そして後白河に直訴し、頼朝追討の院宣をGETしました。鎌倉の武士勢力を快く思っていなかった後白河は行家を四国地頭に、義経を九国地頭に補任(ぶにん)して、頼朝を追悼するように手を打ちました。
 しかし残念ながら行家・義経に与する武士はほとんど現れませんでした。おそらく各地の勢力も行家のいくさでの弱さと義経のいくさでの身勝手さを知るところになっていたのでしょう。逆に同族の摂津源氏や多田行綱の襲撃を受けるという有様でした。義経とともに西国で再起をはかろうとしましたが折からの暴風雨により大物浦で船は難破。そこで行家は義経と別れ、一族とともに和泉国(大阪府南部)に潜伏しますが、地元民の通報により、頼朝に居場所がばれてしまいました。ここに頼朝の命令を受けた北条時政(坂東彌十郎)の甥(一説には従兄弟)にあたる北条時定によって捕縛され、子の光家・行頼と一族もろとも斬首されてしまいました。おそらく40代前半だったろうと推測されます。このくだりは大河では描写されず、ただ長澤まさみのナレーションのみで説明されました。2005年の大河ドラマ『義経』ではきちんと描かれたそうですが。
 一説によると行家の一族の一部は生き残り、熊野に戻って新宮氏として続き、戦国時代に没落するまで続いたともされます。また、同じく一族の末裔である中野一安(かずやす)は織田信長の家臣として仕えていたとも言われます。
 とにかくポンコツなのに上昇志向はすごかった行家は頼朝が鎌倉で武士の独立勢力が誕生するのをこころよく思わなかった後白河に利用されたとも言えます。交渉能力には長けていたのでおのが限界を自覚していれば歴史は変わっていたかもしれません。しかしあまりに名誉欲が強すぎたのでやはり無理かなー。
 大河ドラマでは長澤まさみのナレーションで、本作のナレ死(本編では描かれず、ナレーションのみで死を伝えられること)1号とみられる扱いを受け、「源行家 彼を味方につけた者は必ず負けるという死神のような男。鎌倉方に捕まり、首をはねられるのはこれより少し後のこと」と伝えられ、行家は暗躍に失敗し、情けない顔をして愛馬に寄りかかりましたが、馬が迷惑そうに首で跳ね返すシーンを最後に、ドラマから退場してしまいました。ネット上は「死神と呼ばれナレ死に笑」「語りにも死神って言われちゃった」「死神扱いのうえナレ死」「ナレーターが冷たい」「死神って言われたw」「まさみ半笑い」「最後までいいとこなかったな叔父上」「行家おじさん お馬さんもちょっと嫌がってないか」と反応する投稿で沸きに沸きました。
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