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2022年01月28日05:23

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江戸幕府の最後の時の流れ

幕府が朝廷の許しをえないまま通商条約を結んだことで、天皇をとうとぶ尊王論が高まりました。また、外国の勢力を追い払おうとする攘夷論も高まり、これらの考えは尊王攘夷運動となってあらわれました。

尊王攘夷運動の拡大をおそれた幕府の大老井伊直弼は、幕府に反対する大名や武士、公家らを処罰しました(安政の大獄)。しかし、1860年、江戸城の桜田門外で暗殺されてしまいました(桜田門外の変)。

このような中、尊王攘夷運動の中心であった長州藩(山口県)は、下関で外国船に砲撃をおこないました。一方、生麦事件ののちイギリスと薩英戦争を経験し、攘夷ができないと考えた薩摩藩は幕府側について、京都から長州藩士おい出しました。

この時期に下関の砲撃事件の仕返しとして、イギリス、フランス、アメリカ、オランダの四国連合艦隊が下関の砲台を占拠しました。欧米の強さを知った長州藩は、攘夷ができないことを知り、長州藩を征伐しにきた幕府に従う事を決めました。

攘夷ができないことを知った長州藩の桂小五郎(木戸孝允)らは、幕府を倒して欧米に負けない国づくりをしようと考えました。そして、坂本龍馬の仲立ちで、西郷隆盛や大久保利通らが実権をにぎる薩摩藩と長州藩とがひそかに薩長同盟をむすび、幕府を倒す大きな勢力となっていきました。

薩長同盟ののち、幕府はふたたび長州藩に軍隊をおくりましたが、今度は薩摩藩の応援もなく、敗れてしまいました。一方、乱れた世の中を改める「世直し」を期待した農民一揆が全国で多くおこるようになりました。

また、「ええじゃないか」とはやしながら熱狂する民衆の騒ぎが東海から西日本にかけておこりました。このようななか15代将軍徳川慶喜は、徳川家が新しい政権のなかで主導権を握る事を考え、政権を朝廷にかえしました。これを大政奉還とよびます。

一方、西郷隆盛や岩倉具視らは朝廷を動かして、王政復古の大号令を出しました。これによって、長く続いた武士による政治がおわりました。大政奉還ののち、新政府の方針に不満をもつ旧幕府の勢力が、1868年1月に鳥羽・伏見の戦いをはじめました。

そののち、旧幕府勢力は上野(東京都)、会津(福島県)などで政府軍と戦いましたが負けました。最後に1869年5月、五稜郭の戦い(北海道)で旧幕府軍は降伏し、戊辰戦争とよばれる戦いは終止符を打ったのです。

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