「久しぶりに駅前のそば屋から出前を取った。
息子は天ぷらそば、娘はチャーハン、私は山菜そば。盛りがよくてみんなおなか一杯になり、もしかして足りないかもしれないと頼んだ焼き鳥が「あるなら食べる」くらいの低い志で食べる流れになってしまった。とはいえとてもおいしかった。
子どもたちの体が大きくなり、こうして私が作った食事ではなく店屋物などを食べているとまったく、私が養っている感じがしない。
彼らは私が産んだ。私の体から出てきた人たちではあるが、どこか偶然集まった人たちのように思う」
この文章は、中学生の息子さんと、小学生の娘さんと、三人暮らしをしている母親が先日アップしたブログだ。
いろいろ勝てないなぁ、と思わされた。
まず文章表現。
三人で囲む夕食の情景が、よく目に浮かんでくる。
特に焼き鳥のくだりなんか、その場の空気や親子関係なんかも伝わってきそうだ。
次に視点。
夕飯を店屋物で済ますことへの意識は、私の住む世界とは別宇宙としか言いようがない。
例えば私が夕食をテーマに日記を書き続けたとしても、自炊と店屋物との違いに触れることはあるだろうか。
あったとしても、お店の料理には手作りでは敵わないなとか、手料理のほうがコストパフォーマンスがどうこうとか、そんな話題にしかならないだろう。
あくまで視野が狭い、というか食べるものから食べさせるものという視点の移動は想像できない。
最も強く思ったのが切り口。
家族であってもそれぞれは独立した個人であるのは間違いない。
法律的にもそうなっている。
そんな乾いた切り口ではなく、もっと形として表現できない絆の存在を前提に、あえてそれを引き離すような表現をすることで、冗談のような雰囲気が醸し出されている。
そのうえ、ああ世の中にはそんな世界もあるんだなという感情が『偶然集まった人たち』というたった一言で、私の中で一気に爆発的に広がった。
なんという鋭い切り口だろう。
この世は広いなと感じることがある。
遠い外国との物理的な距離の事もそうだけれど、個人が持つ常識や世界観の広さって、本当に千差万別だ。
十人十色とはよく言ったもんだ。
チョコレート菓子の大袋も、私の日常としては一人前のおやつ一回分なのだが、先の親子にとっては、また別の見方があるのだろう。
偶然見つけた面白いブログに、嫉妬のあまり、頭を両手で抱えながら絶叫しつつ、床を転げまわる様を、日記で書こうと思ったのだけれど、むつかしい。
https://mabatakiwosurukarada.hatenablog.com/entry/2022/03/25/142159
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