武士は合戦となればたがいに相手方の所領を実力でさしおさえ、勝利とともにそれら「敵方没収地」を恩賞として受け取るのが、長い間のならわしです。敵味方がはっきりしている場合にはそれは容易に行われました。ところが、二年にわたる元弘の戦乱の場合は複雑でした。もともとほとんどの武士が幕府方だったのに、最後まで鎌倉防衛にふみとどまった武士はごくわずかであり、幕府滅亡の大詰めでは、そのうちの多くの人びとが追討軍に転じているのです。そのなかには積極的に足利尊氏や新田義貞の手に加わったものも少なくありませんでしたが、それ以外の人びとは、最後の局面では、幕府方か天皇方かの判定もむずかしい状態にあったのが実情です。(この項つづく)
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