日米和親条約をむすんだ翌年の1855年、アメリカの外交官であるハリスは初代のアメリカ総領事として下田(静岡県)に着任し、幕府に通商条約をむすぶことを要求しました。幕府もこれ以上アメリカの要求をことわることができなくなり、1858年、日米修好通商条約に調印しました。
この条約によって、函館、神奈川(横浜)、長崎、新潟、兵庫(神戸)の五つの港がひらかれ、自由な貿易がおこなわれるようになりました。しかし、条約の内容は、領事裁判権をみとめ、関税自主権がないといった、日本にとって不利なものでした(不平等条約)。
この後、オランダ、ロシア、イギリス、フランスとも同じ内容の条約をむすび(安政の五カ国条約)、日本は本格的に欧米と貿易をおこなうようになっていきました。貿易額は横浜港がもっとも多く、日本の貿易の中心となりました。
日本からは生糸や茶などの農産物が輸出され、外国からは毛織物や綿織物、武器などの工業製品が多く輸入されました。また、最大の貿易相手国はイギリスであり、アメリカとの貿易額は南北戦争の影響で大きく減りました。
貿易が始まると、産業革命によって大量生産されたヨーロッパからの安い綿織物などが大量に輸入され、国内の生産地は大きな打撃を受けました。また、多くの農産物を輸出していた日本では品不足となり、物価が急上昇しました。
物価の上昇は米などの日用品などにも広がり、人びとの生活は苦しくなっていきました。また、貿易によって大量の金が国外に流出したため、幕府は質の悪いお金を発行して補おうとしましたが、物価はさらに上昇してしまいました。
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